第10話侵略

 やるなら、陽のあるうちに決着をつけてしまいたかった。

 夜の闇が訪れたら行動するのは危険だし、どんな幻覚が始まるかもわからない。

 俺はすぐに仕事を開始した。


 まず電池式のランタンを持ち出して、軽トラックに積む。予備も残さず運んだ。

 それから土鍋など、いくつかの調理器具。

 新しいガス釜を見つけて設置するには、手間がかかる。

 しばらくはインスタント食品がメインになるだろうが、出来る限り米も食いたかった。

 それから忘れずに予備のボウガンと刃物などの武器も積む。

 あとは自慢の寝袋とマットレス、当分の着替え。

 最後に大きな買い物袋いっぱいに、まだ読んでない本を詰めて、トラックの荷台へ載せた。

 とりあえずは、これで十分だった。


 ふと思いたって、マサキの死体に線香を供えた。

 これで思い残すことも特にない。


 俺は車に乗り込んだ。

 軽トラックをスタートさせて、この家を後にする。

 ノロノロとした速度で軽トラックを運転していく。

 人も車もなく、信号も消えている。

 快適な道だった。

 だからといってスピードを出しても得はない。

 今日のところは、遠くへ行くつもりじゃなかった。

 目標である駅前は再開発がされて、作りのしっかりした高層マンションが建ち並んでいる。そこのどこかへ潜り込もうと考えていた。


 ハンドルを握り、死んだ街の中をゆっくり流す。

 統合失調症患者の生き残りは、マサキのほかにももう少し居てもよさそうなものだったが、みんなどこへ消えてしまったのか。

 病禍を生き残っても、絶望して自ら命を絶ってしまったか。

 それとも家から出ることもできずに餓死してしまった可能性もある。

 薬が手に入らないのだから、そうなるのもしかたない。

 反対に、俺よりずっと頭が切れて、どこかで快適な生活を送っているのかもしれない。

 俺は俺で、一人で静かに過ごし、飯さえ食えればそれで概ね満足だった。


 何事も起こらず、車は道幅の狭いT字路に達した。

 ここを左に曲がれば、マンション群が目に入るはずだった。

 俺は癖でウィンカーを出し、左へハンドルを切った。

 開けた直線に入って、マンションの様子を見ようと視線を伸す。


 目に入った光景が、俺の喉を詰まらせた。

 反射的に急ブレーキを踏んで停車する。

 

 目的地であった高層マンションの壁面を、巨大な虫の群れが這っていた。

 どの一匹をとっても、体長は二メートルを超える。

 数は十以上。

 ダンゴムシに似ていたが、毒々しいピンク色をしていた。

 虫が身体をうねらせるたびに、節目が蛍光ブルーの光を発して輝いた。


 マンションはまるで、そいつらの巣と化していた。

 こんな状況じゃなければ、ある意味幻想的で美しかっただろう。

 今は吐き気が込みあげてくる。


 俺はブレーキを踏んだまま、ハンドルに突っ伏した。

 こんなことまで起こり得るとは。

 あの異世界の生き物どもには、出来る限り近づきたくない。

 マサキは、あいつらの残した体液に触れただけで、燃えカスになって死んだ。

 あの虫どもに攻撃の意思がなく、俺を放っといてくれるとしたって、近くにいるだけでどんな死に様を迎えるかわかったもんじゃない。


 ここから望める光景を見る限り、高い場所に住むのも問題だとわかった。

 何かが起こったときに、逃げ場がなくなる。

 一戸建てに住むほうが安全だ。

 本当にそうだろうか。

 俺はもっとマシな生活はないだろうかと頭を捻る。

 唐突に閃いた。

 キャンピングカーがあればいい。

 キャンピングカーに触れたことはなかったので詳しく知らないが、照明はつくはずだし、たぶんシャワーを使うこともできるんじゃないだろうか。

 異世界からの生物が現れ始めたら、よそへ移動するのも楽だ。

 もっと早く思いつきたかった。

 しかし俺は、基本的に一箇所へ篭もるのが好きだった。

 こんな状況に追い込まれなければ思いつかなかっただろう。


 俺はまだ生きているし、これからも生きるつもりだった。

 絶望など、病気を発症した直後に乗り越えている。

 明日は車中泊の容易な、大型のワゴン車を探そう。

 明後日にはこの街を離れる。

 もっと大きな都市へ行ってキャンピングカーを探したい。


 状況は悪くなるばかりだったが、生き残りに向けて考えをまとめられた。

 今日はこれ以上遠くへ行けない。

 暗闇の中で作業するハメになってしまう。

 すでに太陽は傾き、色濃くなっていた。

 今晩は家に戻るしかない。

 緊張の連続で精神が擦り切れそうだった。

 夜には激しい幻聴に襲われても不思議じゃない。それは覚悟していた。


 軽トラックをターンさせて家路を辿ろうとしたとき、まさに幻聴のようなものが聞こえ始めた。

 改造車のような車の排気音が、遠くから響いてくる。

 どこかに生き残りがいるのかもしれない。

 幻聴の可能性は高かったが、万が一ということもある。

 俺は軽トラックのエンジンを止めて、耳を澄ませた。

 排気音は近づいてきていた。

 今、マンションの裏手あたりを走っているはずだ。

 もうすぐ姿を現すかもしれない。

 俺は耳を澄ませ、開けた直線道路の向こうを注視した。


 果たして、タイヤを軋ませながら、白い車がカーブを曲がってきた。

 車はかなりのスピードで真正面から接近してくる。

 こんな世界になってしまっても、やっぱり人がいる。

 そのことに安心しつつも、俺は迷った。

 自分の存在を相手に教えるべきか、否か。

 少し悩んで、俺は積極的な行動には出ないことにした。

 こちらとしては、ただ通り過ぎるのを眺めるだけだ。

 向こうが止まって接触を試みてきたら、慇懃に相手をしてやろう。

 そう心を決めて、白い車が近づいてくるのを待つ。

 車はスピードを緩めなかった。

 ドライバーの姿が確認できる。

 それを見て、俺は気力がごっそりと削り落とされるのを感じた。

 対向車線のドライバーを凝視しながら、身体を固まらせる。

 白い車は猛スピードで空気を引き裂き、通り過ぎた。

 俺のことなど眼中にないらしかった。

 排気音が遠ざかっていく。

 俺は深く、ゆっくりと息を吐いた。

 孤独を感じながら。


 ドライバーは男でも女でもなかった。

 人間じゃなかった。

 この世のものとは思えない異形の生物が、この世の車を運転していた。


 枯れ枝のような腕でハンドルを握っていたのは、極彩色をした黴の塊だった。

 頭がどこにあったのかもわからない。

 動いていなければ、生き物だとも思えないだろう。

 あんな姿をしていても車を運転できるのだから、人間と同等かそれ以上の知能を持っているのは間違いない。

 異様な姿をしただけの動物とは違う。


「ああ……」

 ハンドルに軽く頭を打ちつけて、俺は嘆息した。

 マサキの言っていた話は、いったいどこまでが真実だったのだろう。

 あれは言ってしまえば、あいつの想像の産物、妄想に近い話じゃなかったのか。

 しかし、あいつの言った通りに、よその世界からの生き物が、この世界に入り込んでいる。

 これは侵略とも言えた。


 つい先日まで、俺はこの世界の領主だったのに。

 不自由ながらも、静寂の中で、孤高の生活を楽しむことができていた。

 それが今じゃ辺りは化け物だらけ。

 俺の領地は乗っ取られ、端っこのほうへ追いやられていく。

 俺は緊張し、ストレスに晒されているのを感じた。

 静謐は破られ、聞こえもしない音で頭の中が騒がしい。

 俺は今、論理的に考えることができているだろうか。

 それも疑わしい気分だった。

 薬はない。

 すぐにでも休息が必要だった。

 ある程度の危険を伴うにしても。


「早く家に帰ろうよ」

 子供の声で、灰皿がそう言った。

「言われるまでもない」

 俺は幻聴に返事をし、車をターンさせる。

 家に戻るしかなかった。

 気分は苛ついたが、慎重にゆっくり車を走らせる。

 十字路に差しかかったとき、クラクションを鳴らされた。

 驚いて急ブレーキを踏む。

 今、この世界には車を運転する怪物もいる。

 俺は緊張しながら周囲を見回した。

 車など、どこにもない。

 幻聴のようだった。

 実のところ、クラクションの幻聴は昔から多かった。

 自分の脳に欺かれて、怒りが燃えあがる。

 しかし、幻が相手では怒りをぶつける場所もなかった。

 俺は冷静になろうと務めながら、車の運転を続ける。


 それから幻聴もなく、家まで帰りつくことができた。

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