第9話昇天
マサキは興奮して身を乗り出してきた。口から唾を飛ばして捲し立てる。
「やっぱり世界はバラバラになりかけてるんだ! 形を保てないんだ! 人間がいないから! バラバラになりかけて隙間だらけなんだ! だからその隙間からあいつらが入ってくる! あいつらはこの世界を乗っ取ろうとしてる生き物の偵察隊なんだ! あいつらは世界を保つだけの知能がある、別の世界の人間なんだよ!」
マサキが熱くなりすぎているからか、俺はその説に異を唱えるつもりはないものの、妙に冷めた気持ちだった。
この世界が乗っ取られてすべてが終わるのならそれでもいい。
むしろ、それが現実であるほうが望ましいくらいだった。
病気による幻覚じゃなければ、そのほうがいい。
幻覚に怯えながら死んでいくのは嫌だった。
落ちついた気分で、俺は懸念をぶつけてみた。
「こっちを襲ってくると思うか? おまえの見立ては?」
マサキは幾分落ちつきを取り戻して言った。
「こっちを無視してると思う。こっちからちょっかいを出さなければ、ほっといてくれるような雰囲気だよ……」
俺は慰めるような口調を心がけて口を開いた。
「そうか。戦おうたって、こっちは無力だ。本当に世界を欲しがってるなら、くれてやるしかない。あいつらが入って来たら、こっちはよそへ引っ越し、そこにも来たらまた引っ越す。そうやって世界の端まで行くことになるだろう。俺はただ、苦しまずに死ねればいいと思ってるよ」
マサキは俯いて黙ってしまった。しばらくそうしたあとで口を開く。
「俺は、俺の仕事を続けるよ……」
「そうか」
マサキの想像が事実だったとしても、その仕事は何の役にも立っていないだろう。抗う力としては小さすぎる。
「まあ好きにすりゃいいさ、死なない程度にな……。ところでマサキ、薬はぜんぜん持ってないのか? 俺はどうも幻聴が出てきたらしいんだ。本当の幻覚と、幻覚みたいな現実の間で板挟みだ」
マサキは申し訳なさそうに答えた。
「俺だって薬は持ってないよ。探してはいるんだけどさ」
元々期待していない。俺は簡単に諦めた。
「わかった、気にしないでくれ。できるだけ睡眠を多くとるさ……」
「食べることと寝ることしかないね。そういえば、腹が減ってここへ来たんだ。今日もごはんをわけてよ」
「ああ、好きにしてくれ」
俺はそう言って、ガス釜のほうへ顎をしゃくってみせた。
マサキは立ちあがって釜のほうへ行く。
もちろん、釜の中には米がない。
俺は軽い悪戯心を起こしたのだった。
釜の蓋を開けようとすれば、謎の生物が残した粘液を触ることになる。
そのとき、マサキがどんな顔をするか見たかった。
後ろで俺が見守っていると、マサキが釜の蓋に腕を伸ばした。いよいよだ。
マサキが釜の蓋に触れた、その瞬間。
軽い爆発音がして、マサキの身体が白い炎に包まれた。
マサキは小さく叫んで倒れ、芝生の上でもがく。
炎は粘っこくて消えなかった。
まるでマサキの身体そのものが燃料みたいだった。
俺は事態を把握できなくて、数秒、呆然としていた。
悪夢のような推測が閃く。
謎の生物が残した粘液は、俺たちの身体に付着すると激しく燃えあがる。
それしか考えられなかった。
「マサキ、しっかりしろ!」
俺は声をかけ、家の中へ走り込んだ。
押し入れを開け、持てるだけの毛布を持って外へ戻る。
その毛布を、声も出せずに転げまわるマサキの上へ覆い被せる。
それだけじゃ火は消えなかった。
何枚もかけ、俺はマサキの身体を撫でるように抱き締める。
効果あるかわからないが、酸素を断つしかなかった。
焦げた肉の臭いを残して、火は消えた。
マサキの身体から、焼けた毛布を剥がしていく。
マサキは服の燃え残りもないほど、黒焦げになっていた。
ほぼ焼死体のボクサー姿勢になっている。
右手は燃え尽きてなくなっていた。
それでも喉がひゅーひゅーと鳴っていた。
恐ろしいことに、ここまで焼け爛れていても、マサキはかろうじて生きているようだった。
もう助ける方法なんてあるわけがない。
できるのは、苦しみを終わらせてやることぐらいだった。
俺はテーブルへ歩いていき、ボウガンを手に取った。
鋭く尖った黒い矢を見つめる。
これで生き物を撃ったことはまだなかった。
今こそ使うべきときだった。
この矢の一撃で素早く命を断ってやるには、頭と心臓、どっちを撃ったほうがいいのだろうか。
心臓の正確な位置はわからないし、頭だって下手に撃てば生き長らえる。
いや、後頭部か。
小脳を貫いてやれば、速やかに死ぬはずだ。
狙いは定まった。
決意を固めたとき、乾いた足音が聞こえた。
反射的に顔をあげて目を向ける。
訪問者を確認して、背筋に緊張が走った。
『青い目』が立っていた。宝石の瞳で俺を見おろしている。
宝石と金で装飾された骸骨が、この前と同じように、豪華な刺繍の施された青いローブを着て、右手に大きな鈎を持って身体を揺らしていた。
水中に漂う水草を思わせる動きで、青い目が動き出す。
宝石と金で飾られた足の骨が、芝生を踏んで近づいてくる。
青い目の身体からは麝香の匂いがしていた。
俺は無駄だと知りつつ、ボウガンで剥き出しの頭蓋骨を狙った。
青い目は気にした様子もなく歩み寄ってくる。
口の中が乾いた。
こいつの目標が、死にかけのマサキならいいが。
そう思いながら、俺は青い目に道を開けた。
ボウガンを構えたまま脇に寄る。
青い目は顔をこちらに向けたが、身体はまっすぐ進んだ。
俺の前を通り過ぎて背中を見せる。
俺に構うことはしない。
俺はやっと安堵の息を漏らすことができた。
青い目はそのまま進み、黒焦げのマサキを見おろして立った。
何をするのか、俺は固唾を呑んで見守る。
青い目はマサキへ覆い被さるように身を屈めた。
次いで、右手の鈎を振り下ろす。
鈎はマサキの胸に突き刺さり、青い目の動きが一瞬止まる。
直後、青い目は鈎を振り抜いた。
パンという破裂音に続いて、裸のマサキが上へ飛び出す。
肌は綺麗で健全な姿だった。
まったくの実体に見える。
裸のマサキは弾丸のように飛び去った。
一直線に空を上昇して消える。
俺は言葉もなく、その姿を見送った。
空の彼方に消えるのだから、天国へ行くのだろうか。
いや、天国なんてあるとは思えない。
ただ、この壊れかけた世界から、別の宇宙に運びだされただけなんじゃないか。
そんな考えのほうが、俺には納得がいった。
衣擦れの音とともに、青い目が動き始めた。
こちらを振り返ることもなく、揺らめく足取りで庭の奥へ向かう。
青い目は家の角を曲がって、奥へ姿を消した。
その先には物置があって、行き止まりだった。
だが、俺は興味もそそられず、後を追わなかった。
地に潜るか、壁を突き抜けるか、どうせどこかに消えるのだろう。
俺の家には再び静寂が訪れた。
マサキの喉も、もう音を立てていない。
どこかから、雉の鳴き声が聞えた。
重要な事実は一つ。
この家に死体が増えた。
お袋が腐っていくのとともに、マサキも腐敗していくだろう。
家の中も外も、悪臭で満たされることになる。
一人に慣れすぎて、嘆くような気持ちも湧いてこなかった。
懸念といえば、やはり自分のことだった。
幻聴はマサキの死体も、都合のいい材料にするはずだ。
俺の脳はきっと、お袋だけじゃなくて、マサキにも喋らせる。
それだけじゃない。
苦労して設置したガス釜も、今じゃ危なくて触れない。
白熱した炎に焼かれる危険があるなら、近くにも寄りたくないくらいだった。
こうなると、マサキやお袋の死体を片付けるよりも、俺が出ていったほうが早い。
俺はこの家を捨てるときが来たことを悟った。
引っ越さねばならない。
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