第7話してやられる

 あっという間に目覚めた。

 そんな感覚がした。

 外にはまだ陽射しがない。

 しかし、薄明かりにはなっていた。

 時計を見て確かめると、六時間以上は寝ている。悪くない。


 睡眠時間には満足できたが、苦々しい気持ちも込みあげてくる。

 薬の手に入らない状況で、幻聴がぶり返してしまった。

 これ以上酷くならなければいいが。


 今朝は家の中の腐敗臭が一段と強いような気がした。

 寝袋を抜け出して、お袋の寝室へ向かう。

 ドアを開けると、強烈な臭気が溢れてきた。

 ベッドへ目を向ける。

 臭いの原因は、一目瞭然だった。

 お袋の死体がバラバラに切断されている。

 四肢は黒く萎びた筋肉と骨が剥き出しになり、溶けた内臓が腹から溢れ、ベッドに染み込んでいた。

 首はベッドの下に転がっている。


 マサキの仕業だろう。

 たぶん、昨日帰ってきたときには、すでにこうなっていた。

 昼間、俺が出かけている間に作業されてしまったに違いない。

 もはや遺体というより、腐った生ごみに近い。

 もう、毎朝この部屋を覗かなくてもよくなった。

 お袋は完全に消滅したも同然だった。


 マサキはまったく頭のおかしい男だ。

 腐敗した汁に塗れながら、悪臭を我慢して、死体を鋸挽きにするなんて、想像するのも面倒くさい。

 誰に頼まれるでもなく、それでいて使命感を持って、こんな作業をして歩いているという。

 実際に作業の結果を見せられると、俺としては奴をどこまでまともと扱ったものか、かなり迷う。


 母親の遺体に悪戯をされたともいえる状況だったが、それに関しては特に怒りもない。

 俺は死者を敬う心など、持ってはいなかった。

 バラバラ死体を見て、最初の一瞬、驚かされたこと以外には、さして文句もなかった。

 しかし、マサキが顔を見せた場合には、何か文句を言っておくべきかもしれない。 

 人の所有物を勝手にいじくったようなものだった。


 俺はため息を一つつくと、ドアを閉めて台所へ向かった。

 洗面器にペットボトルの水をあけて、顔を洗う。

 この水は米を研ぐのにも使うのでとっておく。

 小便がしたくなったので表のトイレへ向かおうとしたとき、外から物音が聞こえた。

 マサキが来ているなら、文句を言ってやらねばならない。

 俺は部屋に戻ってボウガンを取ってきた。


 玄関へ降りていこうとして、その足が止まる。

 すりガラスを隔てた外の様子が、何かおかしかった。

 肌色の大きな塊が、芝生の上を這いずっているように見える。

 もしかしたら、別な生き残りが現れたのだろうか。

 俺は足音を忍ばせて玄関へ降りていった。


 外の物体は奇怪な蠢きを見せていた。

 人間離れしている。

 それに二つ以上いるようだった。

 玄関の鍵を開けては気づかれるので、俺は郵便受けを指で押しあげて外を窺った。

 その姿を見て息を飲む。

 カマドウマに似た生き物が二匹、ガス釜を物珍しげにいじくっていた。

 肌色をした肉質の皮膚は、昆虫のような外骨格じゃない。

 身体の節々には、陰毛のように縮れた白い毛が密集していた。

 足が四本あり、その他に指のついた腕が二本。

 頭らしきものはつるっとしていて、眼や口がどこなのかわからない。


 俺は為す術もなく見守る。

 一匹がガチャンと音を立てて、ガス釜の蓋を閉じた。

 それから二匹は揃って隣の家のブロック塀に向かい、塀に吸い込まれるようにして消えてしまった。

 俺は安堵の息を吐いて、緊張を解いた。

 どこかへ歩み去るのではなくて、消えてくれたのはありがたい。

 俺はさらにしばらく様子を窺ったものの、奇怪な生物が戻ってくる気配はなかった。


 鍵を開けて、用心しながら外へ出る。

 もう尿意が限界だった。

 庭の隅の穴へ行き、首を振って警戒しながら、手早く用を済ませた。


 落ちついてから、あいつらのいじっていたガス釜を検める。

 ガス釜の蓋の取手、あの生き物が触っていた部分に、透明な粘液が付いていた。

 触らないように気をつける。

 こんなものを残す幻覚などない。

 元々あんなに大きな幻視など見たことなかったが、やっぱりあの生き物は現実だった。

 このガス釜には、しばらく触りたくない。

 家の中に戻って、ガスコンロで食事の用意をしよう。


 玄関に戻りかけたとき、お袋の部屋から声が聞こえた。

「ちょっとー、早く来てー」

 お袋の声だった。

 確かめるまでもなく幻聴。

 ここまで現実と乖離した幻覚なら、心惑わされることもない。

 俺は焦ることもなく、その声を無視した。

 幻聴の相手をしてはいけない。

 受け答えなどすると、ますます病状が悪化する。

 昔、主治医によくそう言われたものだった。

 幻聴は巧みに感情へ訴えかけてくる。

 悪魔のようなタイミングの上手さがあった。

 しかし、俺とマサキしかいないようなこの世界じゃ、それほど上手いこともできないだろう。

 自分の脳と戦わなければならないのは嫌気がさす。

 人間がほとんどいないという事実が、大きな慰めになった。


 とりあえず飯を食い、よく眠るしかない。

 俺は家にあがり、台所で食事の支度をした。

 土鍋に米と水を入れて火にかける。

 米が炊けるまで居間で待つことにした。

 静かだった。

 静か過ぎて、幻聴が聞こえはしないかと耳を澄ませてしまう。

 これはよくない態度だった。

 音楽で耳を塞いでしまったほうがいい。

 音楽プレーヤーも音源も、探してくればいくらでもある。

 問題はもちろんバッテリーだった。

 ありったけの音楽プレーヤーを集めてきて、発電機を回して一気に充電してしまおうか。

 そうすれば、ずっと音楽を聞いて過ごせる。

 かなり手間のかかる作業になるが、そのような単純作業に没頭するのも、病気にはいい影響をもたらすはずだった。


 頭の中でその計画を練っていると、再びお袋の声が聞こえた。

「元に戻してー」

 次いで、ドアの開く音。

 これには意表を突かれてぎょっとしてしまった。

 思わず立ち上がり、お袋の部屋のドアを確かめる。

 当然、ドアは閉まっていた。


 幻聴にしてやられた。


 心を動かされてしまったのが悔しい。

 俺はため息をつきながら、ソファに凭れた。

 この、お袋が腐っていく家を出たほうがいいかもしれない。

 しかし、下手に環境を変えると、病状の悪化につながる。

 悩ましいところだった。


 それから幻聴に騙されることもなく、考えごとをしながら食事を終えた。

 やはり遮音性の高いマンションへ引っ越したほうがいいかもしれない。

 高い場所にある部屋なら、街の様子も伺える。

 探せば、死体のない、そういう空き部屋もあるだろう。 

 引っ越しは未定だが、いつでも家を出られるように準備は整えておきたい。

 今日はその作業をして過ごそう。

 俺は大雑把な計画を立てた。

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