第6話戻り来るもの
リュックの中からペットボトルを取り出して、一気にお茶を喉へ流し込んだ。
中身がなくなると、ペットボトルを投げ捨てて、身支度を整えた。
リュックを背負い、ボウガンの矢を外してベルトに引っ掛ける。
こんな場所からは早く離れたい。
俺はスクーターに跨って、キーを回した。
エンジンがスタートし、アクセルを捻って、左足を離す。
スクーターが発進する。
だが、一メートルも進まずに、俺はブレーキをかけた。
行く手に、動物の群れがいた。
住宅街から国道へと通じる出口を、得体の知れない獣が何匹も横切っていく。
獣は赤剥けた皮膚で、毛のない熊のような姿だった。
異様なことには、首から上に頭がなかった。
頭の代わりに白い円盤が中に浮いて、身体の動きについていっている。
地球上の生き物じゃなかった。
どこから現れたのかもわからない。
群れまでの距離はほぼ三十メートル。
向こうは俺に気づいてないか、頓着してない。
俺のほうだって関わりたくなかった。
身体の大きさからして、ボウガンじゃ太刀打ちできない。
口の中が乾いたが、息を飲んで待つ。
辺りに目を配り、骸骨や他の異常に気をつけた。
獣の群れがすべて通り過ぎ、建物の陰に消えた。
俺はさらにしばらく待って、遅れて後を追う獣がいないのを確かめた。
いない。
一息ついてから、スクーターをゆっくり発進させる。
国道に達し、獣の行方を目で追う。
獣の群れは国道に沿って、巡礼のように行進を続けていた。
頭代わりの白い円盤が、くるくると回転していた。
幸いにも、帰り道は獣の群れと逆方向だった。
とりあえず家に帰ることが肝要だった。
無事についてから、後のことをゆっくり考えたい。
俺は気を引き締めて、スピードを出さずに家路を辿った。
一キロも進まないうちに、また異様な光景に出くわすはめになってしまった。
スクーターを停めて様子を見る。
来るときにはあったはずの建物が消えていた。
書店がまるごとなくなり、敷地は大きくえぐられてクレーターのようになっていた。
クレーターは隣接するガソリンスタンドの半分まで広がっていて、道路の一部も削り取られている。
中央辺りでは剥き出しになった土と建物の基礎、水道管が溶けて混ざり合い、非現実的な光景を作り出していた。
俺は言葉もなく、その光景に見入った。
やがて思考が働きを取り戻し、言葉が脅威を警告した。
これは危険だ。
これに巻き込まれたら、どんな死を迎えることになるのか。
想像するのも恐ろしい。
目を凝らし、昨日の車が消えた駐車スペースと共通する特徴はないかと探した。
わからない。
ここを通ったときの記憶を探り、前兆現象らしきものはなかったかと考える。
これも特に思い当たるものはない。
この書店を消した現象と車を消した現象が、同じ種類のものだったなら、救いがまったくないわけでもなかった。
現象が始まってから、車が消えるまでには一分程度の時間がかかっていた。
書店はもっと時間がかかっていても不思議じゃない。
現象の始まりに気づけば、その場所から逃げ出すことは可能だろう。
ただし、自分の家で、寝ている間に始まったら、たぶん終わりだ。
俺は偶然によって大病禍を生き残った。
しかしそれも、ほんの束の間のことでしかないのかもしれない。
この世界では大切なものなど特になかったし、運命を従容と受け入れて過ごすべきなのだろう。
瞬く間に人間がいなくなったが、世界はまた、急激に様変わりしている。
俺はどこまで行けるのか。
最期の瞬間が来るまでわからない。
自分の頭で調査することを諦め、スクーターのアクセルを捻った。
ため息とともに走り出す。
帰りは遠回りをして周囲に目を配ったが、もう特異な事象には出遭わなかった。
太陽の色が濃くなるころ、家に帰った。
お袋が土に近づいていく、その家に。
腹が減っていた。
今日も昼飯を食いそびれてしまった。
庭に入るとテーブルに荷物を置き、すぐ食事にする。
持っていったおにぎりを頬張り、ペットボトルのお茶を飲む。
食事が済んで人心地になると、庭にあるガス釜を検めてみた。
残していた米がなくなっている。
マサキが来たらしい。
あいつのほうが異常な事象に詳しいようなので、また来たら話し合いたいところだった。
俺は荷物を持って、家の中へ入った。
自分が外出するときは鍵をかけていない。
咎める者もいないので押し入るのは自由自在だったし、何を持っていかれても大して困らないからだった。
予備のボウガンや刃物は、押入れの床下に隠してあり、簡単には見つからないようにしていた。
自分が入ると鍵を閉め、三つの電池式ランタンに明かりを灯す。
久しぶりに風呂へ入りたかった。
湯に浸かって垢を落とし、ゆっくり考えたかった。
しかし水道の使えない今、風呂を沸かすのは大仕事だった。
ペットボトルの飲料水を大量に使うことになる。
その手間を思い出すと、風呂に入ることを諦めた。
歯を磨き、顔を洗うと、手間のかかるコーヒーを淹れる。
サイフォンのコポコポ鳴る音と芳しい香りは、かなりの慰めになった。
熱いコーヒーを啜りながら考える。
考えるべきか、考えぬべきか。
徐々に近づいてくるかのような脅威は、抗いようもない強大な力に思えた。
ほぼ自然現象に近い。
超自然現象だったが。
それでも足掻いて、何らかの対抗策を講じるべきか。
それとも何も考えず、突発的な死の危険を受け入れ、平静に過ごすか。
人のいない世界でこそ落ちついていられる俺としては、こうした心の騒ぎが大きなストレスになった。
薬を飲みたい。
薬を飲んで寝てしまいたかった。
だが薬はなかったし、薬を飲んで寝てしまうと周囲に異変が起こったとしても気づかずに終わるだろう。
普通の睡眠を多くとって凌ぐしかない。
いろいろなものが消えたり現れたりしているが、まだ街は静けさに包まれていた。
この静寂は俺にとって味方だった。
不安を忘れ去るために、ランタンの明かりの中で小説を読む。
世界がほとんど物音を立てないおかげで没頭できた。
二時間も架空の物語世界に現実逃避していると、気分はだいぶ落ちついた。
自然な眠りに入れそうだった。
マットレスの上に敷いた寝袋へ潜り込み、ランタンの明かりを消す。
何も考えず、暗闇の中で眠りに落ちるのを待った。
微睡み始めたとき、頭の上で子どもの声がした。
「ぐるぐるぐーるぐる」
押入れの中からだった。
アドレナリンが噴出し、一気に目が覚めた。
次いで、道路に面した窓の外を、子どもたちが声を上げて走り抜けていく。
ランドセルがボコボコと音を立て、足音が遠ざかっていった。
心臓が早鐘を打つ。
俺は寝袋を抜け出した。
まずは押入れの戸を開ける。
中には布団がたたまれていた。
子どもの入る余地などない。
それから窓を開け、外を見回した。
通りは暗く、ひっそりとしている。
元気な子どもどころか、生き物の気配もない。
冷たい風が吹き込んでくるので、ぴしゃりと窓を閉めた。
俺には何が起きているのかわかっていた。
ランタンを点け、部屋の真ん中にあぐらをかいて座り、頭を抱える。
天井が軋んだ。
「あっあっあっあっあっ」
上から女の喘ぎ声が降ってくる。
天井裏で楽しんでいるかのような現実味を持って。
喘ぎ声は急に止まった。軋む音も消えた。
俺の部屋は静謐さを取り戻した。
だが、もう始まってしまった。
昼間見た超自然現象のいろいろとは違う。
これは統合失調症の悪化による幻聴だった。
理性は幻覚と理解していても、音には存在感と現実味があった。
音の振動さえも身体に感じるほどだった。
俺は張り詰めた気分で、耳を澄ませた。
もう幻聴は聞こえなかった。
とりあえず、今のところは。
頭がぼうっとして、疲れが押し寄せてくる。
神経が焼かれていた。
対処法としては、ただ、眠るしかない。
俺は再び寝袋に戻った。
今度こそ眠りに落ちることができた。
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