第5話宝石の目

 炊きたての米と缶詰で食事をとる。

 コーヒーを飲んだあと、残った米でおにぎりを作り、ペットボトルと一緒にリュックへ入れた。

 必要になるかもしれないので、懐中電灯も入れる。

 鉈とボウガンで武装を整えると、俺は外の道路に停めてあるスクーターにまたがった。

 ヘルメットはいらない。

 事故を起こす相手もいないし、スピードもそんなに出さないから問題ないだろう。

 燃料は満タンだった。

 電気が使えないので、ガソリンを入手するのは面倒だった。

 だからあまり乗り物を使わなかったが、ガソリン自体は有り余っている。

 荷物は軽トラックで運んだが、今日はスクーターのほうがいい。

 スクーターも軽トラックも、俺が買ったものじゃなかった。

 元は誰か死んでしまった奴の持ち物だ。


 俺はキーを捻ってスクーターを発進させた。

 マフラーからの排気音が、静寂の世界にやたらとけたたましい。

 道路に放置されている車へ追突するのは避けたかった。

 俺はスピードを出さず、周囲へ目を配りながらゆっくり走る。


 踏切を渡って国道に入ると、気分で東に向かった。

 以前はいつも渋滞していた高速インター周辺も、今は閑散としている。

 俺は走り続けた。


 家から二十キロほど離れても、特に異変はない。

 進む方向を間違えたかもしれない。

 こっち側はまだ異常がないという可能性もある。

 マサキがどこから来たかによる。

 マサキはおそらく徒歩で移動しているはずだ。

 あいつが現れたとき、エンジン音はまったく聞こえなかった。

 あいつは世界をどれほど見て回ったのだろう。

 それほど広範囲でもないと思うのだが。

 好ましいことじゃないが、次に会ったら直接聞いてみよう。


 このちょっとした旅がまったくの無駄骨に終わりそうだったので、俺はわずかな可能性に賭けて住宅街のほうへ向かった。

 こっちの住宅街には入ったことがなかった。

 マサキのような奴がいるくらいだから、もしかしたら女の生き残りもいるかもしれない。

 女となら話したかった。統失だったとしても。


 俺は一戸建ての並ぶ通りに入って、ゆっくり移動した。

 時間の経ってない生活の痕跡はないかと、辺りを探る。

 どうもピンと来ない。

 この住宅地も滅びている。


 公園を見つけた。

 まだ昼飯には早いが、ここで日光浴をしながら一息つこうと考えた。

 静けさの中で聞き耳を立てていれば、何か異変に気づくかもしれない。

 お誂え向きのテーブルとベンチもあった。

 公園の入口にスクーターを停め、中へ入る。

 ベンチに座って、リュックとボウガンをテーブルの上へ置いた。

 リュックの中からペットボトルを取り出して、お茶を飲んだ。

 太陽は以前と変わらず、肌寒い空気を貫いて、暖かい日差しを与えてくれている。 

 まだ、吐く息が白くなるような季節じゃない。


 俺は領主の気分に戻って、家々に視線を巡らせた。

 外から見ると小奇麗で調和がとれていたが、どの家も中に腐乱死体が残されていることだろう。

 まったく感慨深い。

 満足に風呂に入れず垢塗れだったとしても、この世の終わりを眺められるのは幸せだった。


 そんな物思いに耽っていると、突然大きな破裂音がした。

 ガスボンベでも爆発したような、大きな音が上のほうからした。

 俺は反射的に、そっちへ目をやった。


 この世の終わりに際していても、信じがたいものを見た。

 でっぷり太った裸の爺さんが、一直線に真上へ飛び去っていく。

 空の彼方へ。

 爺さんは放物線を描くでもなく、そのまま上昇を続けて見えなくなった。


 一体なんなのか……?


 俺はしばらく呆気にとられて、身動きできなかった。

 爺さんは二十メートルほど向こうの、赤い屋根の家から出てきたようだった。

 だが、屋根に穴は開いてない。

 好奇心が恐怖を押し倒した。

 何が起こった結果なのか、調べてみたかった。

 俺はリュックを背負い、ボウガンに矢をつがえると、その家に向かった。


 耳を澄ませながら、用心してゆっくりと近づいていく。

 自分の足音が塀に反響する音と、小鳥の鳴き声しか聞こえない。

 問題の家についた。

 白い塀で囲まれている。

 門を入ってまっすぐに玄関、右側へ回りこむと狭い庭に出られるようだった。

 俺は右手にボウガンを持ち、半開きの門を抜けて、左手で玄関のドアノブを回した。鍵がかかっている。


 この世界では躊躇することもない。

 俺は右へ回りこんで庭へ向かった。

 庭には芝生が敷かれ、子ども用の滑り台が一つ置かれていた。

 飛んでいった爺さんの孫のためのものか。

 庭に面してガラスサッシがあり、中の様子が見られるようになっていた。

 カーテンは引かれていない。

 俺は身を乗り出して中を覗いた。


 散らかった部屋だった。

 血と糞便に塗れた寝具が置かれ、その上に太った爺さんが横たわっていた。

 着ている灰色のスウェットも体液に塗れていた。

 明らかにウバンギ放屁熱で死んでいる。

 しかし、寝具の周りには飲料のペットボトルと、開けた缶詰が散乱していた。

 社会が崩壊してからも、長いこと生存していたらしい。


 いや、もしかしたら、さっきまで生きていたのか。


 俺が見たのは、この爺さんの天に召す姿だったのかもしれない。

 バカバカしいと思いつつ、否定しきれない気分だった。

 人類が滅ぶなんて、元々すべてがおかしい。

 事象の奇異に加速度がつき始めているようだった。

 爺さんの様子に注意を集中していたせいで、気づくのが遅れた。

 部屋の中からも、俺を伺っている姿があることに。


 ガラス一枚隔てた向こうで、そいつは身体を屈めて立っていた。

 貴金属と宝石で飾り立てられた骸骨が。

 額、頬骨、歯の一本一本にまで金と宝石がはめ込まれて輝いていた。

 虚ろなはずの眼窩には、ブローチのような宝飾品が埋め込まれていた。

 中央の青い宝石が目のように見える。

 乾いた青い目で俺を見ているらしかった。


 俺は悟った。

 こいつがマサキの言っていた『青い目』に違いない。

 人間どころか生き物でさえなかった。


 だが、意思は持っている。

 その動作から、明確に精神活動が感じられた。

 異質な存在に対して、俺は悲鳴を上げて飛び退いた。

 膝から力が抜けて尻もちをついてしまう。


 宝石で飾られた骸骨は、豪華な刺繍の施された青いローブを着ていて、右手に大きな鈎を持っていた。

 身体を伸ばすと身長二メートルにもなる。

 そいつはサッシの向こうで、水中の海藻のように、ゆらゆらと細身を揺らしていた。すぐに襲いかかってくる様子はない。


 恐怖か畏怖か、何かよくわからない感情によって俺の身体は震えた。

 震える手でボウガンを向ける。

 だが、こんなものが効果あるとは思えない。

 立ちあがって逃げるべきだった。

 しかし、この宝石の骸骨に漂う退廃の美しさから目が離せない。

 青い目の骸骨は、俺に向かって鈎を振りあげた。

 揺らめくような動きで、ガラスに触れ、ゆっくりとそれを引っ掻く。

 俺の鼓動が激しくなり、浅い息をつくしかなくなる。

 身体が自分ではコントロールできない。

 青い目はガラスを引っ掻いただけで、何らかの満足を得たらしかった。

 身体を翻して、部屋の奥へ向かう。


 俺の身体の呪縛が解けた。力が抜ける。

 目眩がしたので、深く大きく息を吸って持ちこたえようとした。

 そこで再び緊張する。

 もしかしたら、あの化け物は玄関から出てこようとしているのではないか。

 なんらかの、俺には推し量れない理由があって。


 今はガラス越しだったが、遮るものもなく、あいつの匂いを嗅ぐことになったら、無事で済むとは思えなかった。


 俺は焦って立ち上がり、敷地の外へ向かって走り出した。

 玄関の前を通るときが恐ろしかったが、無事に外へ出ることができた。

 俺はそのまま走り続ける。


 直線道路を逃げ続ける間、何度も振り返ってみたが、宝石の骸骨は姿を現さなかった。

 息を切らせながら、公園に戻ってきた。

 スクーターの横で呼吸を整えながら、周囲を見回す。

 骸骨の姿はない。

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