精神感論
人間人間
1
「この世界って美しいと思わない?」
それが彼女、立花言葉の最後の言葉だった。
彼女はクラスの中であまり目立たない存在で、いつも一人で静かに本を読んでいるイメージがあった。誰とも喋らずに一人で作業をするイメージがあった。実際に僕は彼女が誰かと会話をしている様子を一度も見たことがない。一度も、見たことがない。いやいやそんなことはないだろう教師に名指しされたら返事くらいはするだろうと思う方もいるかもしれないが、本当に僕は彼女と誰かが会話をする場面を、言葉を交わすシーンを、見たことがない。大げさではなく、嘘でもなく、ただの一度も。見たことがない。おそらくこれは僕一人だけではなく、きっとクラスメイトからしても同様で、彼女が誰かと話す場面は見たことがないだろう。だから僕もクラスメイトも彼女が喋れないものだと認識していた――口下手でもなんでもなく、元々から喋れない人なのだと、思っていた。
だから、だから。
彼女が僕に声をかけてきた時は非常に驚いた――いや、驚きと言うよりも戸惑いと言った方が意味合いとして強かったかもしれない。「なに、お前喋れたの? は?」みたいな印象の方が大きかったかもしれない。彼女がもし言葉を発することがあるならばどのような言葉を言うのだろう――そんな考えを巡らせたことがあったけれども、所詮妄想だと思っていたから唐突なその呼びかけは僕にとってはとても摩訶不思議なことであるかのように思えた。言葉を発することは人間にとっては普通であるはずなのに、普遍的であるはずなのに僕にはそれがとても奇妙であり得ないことであるかのように思えた。
「えっと、立花さん? 僕に……何の用かな?」
僕はたどたどしくも彼女にそう返事をすると、彼女は「聞いてほしいことがあるの。ちょっと今から時間をとってもいいかしら」と言った。おお、なんだ、割と普通じゃないか。僕が想像していた彼女のイメージとは違うけれど、普通に会話ができそうだ。
「僕は大丈夫だよ。もう家に帰るだけだし……ところで、何の話?」
放課後から既にけっこう時間が経っていて、教室にはもう僕と彼女しか残っていなかった。僕は話があるならと自分の席につこうとしたけれど、彼女はそれを手で制止した。
「待って。話は向こうでするわ」
「向こう……ってどこ?」
僕がそう問いかけると彼女は不敵な笑みを浮かべながらこう言った。
「それは――屋上に決まっているじゃない」
知らねえよ。僕はそう思ったけれどあえてそれを口に出すのはやめた。
学校の屋上というものは、通常は解放されていないものだ。だから彼女が屋上に行くと言った時はお前は何を言っているんだと思ったのだけれど、それは早計だった。
フツーに解放されていた。
疑問に思いながらも階段に繋がる扉を閉めると、先に屋上に出ていた彼女は空を見上げながらこう言った。
「この世界って、美しいと思わない?」
「……は?」
立花言葉という女子は人と会話をすることがあまり得意ではないのかもしれない。僕はそう思った。普段彼女が会話をしている姿を見ていないために僕はよりそう感じたのかもしれない。だけれど、そう思うのに自然なくらいに彼女の言葉はあまりにも予測不可能で唐突だった。
「世界が……美しいって?」
先程から疑問形でしか彼女の問いに返していないけれど、それは仕方のないことだと理解してほしい。僕だってできることなら彼女ともっと上手くコミュニケーションを取りたいと思っている。話をしようと、思っている。
「ええ、この世界はとても――とてもとても、美しい」
彼女はどうも僕の様子を気にするつもりはないようで、空を見上げたままだった。
「えーっと、美しいって、どういうところが? どういうところが美しいと思っているの?」
「どういうところ……そうね。それは世界が唯一性のないもので構成されているところよ」
「唯一性のないもので構成……?」
「そう。この世界に唯一なものなんてのはないわ。全てのものは何かにとって代われる。存在しなくてはならないものがない。必要なものがない。この世界はなくてもいいもので出来ている」
「なくてもいいもので。できている」
「そう。なくてもいいもの。例えるならば、あなた。あなたがこの世界からなくなったとしても世界には何の影響はないわ。あなたがいなくなったところで世界はこれっぽっちも変わりはしない。今まで通り、世界は廻っていく。これまでも。これからも」
「……ふうん」
なんだコイツはと思いながらも、その言葉が全く理解できないわけではなかった。確かに、僕一人が世界からいなくなったところで世界が変わることはないだろう。それは正しいのかもしれないけれど、彼女のその理論には納得しがたかった。
「確かに、仮に僕がいなくなったところで世界が変わることはないかもしれないけれど、それは僕一人だけがいなくなった場合の話だろう? 僕以外の人間もいなくなってしまったら? 何十何百何千何万と大勢の人間が消えてしまったら? そうなったら話は変わるんじゃないのかな?」
「変わらないわ。変わらない。たとえ何万もの人間が死んでも、変わらない。たとえ人類すべてが死に絶えて消え去ろうとも世界というシステムは、変わらない。一時的な変化はあるけれど、最終地点は変わらない。一時的な変化は風化してまるで最初からなかったかのように廻り続ける。いつまでも。いつまでも」
「それが――美しいと?」
「それが、美しいと。だって、いくら変化が生じても最後は変わらないのよ? いくら変わろうとも、進化しようとも、全ては風化する。全て忘れ去られる。そして――なかったことになる」
「なんだか、極端な話のように聞こえるのだけれど」
「そうかしら。でも、最終的にはそうなる。なってしまう。それって、とてもすごいことじゃない? 何をしても、何を積み上げても全て無駄にする。全て元通りにしてしまうシステムなんて美しいと言う他ないじゃない」
「でも――でもその考え方だと破滅的すぎる。まるで生きていても意味がないと言っているようだ。命には何の意味もないと言っているようなものじゃないか」
僕はそう言った。その声は震えていた。彼女の考え方は終わっている。病んでいる。そう感じたからだ。だって、そんなことを考えたところで、それこそ変わらない、どうしようもない。答えなんてない。――どこにも行きつかない。行き詰まっていて、息詰まっている。息苦しいばかりで何処にも救いがない。どこにも、辿り着けない。
最初から終わっていて、最後まで終わっている。
「――あら、私は最初からそう言っていなかったかしら」
彼女はそう答えて、見上げていた顔を僕の方へと向けた。目が合う。彼女の眼は黒く。黒く黒く濁っている様に見えた。でも吸い込まれるような、黒さだった。
僕は彼女に何かを求められているのかなと思っていた。わざわざ放課後に呼び止めて屋上まで連れて行くくらいなのだから、僕に何かしてほしいものだと思っていた。でも違っていた。彼女は言っていた。聞いてほしいことがあると。僕はうっかり勘違いをしていた。
彼女は「聞いてほしい」とは言ったが「話がしたい」とは一言も言っていない――
僕は最初から、彼女に何も期待されていなかった。
「……何故この話を僕に?」
僕はそう彼女に問いかけた。その声はもう落ち着いていた。この時にはもう、僕は諦めていたのかもしれない。目の前にいる人間のことを理解することを、目の前にいる人と会話をすることを。
「別に、大した意味なんてないわ。ただ、ただ――あなたがそこにいたから、私があなたでいいと思ったから、それだけよ」
「……そうかい」
僕は溜息をついた。なんだそれは。目についたから絡んでくるなんて、タチの悪いヤンキーかよ。勘弁してくれ。
「とりあえず、立花さんが言いたいことはわかったよ」
理解したとは言わないけれど。
「それで――それで、命の意味がないとして。世界が美しいとして。だからなんだって言うんだい?」
僕はそう訊いた。そして訊いてから気付く。この言葉は実に余計だった。訊かなくてもいいことだった。だって、答えなんてものはわかりきっていて、そして、それはどうしようもない。
「そう、だから。だから――みんな死ねばいいのに」
彼女はそう答えた。
本当に。勘弁してくれ。僕はそれだけを思った。
そんな僕の様子をよそに彼女は再び言う。
「ねえ、この世界って美しいと思わない?」
彼女が自らの命を絶ったと知ったのは、それから一週間後のことだった。ホームルームの時間に担任の教師から告げられたその事実は、僕にとっては何の意外性もなくそのときの僕の心境に少しも影響を与えなかった。なんだ僕も冷たい人間になってしまったんだなあと僅かに思ったけれど、そんな感情もすぐに消えてなくなった。どんよりとしたクラスの雰囲気もある程度時間が経てば元に戻り、いつものような活気のある状態に戻った。以前からいてもいなくても変わらない彼女の存在が消えたところで僕の周りの環境が変わることはなかった。そして僕自身が変わることさえも、なかった。
結局、僕は彼女に何もしなかった。何かができるとも思わなかったし、何かをしようとも思わなかった。冷酷な人間だと言われても何も言い返せないけれど、だからと言って僕が間違っているとも思わない。じゃあどうしろっていうんだよ。教えてくれ。僕に何かできることはあったのか。
あれから僕は色んな新聞を読み漁っていた。もしかしたら彼女のことを取り上げた記事が載っているかもしれない。僕は僅かな期待を胸に新聞紙の隅から隅まで探した。すると、とある新聞の小さな小さな枠組みの中に彼女について書かれた記事があるのを発見した。その記事の見出しは「自殺少女の心の闇」だった。心の闇――心の闇だって? そんなものはない。……ないと思う。彼女のことをよく知らない僕が語るのもおこがましいだろうけれど、彼女はきっと心の闇なんて抱えていなかった筈だ。だってあれは、心の闇なんてものじゃない。彼女が抱えていたものはおそらく――闇の心だ。何処にも光はなく、何処にも救いがない地獄。彼女の考えを聞いた僕でさえどうしようもない、暗闇。彼女はずっと暗い暗い闇の中にいた。
僕は記事を読み終わるとすぐにその新聞紙を捨てた。記事を見つけてそれを読めば彼女に何があったのかわかるかもしれないし、彼女の死に納得のできる線引きが見つかるかもしれないと思っていた。でも、どうにもならなかった。何も、わからなかった。
「……はあ」
そろそろ学校に行く時間だ。家を出ないと。僕は鞄を持って玄関を出た。
「……っ」
眩しい日差しが僕を襲う。季節は夏。蝉の鳴き声も鬱陶しい時期になった。手で光を避けながら空を見上げた。青く澄んだ空にふわふわと雲が散らばっている。普段注意して見ない景色。――なるほど。確かにこうやって見てみれば世界は美しいのかもしれない。
「――行こう」
彼女が僕に何をしたかったかはわからない。けれども、彼女が僕に言ったあの言葉は僕の中にはっきりと残っているし、きっと僕はこの言葉を忘れられない――いや、それは嘘だ。いつかは忘れてしまうだろう。彼女の言葉も、彼女自身も。それこそいつかは風化して、何事もなかったかのように忘れてしまうのだろう。でも今は、今は覚えている。なら――それでいい。
暑い日差しの中、僕は歩き続けた。一歩ずつ、一歩ずつ。確かめるように。生を感じながら。
彼女は死んだ。やがて僕も死ぬ。
それでも世界は廻り続ける。
美しく、残酷に。
精神感論 人間人間 @hitohito
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