Joie De Vivre

ここはどこなのか、何でここに来たのかもよく分からない。確か約束をしていたとか、そういうことだったと思う。目の前にいる女の顔もよく分からない。好みの顔ではないし、なんで付き合ったのかも分からないし、どうして手を出したのかも覚えていない。ただ一つ言えることは、結局彼女も私の心を救ってくれはしなかったということだけ。目の前の灰色の食事を口に入れる気も起きないから仕方なくワインを口の中に入れても味を感じもしない、確かにアルコールを摂取したという胃が少し熱を放つ感覚はある。いつ私がこんなふうに人間ではなくて壊れた何かになってしまったのかもわからない。何もかもが狂ってしまった、それはおそらく蝋燭のように少しずつ溶け出してしまったのだろう。いつも眉を顰めながら周りを据わった眼で見まわす私のことをすれ違う人々すべてが気違いだと思っているだろうし、職場の人間も、そして今目の前にいる人も私のことをそう思っているに違いない。柔らかい表情で挨拶をすることが大切だと言われたってもう私の凝り固まった顔は動きすらしないだろう、石像になってしまった私はもう後は朽ちていくしかないのだから。

いつも何かのことを考えている。何かを探しているんだ。どこかを歩いていても、椅子に座っていても、目を閉じていても。暗闇の中でも明るく輝くそれを追いかけようともがけどもそれにたどり着くことができない。結局、私にはその輝きが見えているようで、何も見えていないからだ。このままでは正気を失ってしまうだろう、いやもうすでに失ってしまっているんだ。小さなおそらく緑色の豆を掬い口に含む。これぐらいならば私の胃はそれを拒絶したりもしないだろう。その小さな豆は味もしなければ、私の心を満たすこともできない。

何か、その何かが分からない。助けてほしいと言ったとしても私自身がその救いの手を拒絶してしまう。触れないでほしい。昔はおそらく、この店の雰囲気であったり、木製の机が好きだったんだろうと思う。だけれどもその灰色の木目を見てもただの汚い何かにしか見えない。心を埋め尽くしてもらいたい、だけれども私はその手を拒絶した。私の心を救ってくれないと決めつけて拒絶したんだ。心が埋め尽くされなければ常にあいつらの声が聞こえてくるし、あいつらがその隙間を縫って監視をしてくる。心を何かで埋め尽くすだけでいいんだ、それが泥であっても、木くずであっても、生ごみであっても。きっとそうすればあのストーカー達は私の監視を諦めるはずなんだ。ただそれすらも叶わない。それらを見たって私は何もないと感じてしまうから。心の欠片を何とかつないでいた隙間を満たす液体も失われ、もう少しずつ崩れ去って闇にのまれ始めている。ガラスの割れた砂時計、ひっくり返してももう時を測ることすらできない。

渋みだとか、果実味だとかそういったものを感じるはずだった液体は何も味を感じさせぬまま私の喉を通り過ぎて胃を焼く。その炎でも私のほんの少しだけ残った蝋が溶け出していってしまいそうに感じる。だけれどももがくように何かを求めている。そうか、きっと目の前にいる人に求めたことはもう私が見つけることができない輝きを見せてくれると思っていたんだ、私では探し出して手につかむことができない普通の人の心と言うべきものであったり、愛と呼ばれる形のわからない宝石を。きっと多くの人と、男女問わず体を重ねてきた私が求めていたことはそれだったのかもしれない。必死にそれが何であるかわからない曖昧な、硬さも味も香りも感触も暖かさもわからないそれで心の隙間を埋めてしまいたかっただけなんだ。受け入れられる、肌と肌で触れ合えばきっと心も触れ合っているのだろうと勘違いしていたのだろう。あの頃の私は性行為に夢を見ていたのだろう、きっとそれは私の心を埋めてくれて夢中にしてくれると。受け入れられることで私の心が潤いを取り戻し、乾いた土地に捨てられた乾いた種が力強く芽吹き花を咲かせてくれるはずだと期待をしていたんだ。でも、結局のところ人と人とは他人で、物体として存在している有機物が触れ合っているだけに過ぎない。考えてみれば物と物が触れ合うということは不可能であるのだから当然ともいえる。原子に半径はあるのだろうか、何を半径として定義したらよいのだろうか。結局考えてみてわかることは近づけば排他律か何かで最終的には触れあうことはできないのだから人と人が触れ合うことは決してできないのだ。体の内側同士で触れ合っても、相手の体温を感じても結局それは何か人と人とが絶対に触れ合うことができないように阻む透明の壁に阻まれているにもかかわらず触れ合っているように錯覚しているだけに過ぎないのだ。赤の他人が私が多くの人間と性的関係を持っている事を知っていたら、この人はある程度幸せだとか愛とかそういうものを知っているのだろうと思うのだろう。受け入れる、受け入れられる事が人にとっての幸せだとかそういう風に思っている人も多いのではないのだろうか。そう思えば確かに私は幸せなのかもしれないけれどもそれらで私はなにも得ることができなかった、結局のところ私は生まれつき盲目だったのだろう。

「あんまり食べないんだね」

「胃がものを受け付けないから」

おそらく焦点のあってない目を見て目の前の人は私のことを心配したのだろうか、眉の端を下げてこちらを見てくる。焦点を合わせてほしいと思っているのだろうか、分からない。

「ごめん、あんまり見えてないんだ。隠していたけど私は盲目だから」

身体障碍者を馬鹿にしたような不謹慎な冗談。笑えもしないしむしろこのことを口走った愚かな自分を蔑んだりもするのだろう、もう少し前の私であったならば。ため息をついていつまでも収まらない渇きを潤すためにワインを口に含む。乾いているのは私の喉なのだろうか。心が乾いていたとしてもその液体は私の水分を失いひび割れた心を潤してくれたりなどはしない。それでも目の前の彼女は仕方なく笑ってくれた。もしかしたらここまで惨めな私を笑っただけなのかもしれない。でも笑ってくれたならいいのか。涙を流しているように感じたけれども乾ききった私の身体はもう涙を流すことも叶わない。心の渇きがついに身体にまで現れてしまったのだろうか。私の肌はどう見えているのだろうか、沙漠の土のようにひび割れているのだろうか。目が見えない私にはどういう風に見えるのかすら分からない。ああ、もしかしたら目の前の彼女は美しいのかもしれない。でも最初からそう感じなかった私はやっぱり生まれつき盲目だったのだろう。私のそれは冗談じゃなくて、ただの真実だったのかもしれない。


ほとんど何も食べずに、酒だけ飲んでいた。こんな風な私を見ていたら食欲もわかないのだろう、彼女もほとんど何も食べていなかった。会計をすまして店を出る。さようなら、たぶんもう二度と会わないのだろう。思い返してみればもう十年以上も付き合いのある人だったけれども、乾ききったこの人の形をした物体を見て二度と会いたくないと思ったのだろう。何かずっと話していたような気もするけれどもその内容を思い出すこともできない。でもこんな私にはもう二度と会うなということだけは伝わっただろうか。多分私の発した全ての言葉が、今の私を物語っているだろう。だからきっと伝わっているはずさ。駅に向かう彼女の姿はもう夜に飲まれて見えなくなってしまった。店の前の公園。錆びた鉄格子の上でうずくまり、排水溝にめがけて胃の内容物を吐き出す。内容物、といってもほぼすべて液体でおそらく色も赤いのだろう。私と少しでも同じ時間を過ごして、時に唇も肌も重ねた人たちに伝えたいことがある。それはただ一言、人生を楽しんでほしい。もうこんな歩く屍のことなど忘れてしまってほしい。記憶の中の私の石像を砕いて砂に変えてしまってほしい。私が生きていたことなども忘れてしまってほしい。そうすればこんな存在を思い出してその楽しむべき人生を曇らせることもないだろう。是非そんな世界の中で明るい未来に向かって真っすぐ歩んで行ける人生を楽しんでほしい。ああ、また誰かが私を見ている。私の脳を直接監視してくる奴らがいる。何か声をかけてきてもいる。本当なら私もこんなストーカーのいない世界で楽しい人生を歩みたかった。街を照らす人々の生活から漏れ出てくる温かい光のような小さな幸せをこの夜空に灯したかった。羨まれるような学歴とか、悪くはない容姿とか、それなりにある才能だとか私だって人並み以上の人生を歩むことができたはずなんだ。五分五分ではなくて、勝ち越して、幸せをその手に掴み取ることができたはずなんだ。だけれども監視する奴らで溢れかえった生きることに適さない灰色の冷たい世界に沈んで行ってしまった私にはもう手遅れだから……。

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