でも、アルミホイルを巻いて

姫百合しふぉん

でも、アルミホイルを巻いて

教室で一人机に突っ伏し寝た振りをしている。周りはうるさく何かをやっているようだ。顔を横に向け薄く目を開いて見渡してみるとどうやら休み時間なのに自主的にクラスの皆で掃除をしているようだ。別に放課後にどうせ掃除をするんだからそんな事をしても意味は無いだろう、私は寝ている振りを続けようとしたがそううまくは行かない。一人のクラスメイトの女が私の方へと寄って来る。

「何で何もしないの?皆頑張ってるんだよ?」

何で私が同じ事をする必要があるんだ?どう考えてもそんなものは放課後にやればいいだろう。それなのに気がつけばクラスの全員が私を見ていた。いつもいつも私ばっかり監視して、怠けている奴を徹底的に輪の外へと追い出そうとする、そんな狂ったクラス。その刺さるような視線はただ只管不快だ。

「いつもお前ばっかり怠けて、誰にも協力しない。自分が出来る存在で、私たちなんかとは格が違う存在だって思い込んでいて、惨めな私たちには協力しようともしない。最低な奴ね」

誰が最低な奴なんだ、お前達が勝手にやっている事に何で私が参加しなくてはならない?何故私に文句をつけるんだ、気がつけば私は掴みかかっていた。いつも、いつも、いつだって私ばっかり非難して、怠けているとかふざけているとかそんな心無い言葉を浴びせて、お前達は犯罪者だ、善人面して私の心の自由を奪う強盗だ。お前達のように心無い笑顔の仮面をかぶって、誰もが同一化していく世界に飲まれたくない。女の顔面を殴る、吹き飛んだ女に馬乗りになり顔を殴り続ける、顔の形が分からなくなるまで殴り続ける。

右の拳に痛みを感じると私は目を覚ましていた。薄く血がにじむ私の拳、ただでさえ助けを求める赤い筋が何本も左の手首に刻まれているのに、また自分を傷つけてしまっている。時計に目をやれば出勤するのに丁度いい時間なのだが、寝汗をかいて不快感を感じる身体が布団から出ようとしない。仕方ないから煙草を吸うからと私の身体を説得し布団から起き上がった。

ベランダに出て煙草に火をつける。下の道路に目をやらなくてもあの婆が存在している事が分かる。猫の真似をしているのか、不快な高い声を野良猫にかけながら、丸々太った豚のような猫に餌をやっている。どう考えてもその猫の健康を害して、幸福を奪っているようにしか見えないのだが、これは私には関係が無い事だと目を背けようとした、だけどあの婆はその後あろう事か周りの鳩や雀にも餌をやる。

何度言えば分かるんだ、私の部屋のベランダの欄干が糞で汚されるんだ。何度も何度も、写真もつけて保健所に通報しているのだが、あの婆はこの行為をやめない。恐らく、保健所とあの婆は裏で繋がっていて私に嫌がらせをしているのだろう。もしあの餌にマイクロチップのようなものが入っていたとするのなら、それを野鳥の脳にまで取り付けて私を盗聴しようとしているのだ。野鳥を操り糞害で私を攻撃するだけでなく、盗聴すら試みる。次は警察にお願いするしかないのだろうか?それとも弁護士をつけて損害賠償を求める裁判をするべきなのか?だが私の味方になってくれる人はいないだろう。


煙草を吸い終わると身だしなみをさっさと整えて職場へと向かう。職場まではおよそ3kmあるのだが、地下鉄を使うと一度後楽園の方まで行ってから折り返すことになるから結局毎日徒歩で通っている。なにより満員電車に私は耐えられる気がしない。あれだけ密集していれば誰が私の事を監視しているか分からない、それなのに私はその視線に悩まされる事になる。その場から逃れようとしても身動きが取れない、そんな地獄に私は自分から飛び込むような事をしたくない。

自宅から白山上くらいまでは割と安全なのだ、人通りもそれほど多くなく、私をストーカーしようとする人間がいたとしてもすぐに私は気付く事ができる。旧白山通りに入り、下り坂の底になっている部分だけはストーカーを見破る事は難しい。私立大学が丁度その場所にあるのだが、学生が集団で歩いているとどれがストーカーで、どれが普通の学生か判断する事は難しい。勿論、自分がストーカーである事を言わずに友達の輪に混ざっているような場合は判別する事はほぼ不可能だ。それでスマホを持ちながら歩いていたりすると最悪だ。彼らが一人のスマホを覗き込み、彼らの中で何か共通の話題で盛り上がっている振りをしながら私を盗撮することが可能なのだ。

職場に向かうには、右側の歩道に渡り旧白山通りを真っ直ぐ進むの方が近いのだが、私は対岸を歩くようにしている。そのようにして自分の身を守らなくてはならないのだ。高く聳え立つ白い現代的なビルに学生の列が飲み込まれていくのを横目に私は坂を上った。しかしあの大学はセキュリティの対策を行っていないのだろうか、確かに道路側がガラス張りになっており、エレベーターが人体のレントゲン写真の背骨のようにビルを貫いている姿は美しくはあるのだが、中が透けて見えてしまってはどこから見られているか分からないではないか。

白山上の交差点、強い日差しが私の目を貫こうとするが、私はそれを避けるために偏光の入ったサングラスをして通勤しているため、容易に防ぐ事が出来る。信号が変わるのを待っていると大きな声が聞こえる。振り向くといつも演説をしているおっさんが見える。

今日はアスパルテームの問題点を皆に伝えようとしている。人口甘味料が私たちの脳を破壊するだとか、砂糖は天然だがアスパルテームは人口甘味料のためマイクロチップを仕込む事ができるだとか、そんな事を道行く人に伝えようとしている。彼は私と同じように、この世界が監視社会であることを皆に伝えようと戦っている同志のようにも思えたが、むしろ彼は体制側だ。道端でこのように演説をしていては、いくら内容が正しかったとしてもただの気が触れた人間にしか見えないだろう。気が触れた人間だから正しい事を言うはずがない、と道行く人は思うだろう。つまりは、彼は私たちの同志である振りをしているが、裏で体制側、つまりこの社会を監視している勢力と繋がっていて、私たちのような真実を知る戦士の立場を貶めようとしているのだ。

そんな彼を横目に交差点を渡り、向丘二丁目に向かう。そこでまた信号が変わるのを待ち、対岸へと渡り職場まで南下する。少し歩くとバス停があるのだが、そこで待っているのはこちらを見ようとしないから大丈夫だ。彼らは敵ではない。しかしながらただ真っ直ぐ歩いているだけでも視線を感じる。視線が私の脳を貫くのだ、私には第六感のようなものがあり視線を感じることが出来る、しかしその感じ方は、痛覚と同じだ。私の脳に刺さる視線は、兎に角私に苦痛を与えてくる。脳に痛覚は存在しないのだが、脳に直接針を差し込まれていくようなそんな感覚を感じて私の頭が痛み始めてくる。脳が破壊されている様を見て、私の頭がその痛みを想像して悲鳴を上げる、そんな感覚だ。誰だ私を監視しているのは。私の脳を覗いているのは。周りを見渡してみるが、そんな人物はいない。しかしながら私は確かに見られている事を当に感じているのだ。誰だ、後ろか?後ろを振り向いてみても誰もいない。しかしその存在を私は確かに感じているのだ。

脳は電気信号の集まりであり、例えば電磁波を私に照射し、その脳内で起きている微弱な電場の変化をその反対側で観測する事が出来れば、脳内を監視する事は可能なのだ。しかしながら現代の情報処理技術では、ノイズ塗れの観測データから、何かを読み取る事は可能ではないだろう。しかしながらコンピュータよりも複雑な処理を行っている人間が二人一組となって私を監視していたのなら?つまりあいつらはそういった能力を持つ人間を積極的に雇用し私を監視しているのだ。良く考えてみれば私は視線を感じることが出来るのだから、その能力は二人一組のうちの受信側となる事が出来るのだろう。私を監視しているのは仲間に引き込むためなのだろうか?しかし私は屈しない。思想は自由でなければならないのだ、だから社会が人間の思想を監視し、コントロールしようとするのは間違っていると思う。私は屈しない。


視線から逃れるように足早に南へ、南へと歩いていくと、整った赤いレンガの塀と、その上に剣山のように並ぶ黒い鉄柵が見えてくる。それは職場がすぐそこにあることを私に教えてくれる。すぐに職場の塀の中に入ろうとも思ったが、ここまで来ると私に向けられる視線を感じなくなってくるので、わざわざ遠回りになる門からではなく信号を渡った先にある小さな門から安全地帯へと逃げ込んだ。

何か不思議な力が働いているのか、職場の敷地にまで入ってしまえば私が視線に悩まされる事は無くなる。恐らく、私の職場はそういった組織とは関わっていない、もしくは敵対しているのだろう。つまりあいつらも易々とここには入ってこれないのだ。

私の居室がある建物に入り、尿意があったので足早にトイレに向かう。用を足し、手を洗い鏡を見つめる。鏡が映し出すのは闇の中に浮かぶ私。私は鋭い視線で、私の背後を睨みつけている。その先に移っているのは薄ら笑いを浮かべる私に似た存在。何が写っている?お前は何を見つめているんだ?その薄ら笑いの仮面を外したらどうなんだ?その仮面はもう既にお前と同一化していて外す事が出来ないのか?そんな狂気の世界の中でお前は何を見ているんだ?いくら問いかけても返ってくる言葉は無い。私と良く似た存在の視線は私の脳に直接痛みを送ってくる。私はすぐに耐えられなくなりその場を離れた。

エレベータで最上階まで向かい、居室の中に入り同僚に挨拶すると私はデスクに向かって座り、パソコンのモニターと向かい合い仕事を始めた。無機質なリズムを刻みながら軽快にキーボードを叩いていると、しばらくして私の同僚は部屋から出て行った。別の部屋にいる人と議論でもしに行ったのだろうか、一人になった私は朝から色々とあって疲れていたので机に突っ伏した。


―――こんな事は全てありえないのだ。誰も私を追跡したりもしていないし、誰も私を監視なんてしていないし、ましてや電磁波で私の脳を覗いているなんて事はありえないのだ。そんな事は私の理性が良く知っている、ありえるはずが無いんだ。こんなちっぽけな存在を監視したりして得をする奴なんているはずがない。でも私はその視線を確かに感じているし、奴らの陰謀は私を苦しめ、確かな精神への被害が私の心の蝋燭を激しく燃やすのだ。例えそれが完全な被害妄想でしかなくても、私の精神はじりじりと熱い炎で焼かれていっているのだ。

こんな事は被害妄想だと私は気付いている、そんな理性が私の心の蝋燭を反対側から燃やしていく。精神の蝋は両側から炙られ雫となり、何もない虚無の闇へと飲み込まれていく。生きる事が怖い、生きている事に恐怖を覚える。人の二倍の早さで精神の蝋が融け出していってしまえばその後に残るのは何なんだろう。心のない肉体か?そうなったときに私は私という存在を自覚する事が出来るのだろうか、ただただその事が恐ろしい。しかし私が生きている限りその炎は確実に私の精神を焼く。ガラスの割れた砂時計のように私という存在が、しっかりと確実に失われていく。私という形が失われていくのだ。あいつらの声が聞こえる、私を呼んでいるのだ。これまで私に心無い言葉を浴びせた人間が、笑顔の仮面を被り私を呼んでいる。私はどちらへ向かえばいい?鉛の十字架を背負い人生を歩み続ければいいのか?それともそんなものを投げ捨てて、笑顔の仮面を被り、あいつらが私を呼んでいる闇の底へと歩んでいけばよいのか?涙が流れていたが、私は乾いた笑い声を上げていた。

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