君から借りた恋愛ゲーム

しーもあ

1

 金曜の夜、おれは二週間ぶりに自宅に帰り、そのまま今日土曜の昼過ぎまで寝た。早く起きる気がなかったのはたしかだが、思う以上に疲れていたようだ。

 起きたあと、居間で飯を食べながら母親と世間話をしたり、自室でネットをしたりして時間をつぶしてから、陽が傾いたころ、近所の商店街にある『WATABE』という小洒落た飲み屋に入った。気が向いたときにひとりで行く店だ。

 開店直後のため客はおらず、マスターだけがいた。

「あら俊(とし)くん、いらっしゃい。ずいぶんごぶさたじゃない?」

 カウンターのグラスを磨きながらマスターがいった。

「三カ月くらいぶりかな」

おれはカウンターのスツールに腰かける。

「忙しかったの?」

「わりと。しばらく大門のウィークリーマンションで暮らしてた」

「へえ、仕事で?」

「今度ラーメン本を出すことになって、それでまあ缶詰ってやつ。いちいち帰ってくるのがめんどくさかったから」

「あら、すごいじゃない」

「別にこれっぽっちもすごくないけど」

 おれは大学卒業後、食品系の業界新聞社に就職し、三年ほど記者をしてから、系列のグルメ系雑誌の編集部へと移った。

 そこでは特集を企画し、記事をライターや編集プロダクションに発注するのがおもな仕事だったが、上がってきた原稿にダメ出しするよりは、自分で食べに行って、自分で書くほうがよっぽど性に合っていたので、上司と相談し、フリーのグルメライターに転身した。給料こそ以前よりも減ったが、好きなときに仕事をして、津々浦々のうまいものを食べられるという点ではいまの職を気に入っていた。

「飲み物なんにする?」

「ハートランド」

「かしこまり」

 マスターは端正な顔したオカマだった。

 おれより二歳年上で、幼いころには一緒に遊んだりもした。近所ではわりと知られたイケメンだったが、いつの間にかオカマになっていた。いま風にいうと、オネエ系と呼ぶのかもしれないが、おれにはその二つの違いがいまいちわからない。

 いまにして考えてみると、立ち居振る舞いとか言葉遣いとかオカマ的素養は以前からあったのだが、まさか本当にオカマになるなんて誰も思っていなかった。少なくてもおれはそうだった。

 けれど、飛鳥山の下を貫く首都高・飛鳥山トンネルではないが、できる前までは半信半疑でも、いざできて時間が経てば、ずっと前からそうだったように感じるから不思議だ。マスターの凛々しい少年時代を知ってはいるが、いまでは記憶の糸をたどらないと、生まれたときからマスターはオカマだった気さえしてくる。

「ハートランドおまたせ」

 マスターがよく磨かれた、どこか樹木を思わせる逆三角形のビールグラスをカウンターに置いた。

「ハートランドってさ……」

 清涼感のあるビールをぐいっとひと口飲んだあと、おれはグラスを見つめていった。

「ネーミング的に、北区推奨のビールにすべきだと思わない?」

 マスターは首をかしげた。

「どういうこと? それってもしかして、新田のこといってる?」

「そう」

 おれは王子駅前から出ている都営バスの行き先を思い浮かべた。

十年ほど前、隅田川に新豊橋という新しい橋がかかり、かつて工場地帯だった新田は、いまでは若い世帯が多く住むこぎれいなマンション街となった。

「あそこはハートランドじゃなくて、ハートアイランド。だいたい新田は北区じゃなくて足立区よ。俊くん北区に何年住んでるの?」

「あ、そうだった……。素で間違えた」

 マスターは自他ともに認める真面目なオカマだった。わりと客に対しても手厳しい。

「俊くんのラーメン本ってこのあたりの店も出てるの?」

「いわ田が載ってる」

「そう、いわ田さんまた行列できるわね」

 いわ田というのは、ここ北王子商店街にあるラーメン屋で、店の前には店名すら書いておらず、うっかりすると通りすぎてしまうような佇まいの店だった。十年前にオープンしたときには、誰もが三カ月以内につぶれると予想したものだが、ラーメン好きの間で徐々に評判となり、いまでは都内の名店のひとつに数えられるほどになった。

 見た目はシンプルなラーメンなのだが、小麦のうまみが十二分に感じられる自家製麺と、煮干、昆布、鶏肉でとったバランスのよい透明感あるスープは、食べるものをうならせるだけの完成度だった。ただラーメンには麺とネギしか入っていないので、具が少ないと、店を出たあと文句をいいながら商店街を歩いている人もちらほら見かける。

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