Songe d'une nuit du sabbat
北見 駿は北崎川高等学校管弦楽部のファゴットの四十八期生、すなわち今年の卒業生。
しかし、その年の卒業生は絶対参加という恒例の春合宿には諸事情により初日参加できず。
とりあえず明日からの参加はなんとか許されたため、いつもより早めに就寝準備をしていた。
机の上のアナログの置き時計が示すのは夜十一時ちょっと前。
合宿に行ってたら施設職員の目を盗んでごそごそ活動し始める頃なのだろうが――そんな不謹慎なことを思いながら、ベッドに入る。
疲れていたせいか、すぐに眠りの波が遠浅の海に潮が満ちるようにひたひたと――そんなまどろみは、突然けたたましく鳴った音によって遠浅の海から密林ジャングルの彼方に追いやられた。
音の正体は家の電話のベル。
他の家族が取る気配もなく、思いっきり不機嫌に受話器を取った。
「北見です」
『ああ、駿? オレ、オレだよ』
聴こえてきたのはしっかりはっきり聞き覚えのある声。だが、あまりに能天気な口調に素直に応える気にはなれない。
「お客様のお掛けになった番号は現在使われておりません。もう一度ご確認のうえお掛け直しください」
『うわ! 駿! 吾川だよ! 憲太郎だよ!』
だから切りたいんだろうが、このバカ野郎――そう思いつつも、戻しかけた受話器を耳に当てる。
切っても何度も掛け直してくるだろうし、ちくちくと文句を言った方が、よほどストレス解消になるだろう。
「今度は何がしたいんだ? 憲太郎」
『今度は何、って、何かオレがいつもロクでもないことしてるみたいじゃん、失礼だなあ』
「いや、事実だろ。現にお前のせいで初日から参加できなかったんだろうが」
今回施設までたどり着いていながら出直すよう命じられたのは受話器の向こうにいる悪友のせい。
「方向音痴のくせしてカッコつけて迷子になりやがって」
『あれはがけ崩れが悪いだろ?』
「そのがけ崩れに巻き込まれたんじゃあないかと皆を心配させるくらい派手に迷子になったお前が悪い」
『まぁ、ンなことはさっさと忘れるに限る』
それよりもさぁ……、と電話の向こうの無責任男はさっさと話題を換えにかかる。
もっとちくちく文句を言ってやりたいところだったが、この悪友、調子も人当たりもいいわりに性格が悪いことを北見は嫌というほど承知していた。
「で、何なんだよいったい」
『なぁ、駿、今回の合宿の初見の選曲者、誰か知ってる?』
「は? 初見の選曲者?」
管弦楽部春合宿恒例の初見合奏。
その曲を選ぶのが実は先生ではなく、なぜか春合宿のしおりを作った生徒であるということは吾川から聞いて知っていた。
「つまり、今年のしおり作ったのは誰か、ということだよな?」
『そうそう』
「いや、知らない」
そもそも北見はあまり下学年のことを知らない。
たとえ一つ下の学年でも、弦楽器の後輩などは名前と顔が一致するのはごくわずか。二つ下など管楽器でも覚えがあやしいのが何人かいる。
春合宿のしおり制作、なんていう下っ端っぽい事務系の仕事をした人物名がわかるはずもない。
が、しかし、それならば吾川は訊ねてこないだろう。
「……誰なんだよ」
『知りたい?』
「ていうかふっかけてきたのお前だろ? さっさと言えよ」
『それがさ、まりあなんだぜ?』
「あ? まりあ?」
誰かわからず問い返す。
だが、口に出した瞬間、名前と顔が一致した。
「ちょっと待て――」
『いいよ、待つよ?』
吾川の声が嗤っている。
「――観音、か?」
『ご名答』
「……いや、ご名答じゃあないだろ、それ……」
二つ下の学年、それも畑違いの弦楽器の人間でありながら名前と顔が一致する数少ない人物の一人。
というより、少なくとも管弦楽部員で彼女の名前を知らない人間は絶対いないと言い切れる。
四十八期から観音というあだ名を付けられ、それとは裏腹に忌み恐れられた女、旭まりあ。
見た目や部活外ではむしろ地味な女子高生。
だが、一度クラシック音楽について語り始めようものならば誰にも止められない。
さらに普段は先輩、先生に対してすら無愛想なのに、なぜか音楽に関しては飽くなき探究心を持ち、絶対に手を抜かない。
たとえば合奏中、詰まらないミスを犯した人間がいたら、たとえそれが先輩でもガンを飛ばすのは日常茶飯事。
タクトを持って指揮台に立てば、事細かに指示を出し、時に容赦なく怒鳴り散らす。
「あいつ、絶対に選曲にも手、抜かないだろ……」
春合宿恒例の初見合奏に選ばれた曲。それを合宿参加者たちは三日目の夜の合奏までに仕上げなければならない。
歴代の初見選曲者はここ十年、全員が簡単な曲を選んでいる。
『オレ、まりあに一言言っておくつもりだったんだけど、忘れちゃっててさぁ。やあ、参った参った』
「憲太郎」
『何?』
「参った参ったとか言いつつ、楽しそうなのはどうしてだ」
『え? そうか?」
返ってきたのはどこかわざとらしく訝しげな声――こいつ、意図的に言わなかったな。
本当に憂慮すべき事態に直面しているのならば、どんなことをしてでも伝えただろう。
大体、吾川は記憶力がいいのだ。
「お前、楽しみだとか思ってるだろ」
『まあまあ、駿。オレたちは先生の説教喰らうことなどないだろうし、今日の憂さ晴らしにもなるだろうし、楽しもうぜ?』
今日の憂さ晴らし、か――施設に到着した時の修羅場を思い出せば、吾川の気持ちはわからないでもない。
それに、よくよく考えると、たとえ吾川が何を言っても旭は聞かないだろう。
北見は大きく溜息をついた。
『溜息つくなよ』
「……性格悪いよな、お前ってヤツは本当に」
まぁいい、と、今一度溜息をついて、ゆるゆると首を振った。
「こうして話を聞いた以上、俺も共犯者っつうことだろ……」
『駿、愛してるぞー』
「いらん、お前の愛なんぞ」
ふざけた言葉を流しつつ北見は祈る。
願わくば、あの山にいる観音が選曲に手を抜いてくれますよう――あり得ないな、絶対。
曲によってはまったく目立たないのに死に目に遭うファゴットパートの後輩たちを思い、北見はちょっぴり泣きたくなった。
――その頃、桜桃山研修施設から北崎川市内へと抜ける暗い山道を一台の車があった。
運転するのは管弦楽部顧問・津田奏司。
「これでもしっかり楽譜は揃えてきたつもりだったんですけどね、旭君……」
疲れたような溜息交じりの呟き。しかし、その口許には笑み。
カーステレオから流れて来るのは――H.berlioz Symphonie fantastique Op.14
5. Songe d'une nuit du sabbat
(3月28日23:00 消灯・就寝)
北崎川高等学校管弦楽部「春合宿」 岡野めぐみ @megumi_okano
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