嵐の前の静けさ

 春合宿の一日の締めくくりは役員会。

 管弦楽部の運営を請け負う役職にある部員たちが集まって今日の活動報告、そして、明日以降の活動内容や方針を決める――といってもしょせん裏方会議。

 演奏会前など忙しい時期は正視できない修羅場と化すが、何事もなければ本当に何もない。

 合宿の役員会は基本的に後者だが、今日は昼間に色々とあった上、OBの何名かに宿泊や食事の変更があったため、始まってしばらくは庶務課長や副課長、イベントプランナ、会計を中心に、役員十四人全員が電卓や紙やペンを手に忙しく動いていた。

 とはいえ、それさえ片付けてしまえば特に何があるわけでもなく、開始から三十分後、手を動かしているのは庶務課長だけになっていた。


「――なぁ、室井、まだか?」

 気の抜けたサイダーのような声。

 十一時までには終わらせようと顧問の津田に提出する活動報告書をまとめていた庶務課長の室井は、怒りを込めて力一杯振り返った。

「まだに決まってるだろう!」

「おおっと……」

 肩越しに半ばのぞき込むような体勢でいた声の主、学生指揮の旭は大きく仰け反ったが、どうやら眠いらしく、怒るでもなく、ふわぁ、と大欠伸をした。

「眠いんなら出て行けよ! 皆も――」

「皆も?」

 気の抜けきった問い返しに、部屋をぐるっと見渡して、

「いないじゃないか!」

 いるのは、自分と旭だけ。

 副課長の三角すら、いない。

「何でいないんだよ! 旭帰したのか!」

「私じゃあない、三角が帰した」

「何で!」

「ここ、先輩たちの部屋だから」

「え……」

 ここは、一〇一号室。

 ポケットの中から、くしゃくしゃになった春合宿のしおりを取り出し、めくる。

 一〇一号室宿泊者は井端、竹田、堤、安田、倉地、瀧野――四十九期の1st、2ndヴァイオリン。

「……何で先輩たちの部屋なんだよ? 誰だよ、一〇一で役員会やるって決めたヤツ」

「あんただ」

「……」

 即答で返され、詰まる。

 と、同時に、何か少し、引っかかりを覚えた。

「さぁ、わかったら出るぞ。残りの仕事は自室でやれよ」

「ああ、うん……」

 首を傾げ、荷物をまとめて外に出る。

 廊下では、待ちくたびれた様子の一〇一号室の面々が、一足先に部屋を出ていた旭に何かしら小声で言っていた。そのうち数名のこちらに向いた視線が鋭いところからして、説教めいたことを言っているのだろう。

 そのまま部屋に帰るつもりだったが、いつもは尊大な態度の旭がちょっとばかり――あくまでちょっとだが、頭を下げているのを見て、室井は立ち止まった。

 その間、さっき引っかかりを覚えた原因を考えようと、荷物と一緒に持っていたしおりに何気なく視線を落とした瞬間、室井は、あ、と小さく声を上げる。

 そして、間もなく先輩たちから解放されてこちらへやってきた旭に、

「お前のせいでもあるんだぞ」

 と歩き出しながら言った。

「何が」

 お小言を受けたからか、明らかに機嫌の悪い旭に睨まれ、慌てて言葉を足す。

「い、いや、一〇一での役員会。だって、部屋割り決めたの旭だろ? オレ、最初から一〇一で役員会するって決めてたじゃん。なのに旭、それを気にも留めずに部屋割りしただろ?――いや、しおり作ってもらっておいてこんなコト言うのも何だけどさ……、あー、でも、やっぱりオレが悪いのかなぁ……」

 元々しおりを作るのは庶務課の仕事なのだが、どうしても手が回らなくて旭に頼んだのだ。

 学生指揮は指揮者の代わりに合奏を振るのが仕事で、事務的な仕事が回ってくることはあまりない。なので、合宿前は他に比べると余裕がある。

 それが多少なりとも引け目だったのか、あるいは気まぐれか、物臭な旭にしては珍しくあっさりとしおりの制作を引き受けてくれた。

 正直なところ旭が手際よくしおりを作ってくれたおかげで、庶務課は少なからず助かった。それと今回のミスとを天秤に掛けると、どうもこちらの分が悪い気がした。

「……まぁいいや、ごめん、旭。聞かなかったことにして。役員会の場所、明日から変更にすればよいだけだし」

「イヤにあっさり引き下がったな」

 つっかかってきたらストレス解消するつもりだったんだが……、という不穏な呟きに、うわぁ命拾いしたかも、と、ほっとしつつ、さっさと話題を変える。

「そ、そういえば……、憲ちゃん先輩たち、無事に帰り着いたかなぁ」

「ケンちゃん……? ああ、アガケンか? まぁ大丈夫なんじゃないか? しぶといから。それに本人も大丈夫と言っていたし、心配する必要は――」

 と、そこまで言って、なぜか旭は口ごもった。

 足すら止めて、思案する様子に室井も足を止める。

「どうかしたのか? 旭」

「……いや、ちょっとな」

 そう言って歩き出すも、いまだ思案顔のまま。

「何かあるのか?」

「ん……」

「教えてくれよ、気になるだろ?」

 好奇心でせっつくと、旭は切り出した。

「昨日、アガケン先輩がうちの家に来たってのは言ったよな?――帰り際に、何か言ってたのを思い出してな」

「何?」

 よくわからん、と旭は首を振った。

「まあ、合宿に行ってからでもいいかとか何とか、自己完結して帰っていったんだよ」

「じゃあ急ぎの用事じゃないってことだろ。今日帰っちゃったけど、明日また来るんだし」

「でもなあ……」

「何だよ、心配なのか?」

「何となくだけどな――」

 そう言って旭は大きく伸びをした。

 見てて気持ちいいくらいに伸びたあと、二、三度身体を捻り、眠そうな視線を寄越す。

「――まあ、でも、たまにアガケン先輩って、思わせぶりなこと言って相手があたふたするのを見て楽しんでたりするからな。ま、気にしないがいいだろう」

 その時、室井の頭のなかで、また何か引っかかったような気がした――そういえば、いつかどこかで思わせぶりな憲ちゃん先輩を見た気がする……。

 室井は何の気なしに旭を見つめ、

「あ、そうか」

 と声を上げた。

「何だ?」

「いや、昨日さ、春合宿のしおりを憲ちゃん先輩に渡したんだけど、その時、このしおり作ったの旭だろ、って言ってたんだよ」

「……それで?」

「ていうか、それだけなんだけど、ただ、その時の態度が思わせぶりというか、何か言いたそうだったような気がしてさ」

「ふーん……、ま、それも特に何もないんじゃあないか?」

 そう言って旭はくるっと向きを変え、室井に背を向けて歩き始めた。

「旭?」

「すまん、今日の弦分奏の報告をしに先生のところへ行かなきゃいけないのを忘れてた」

「ん? ああ、そうか」

 役員会では特に仕事のない学生指揮だが、その代わり自分が手掛けた分奏や合奏を顧問に報告する義務を負っている。

 そして、それに加えて指揮法の指導も受けなければいけない。

「お疲れ、旭」

「あんたもな。……あんまり気負うなよ」

 足を止め、こちらに軽く手を振ったあと、何事もなかったかのように歩き去っていく旭を見送り、ふと気付く。

 ここは室井の宿泊予定の三一五号室前。

「旭の宿泊室って……?」

 室井はしおりを捲る。

「……あいつ、一〇四じゃん」

 一〇四号室は役員会のあった一〇一号室の斜め前。

 旭が今向かっている先生の部屋は二〇七号室。

 どちらもここからは随分遠い。つまり、旭は特に用事もない場所まで室井に付き合ってきたということになる。

 よくよく考えると役員が解散したあとも気付かずに仕事を続けていた室井を待ってくれていたのだ。

「あいつなりの気の遣い方、ってことかな」

 ――実のところ、旭が一〇一号室に残っていたのは三角に頼まれていたためで、そのあと室井と一緒に歩いたのは、津田のところに分奏の報告に行かなければならないことも、自分の部屋が一〇一号室の斜め前だということもすっかり忘れていたからなのだが――

「旭って性格キツいけど、いいヤツだよな」

 知らぬが仏。

 じんわりと心を温めている室井が、先ほどの旭との会話のなかに明日以降の命運を決める重要な事柄が入っていたことなどに気付くことはなく――


 (3月28日22:00 役員会)

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