信者誕生

 これでいいのか? 本当にコイツら――糸崎孝太は憤慨していた。

 まったくの他人事ながら。


 糸崎は中学生の時、吹奏楽部のパーカッションパートに所属していた。

 楽器を演奏することは大好きだったし楽しかった。だが、部のコンクール主義の体質に嫌気がさしていた。

 コンクールのための音楽をつくり、コンクールのために一致団結する。

 上辺の演奏効果ばかりを追い求め、音楽性は二の次三の次。

 確かに上手かった。でも、からっぽだった。

 学校の部活動で、もう吹奏楽はしない――そう誓って進学したものの、北崎川高校にあったのは吹奏楽部ではなく管弦楽部。

 音楽は好きなのだ。だから、毎日毎日放課後になると聴こえてくる音楽に、何度心を奪われそうになったことか。

 でも、糸崎は耐えた。

 吹奏楽ではないとはいえしょせん部活動、どうせコンクール主義に違いない、と自らに言い聞かせて。

 だが、北崎川高オケはコンクールには出ておらず、年に一度の定期演奏会を目標に活動していると人づてに聞き、揺れ動く。

 半年間悩み続けた末、とりあえず体験入部をしようと思い立ち、管弦楽部春合宿の特別参加枠に申し込んだまではよかった。

 そして、期待に胸膨らませた合宿当日。

 蓋を開けてみると、朝、集合した時から、よくも悪くもコンクール主義に馴らされた糸崎には信じられないことのオンパレード。

 初日夜までに施設までをも巻き込んだ騒動二回。それがなくとも、とにかく騒がしい。正直なところ小学生の修学旅行以下、幼稚園の遠足の方がよほど統制が取れている。

 こんなんだったらコンクール主義の方が何千倍もまし。しかし、もしかすると合奏になると何か違うのかもしれないと望みは捨てきれず、入浴後、管打楽器セクションの練習場所を覗いてみた。

 だが、何やらわいわいがやがやと話し込み、練習する気配がない。まったくない。

 その時点で、もう帰る、と糸崎の腹は決まっていた。

 だから、荷物をまとめるため部屋に戻る途中、弦セクションの練習場所を覗いてみたのは、ある種の気の迷いだったといっていい。


 糸崎が弦セクションのいる第二研修室を覗いた時、ちょうどタクトを手にした学生指揮らしき人物が前に立つところだった。

 時計を見ると八時二十分過ぎ。

 ようやく指揮者登場かよ、と小声でぼやき、部屋から離れようとした。

 が、

「では、はじめましょうか」

 上下黒のジャージを着て肩からタオルを掛けたその姿と仕草で男だと思っていた指揮者。

 その声が、少々低いけれどまるっきり女のものだったため、糸崎は思わず足を止めた。

「弦リーダーの渡邊と相談した結果、このセクション練習はわたくし、学生指揮の旭まりあの指揮でいきたいと思います。曲は先ほど配布いたしましたベートーヴェンの『コリオラン』序曲。なお、合奏中はOBの先輩方にも現役と同様に指示いたしますのでご容赦ください」

 礼儀正しく穏やかな口調とは裏腹の鋭いまなざしに興味が湧いた。

「頭から通します」

 そっと室内へ入り、傍らにあった椅子に腰を下ろす。

 とはいえ、どうせひどいんだろう――と、次の瞬間、出てきた音に息を呑んだ。

 昼間の騒々しく落ち着きのない様子からは想像もつかない一糸乱れぬ演奏。

 学生指揮は譜面に一度も目を落とさず、威嚇するように隅々まで見渡していた。

 コンクール主義を掲げていた中学の吹奏楽部の演奏を遥かに超えた統制。

 高校生主体、かつOBも入っているというのを加味しても、信じられなかった。

 だが、それでも学生指揮は納得がいかなかったらしい。最後のピチカートの音色を不満げに止め、パサリとやや乱暴な仕草でスコアを開く。

 糸崎は学生指揮を見つめた。

 合格点に達しているような気がした演奏を、いったいこれからどうするのか。

「……まず、どのパートにも言えるが、あまりべたべた弾くな。叙情的なフレーズだからといって歌い上げると鼻につく。ベートーヴェンだからな、あくまで」

 15小節目、1stとヴィオラ――そう指示を飛ばし、柔らかな動作でタクトを上げた。

 1stヴァイオリンとヴィオラが構えたのを見計らい、小さく振り始める。

 小さな音の動きは、しかし、一小節進むか進まないかのところですぐに止められた。

「スピッカート――あと、予め言っておくが、19小節から20小節に掛けてのクレッシェンドを忘れないでほしい。次は各々入るところで入るように」

 15小節目から通す――再びタクトが上げられる。

 そして、小さく振り始められた時、明らかに音が変わっていた。

 音量はさっきと同じピアノ。だが、音形がクリアに浮かび上がり、徐々に大きくなるタクトの動きに合わせて盛り上がる。

「次! 十分に落とせよ!」

 鋭い指示。再び小さなタクトの動き。

 それに従い、さっきと同様の音形がピアノで表れる。

「その調子で……」

 再び二小節のクレッシェンド。

 締めと思しきフォルテが鳴らされたあと、学生指揮は頷いて、スコアを捲った。

 部員が楽器を下ろすと同時に微かな溜息交じりのざわめきが室内に起こる。

 しかし、カツン、カツンとタクトが机に二回軽く当てられただけで、瞬時に消えた。

「フォルテとピアノの切り替えはきっちりと。この曲の特徴でもあるからな。40小節からのスフォルツェンドの部分も同様に」

 ということでその前、36小節目――タクトが上がる。

 それをサッと振り下ろし、そして音を引きつけた。

「私に合わせろ!」

 絶対的な自信に満ち溢れた声。

 だが、その自信に違わず、音は精密かつ美しく変化していく。

 もっと見ていたい。そんな欲望が自然と湧いて出てくる指揮。

 しかし、学生指揮は惜しげもなくその手を止めた。

「51……いや、52、か――52小節目、ヴィオラ、弦バス、裏拍からのところがあるだろ。あれの食いつきが少々悪い。チェロも走るな。奴らが裏から食いつかなきゃならんことを考慮しろ。そして、1stと2nd、55小節目から56小節目にかけて旋律の受け渡しがあるな。あれをもう少しスムーズにできるか?……やってみようか」

 52小節目から1st、2nd――タクトが引き出すのは叙情的な旋律。

 甘くなりそうなそれが一線を超えないのは指揮の賜物だろう。

 1stから2ndへスムーズな受け渡しは成功したが、なぜか一、二小節進んだところで学生指揮はタクトを下ろした。

「……埋もれる、かな……」

 そう呟き、二、三度カチカチとタクトでスコアを叩いたあと、2ndヴァイオリンの方に向き直る。

「56小節目、実際その旋律はクラも被るんたけど、今はクラがいない。ピアノなんだけど気持ちもう少し出してくれないか。そして……そう、ここから少しずつクレッシェンドなんだよ、ちょっと長い……ああ、だからやっぱりいい。2nd、すまない、さっき言ったことは忘れてくれ。全体、56小節目から62小節目の頭のフォルテッシモを目指して、ゆっくりクレッシェンドな。さっきの通し、ここ、急に音を大きくしただろ? ここは特に指揮に注意してほしい――全体、52小節目から」

 細かい指示。だが、何一つとして不要なものはないということが、あとで必ず証明されていく。

 腕の立つ奏者に妥協を許さず、曲を追究する学生指揮の姿勢。

 ――糸崎は目が離せなくなっていた。

「……次、一番気になったところだが、102小節目、頭、そこピアノだぞ。103小節目の裏にフォルテ、全員ついてるだろ? そことの差――メリハリがほしい。ヴィオラ、チェロは微妙なところに記号がついてやりにくいだろうが、できなければ気持ちだけでいいからつけてくれ。じゃあ――」

「ねぇ旭、待ってよ」

 学生指揮がタクトを上げようとしたその時、突如それを制止する声が割って入った。

「何だ」

 学生指揮の視線が、声の主に向けられる。

 1stのトップ、すなわちコンサートマスター。

「あのさ……」

「何かわからないことがあったら指揮を見ておけ、コンマス。大体の指示は出せてるはずだ。お前の力なら大丈夫だから」

「違うよ、もうやめようよ」

 全体に戻りかけていた学生指揮の視線が、コンサートマスターに再び向けられる。

「何」

「明日は初見の日だよ? 初見の予想会した方が有意義じゃあないかな? 少なくとも旭の分奏よりは有意義だと思うんだけど」

 挑発的な発言。

 ざわめきが起き、そして、糸崎は思わず立ち上がった。

 立った反動で椅子が倒れる。途端、注目が集まった。

 一瞬、躊躇する。

 しかし、有意義な分奏を潰そうとするのがコンマスであることに憤りを感じていた糸崎は覚悟を決め一歩前に踏み出す。

 と、その時、学生指揮と目が合った。

 彼女は目を細め、笑った。

 わずかの間――けれども糸崎の動きを止めるには十分だった。

 惚けている間に、カツン、カツンとタクトが鳴る。と、糸崎に集まった視線が前に戻る。

 いつの間にかまた無愛想な面持ちに戻っていた学生指揮は、鋭い視線をゆるやかにコンマスに向けた。

「……なあ、お前、私が何も考えなくこの曲を選んだと思っているのか?」

「何か考えがあったわけ?」

 視線がゆるむ。口許には微かに嘲笑。

「この曲、ここ五年くらいは出てないけれど、この春合宿で最も多く初見に取り上げられている曲なんだよ」

「え?」

 それにだな――コンサートマスターの言葉を封じるように、学生指揮は言葉を重ねた。

「どうせ予想会なんかしても役には立たない。今年はこの曲が選ばれそうだ、と決めたところで何になる? 決めたら上手くなるのか? ンなわけないだろ?」

「でも、心の準備が……」

「ハッ! 笑わせるな。当たったところでああよかった程度の話だろうが。それよりも外れた時のショックの方がでかいと思うがな」

 そうして学生指揮はタクトの先をピッとコンサートマスターの方に向けた。

「お前、何のためにここにいる? 多少なりとも音楽が好きで上手くなりたいからここにいるんだろーが。上手くなりたかったら練習しろ。上手くなれば初見の曲に何が出てこようがカンケーねえだろう」

 そう言い切るなり、ずっと全体を見渡す。

「時間の無駄だ――118小節目、展開部に入る」

 ――それまで糸崎は突っ立ったままだった。

 ようやくそれを思い出し、倒れた椅子を立て直し、座る。

 自然と背筋が伸びた。

 カッコいい――音楽に対する姿勢。緻密なまでに計算していながら、それを感じさせない威風堂々たる指揮ぶり。完全無欠の支配力。

 惚れていた。惚れてしまっていた。完全に。

 一時間足らずの間に、糸崎孝太は考えを百八十度転換し、管弦楽部入部を決めていた。

 ただひたすらに学生指揮・旭まりあに惚れ込んで。

 一生ついて行きます! 旭さんっ!――信者、ここに誕生。


 (3月28日20:00 弦セクション練習)

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