おまけの話 くず
もうカウンターにぶちまけたカネしか残ってなかった。
「な、頼む! 一杯だけ、もう一杯だけ飲ませてくれ!」
いつ降り出したのだろう、雨は白い針となって夜の闇を縫っていた。
それがアスファルトのネオンを反射して虹色の光彩を放っている。
後ろ手に腕を締め上げられた俺は、飲み屋の裏口から放り出されたのだった。
雨なのか、それとも小便なのかわからないが、路地裏のアスファルトには水溜りができていて、俺は、その水溜りに顔から滑り込んだのだ。
少し額がひりひりするのは、多分すりむいたからだろう。
口の中がジャリジャリしたので思いっきり唾を吐きつけた。
ペッ!
すると突然、そばのポリバケツの蓋がずり落ちて、中からカラスが姿を現せた。
カラスはクワァーと一声鳴き声を上げると飛び去っていった。
同時に、周囲にはむっとするほどの生臭さが拡がった。
立ち上がった俺は、壁伝いに歩いて表通りへ出た。
平日にもまして、週末の繁華街はにぎわっていた。
会社帰りのサラリーマンやOL、学生、サンドイッチマン、呼び込み……。
しかし誰一人として、雨に濡れたドブねずみには関心を示さなかった。
どこをどう歩いたのか記憶にはなかったが、
俺は、JRの高架下に佇んでいた。
雨は小止みとなっていたが、あたりには白い靄が立ち込めていた。
なすすべを失った俺は、しばらく人の流れを見ていた。
タバコが吸いたいと思ったが、小銭すら持ってなかった。
もちろん切符を買うことはできなかったが、それ以前に帰ろうという気持ちはなかった。
俺は焦点のあわない眼で、ただ人の流れをぼんやりと見ていた。
「やっぱり、あんたやったんか」
小走りに駆けてきたのは、女だった。
ひと回り年下の彼女とは式は挙げていないが、半年前に入籍していた。
「3日も帰ってけえへんから、心配したわ。でも、よかった」
陽気だけが取り柄といったような女だ。
「あんた、ちゃんとご飯食べてたか? はい、これ――」
女はうれしそうにバッグから封筒を取り出して、ハイっと突き出す。
「なんだ? 離婚届か――」
俺は、反対できる立場ではなかった。だから驚くようなことでもなかった。
「お金」
「カネ?」
これには少し驚いた。
金はすべて、俺が持ち出したのだ。
「うち、働くことにしたんや。それ支度金としてもろうたんや。20万あるわ」
「20……まん」
「これからは、うちが稼ぐから、あんたは家にドーンと居ってくれたらええんや」
「それ……水商売なのか」
「う、うん。……ソープやねん。せやかて心配せんといて、帰りは車で送ってくれるし、店長もええ人やし……ほな、もう行くは、せやないと初日から遅刻やわ」
女は照れ笑いに言うと、また小走りに人波の中へと消えていった。
俺は、金の入った封筒を握りしめながら新妻を見送っていた。
言葉に出して伝えることはできなかったが、心底感謝していた。
しかし、俺のせいで女房は春をひさぐことになってしまったのだ。
だから……このままで終わらせることはできない。
女房のためにも、俺をバカにした奴等を見返してやるのだ。
正直もう、あんな惨めな思いはしたくない――。
俺はカウンターにカネを拡げた。
「どうだ! もう、これで飲まさないとは言わせないぜ! ハハハハッ……」
(了)
ポケットの中の、25個の掌編小説 銀鮭 @dowa45man
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