ミナガワ君、さようなら

岡野めぐみ

ミナガワ君、さようなら

 三組のミナガワ君が死んだ。

 事故だったらしい。

 学校のすぐ北を東西に走っている片側二車線の国道。交通量は中途半端。

 それが彼の判断を鈍らせたのか、自転車で横断しようとして大型トラックに撥ねられた――臨時の全校集会でわかったのは、およそこれくらいのこと。

 あちこちから啜り泣きが聞こえてきたけれども、何の感慨も湧かなかった。

 底冷えする体育館。千は下らない人間がここに入れられているというのに。

 私は自分の両膝を抱き寄せて、身体を震わせた。

 私にとっては全然遠い、これっぽっちも近くない、三組のミナガワ君の死。

 悲しくなんてない、寂しくもない。だから、泣けない、とても、泣けない。

 むしろ寒さに震える私は何だか泣いている人達が羨ましくなってきていた。

 彼が生前――といってもほんの昨日までの話だけど、いったいどれほどの人間の関心を集めてきたというのだろう。今、泣いている人たちのうち、どれほどが本当にミナガワ君の死を悼んでいるのか。

 ミナガワ君の死は小さな欠片。

 学校というある種閉鎖された空間に入れ込まれた未知の異物。

 泣く、というのはアコヤガイの防衛本能みたいなモノなのかもしれない。

 泣くということに置換して、身近に起こりうる死の恐怖をコーティングしていく――そこまで考えて私は顔を伏せて小さく笑った。

 うらやましいのだ。

 祖父が死んだ時、当時十歳の私はやっぱり泣けなかった。

 遠く離れた土地で暮らしていて、物心ついた時には既に病院に入っていた祖父。

 彼も私にとっては遠かった。私と祖父を繋いでいたのは血の繋がりだけ。

 そんな祖父の葬儀の時、多くの人が泣いていた。そして、泣きながら泣かない私の頭を撫でていった――まだ小さいからよくわかっていないのね、と。

 十歳の子なら死の事実くらいわかる。

 これっぽちも動かなくなった祖父の硬くひんやりとした身体を触って、微かに開いたままの口に綿を詰められているのを見て、祖父が机や椅子と同じような物体になってしまったことを知って、間もなく灰になることを聞かされて。もう二度と戻ってこないのだということくらい、どこを探しても見つからないことくらい、わかっていた。

 それでも、私は泣けなかったのだ。

 寂しい、と、その時、私は思った。

 祖父の死という事実に縋って泣く人々の輪に入れなくて。血の繋がりしかない私には入るだけの資格があるように思えなくて。

 そして、今も私はとても寂しかった。

 私はこの輪に入れない。なぜなら入る資格がない。

 ミナガワ君はどんな人だったのだろう?

 名前と顔しか知らない三組の人。祖父以上に繋がりなんてない。泣くことなんかできない。

 でも、今、私は無性に加わりたかった。啜り泣く人々のなかに。彼の死と繋がりを持ちたかった。

 いや、そうすることによって、孤独を避けたいのかもしれない。

 そう、泣けないのは孤独。

 十歳の私の頭の上を通っていったいくつもの手は、同情だけを置き去った。

 同情、哀れみ――それは彼らと同列ではない証明。

 私は泣いてみることにした。

 そう決めて一層膝を抱き込んで額を寄せる。そして、目を閉じて、私は泣くための自分を創る。

 悩むことなんて何もない。とても簡単な作業。

 私はミナガワ君のことを想う自分を創り出す。

 自分でもうっとりするくらい悲劇的な設定。

 ちょうどいいタイミングで特定の人を追っていなかった私は、ミナガワ君の姿を必死で取り込む。

 笑顔を、一度だけ近い位置で笑顔を見たことがあるのが幸いした。

 去年の体育祭の時、4×100メートルリレーでアンカーを走り一着になった私に、笑顔でフラッグを手渡してきた体育委員の彼。

 そう、私はそんな彼に惚れたのだと、自分に何度も何度も言い聞かせる。

 屈託のない笑顔。おめでとう、と囁きかけた低い声。わずかに触れた指先――

 不意に周りの啜り泣きが大きくなったように感じた。いや、事実そうだったのか。

 しかし、私は自分が悲しむ人たちのなかに入ったのだと、そう思った。

 私は泣いた。ようやく泣けた。

 涙がどんどん流れ落ちていき、まるでそれがレンズになかったかのように、脳裏にあるミナガワ君の笑顔をより鮮明にしていく。

 あの笑顔はもう見られないんだ、と、私が私の気持ちを高めるために創り出した死神が囁く。

 いつの間にか私は、声を上げて泣いていたようだ。

 大丈夫? そう声を掛けられて顔を上げると、隣に座っていた友人が心配そうに私の顔を覗き込んだ。

 保健室に行こう? と、手をひかれるままに立ち上がり、そうして座ったままこちらを見上げる人たちの間を通り抜ける。

 その間も涙はとまることなく、拭う手を、取り出したハンカチを、ベタベタと濡らしていった。

 そうしてミナガワ君の死と繋がった私は満ち足りた気持ちで泣いた。

 故人の思い出話をする輪の中にも加わり、泣きじゃくった。

 ミナガワ君への想いを口にして、皆の涙を誘ったりもした。

 全校集会の翌日、ミナガワ君の友人だという人に誘われて学校を休み葬儀にも出席した。

 その人は、それまで一度も話したことがなかったにも関わらず、一生懸命ミナガワ君のことを私に話して聞かせた。

 私はミナガワ君を好きだった女になっていた。なりきっていた。

 だから、泣いた。

 ――そして、私はミナガワ君のことを密かに想っていた女として周囲に認知された。

 よほどのことがなければ、いなくなった人のことを悪く言う人間はいない。たださえ素行も成績も特別悪いことはなく万事控えめだったというミナガワ君だから、彼は永遠の好青年となった。

 死人に口無し。

 そのうち、実は私とミナガワ君がすでに付き合っていたという噂もちらほら出始めた。

 私は否定も肯定もしなかったから、それはまるで事実のように皆のなかに浸透していった。

 私は悲劇のヒロインとなった。

 小さな嘘をついて、泣いた。

 それだけで私は故人を偲ぶ人々のなかに入り込んだだけでなく、一気にその中央に踊り出た――ただ単に、泣けない孤独を厭うただけなのに。

 しかし、酔い痴れた私は、悲劇のヒロインを本気で演じるようになった。

 ミナガワ君を好きだったという偽りの自分を、本当の自分として認めるようになったのだ。


 彼の四十九日を一ヶ月ほど過ぎた後、私は花を持って彼の家を訪ねた。

 彼が死んだ冬が終わり、季節は春。

 月が替われば、学年がひとつ上がる――彼を残して。

 私は涙を拭う。いつの頃からか私は彼を想って泣けるようになっていた。

 彼の家は学校からさほど遠くないところにあった。

 彼の命を奪ったあの国道を横切り、川沿いを山手の方に進んだ辺り。この辺りはまだ田畑が残り、農家と思われる古い日本家屋が立ち並ぶ集落。

 そのうちの一軒が彼の家。

 咲き誇る桃に今はまだ三分咲きの桜。

 庭を飾る春色とは対照的に、玄関先に出てきた彼の母親は、いまだ冬のあの悲しい日のままの黒を身にまとっていた。

 葬式で見かけた時とさほど変わっていない、いや、少し窶れたかもしれない。

 学校もないのに制服を着て花を手にしていた私の来訪の意図を、彼女はすぐに察したらしい。

 ただ一言、どうぞ、と、そのまま私を家の中へと招き入れた。

 通されたのは仏間。縁の有る広い和室。私はまず仏壇に手を合わせた。

 おそらく彼のためだけではない大きな仏壇のその中ほどに彼の写真。たぶん、あの体育会の時のものだ。

 学校指定の青ジャージ、首にかけた白いハチマキ、あの時私に向けたものと同じ屈託のない笑み。

 しばらく写真の彼を見つめていると、お茶を勧められた。私はそれを頂き、彼の母親と向かい合う。

 彼女は私の目を真っ直ぐに見つめ、無理しているとしか思えない微笑を精気のない顔に貼り付けて、来訪の礼を口にし、彼を想う私はそれに涙を浮かべて応えた。

 私の涙を見て箍が緩んだのだろうか。何色にも染まらない色を着た彼女は最初、色同様どことなく頑なな雰囲気を纏っていたが、しかし、次々と彼の思い出を紡ぎ始めた。

 涙を流し語る彼女に、私も涙する。

 彼の死、その喪失感を共有する連帯感。

 私は悲しいというより、むしろ何だか温かな気持ちを抱いていた。

 そう、幸せを感じていたのだ。

 十歳の私が羨ましく思った、死が繋げる人間関係。そのなかに今、私はいる。

 最早誰も私の頭の上に哀れみを置いていかない――そう思っていた、その時だった。

 私は、ふと、彼女を見つめた。

 それは些細な、しかし、大きなきっかけだった。

 急激に目許が冷えて乾いていく。

 ――本当に有難うございます。

 ――ここ最近、あの子のためにここを訪れて下さる方というのがなかったので。

 さっき、彼女は確かにそう言った。

 でも、私はそれが即座に理解できなくて、なかった、と彼女の言葉の切れ端を舌に乗せた。

 彼女は悲しそうに頷いた。

 四十九日まではポツポツと訪れていた人たち。

 しかし、その後は月命日になっても誰も訪ねてはこなかった。

 でも、それは仕方のないこと、と彼女は寂しげな微笑を浮かべた。

 ――いなくなったその衝撃が和らげば、離れていってしまうのは当然なのです。

 ――一時は人を集めても、そのすべての人の時間をいつまでも留めおくことはできない。

 ――それが死というものなのです。


 それから私は彼女に誘われて、ミナガワ君の墓参りをした。

 裏庭から細い山道を登り切ると、一面の菜の花畑。

 その真ん中にポツリと墓はあった。

 泣けなかった私は、また、泣けなくなっていた。

 あたたかな黄色い花の海に、先ほどまでの私ならきっと泣いていただろうに。

 今は墓を間近で見ても何の感慨も浮かばない。

 むしろ今までの自分の奇行を思い、笑ってしまいそうにすらなる。

 泣けない孤独を厭い、ただの同級生の死に繋がりを求めた私。

 嘘から生じた細い絆に必死に縋って泣いて、そして、取り残されていた。

 何て滑稽なんだろう!

 これだけ見事な菜畑ならば私の持ってきた花なんて要らないな――そんなことを思いながら墓前に持ってきた花をそそくさと活け、手を合わせる。

 そして、にっこり笑って私は言った。


「ミナガワ君、さようなら」


 (了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ミナガワ君、さようなら 岡野めぐみ @megumi_okano

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ