Middle Phase 6 ~穢れた紅~

「……奴が逃げた。周囲の監視カメラをハックして、"刃紋燕"ジャックナイフ・スパロウを探してくれ」

 未紅がスマートフォンに向かって不機嫌を露わにしながら伝えると、呆れと苦笑いを含んた声が返ってきた。

「だぁーかぁーらぁー、油断するなって言ったじゃない。私が調べたところによると、同年代のUGNチルドレンでも十指に入る手練だって話よ? 万年寝不足の貧血お嬢様じゃ勝ち目は薄いんじゃない?」

「うっせーぞ、サイコ女。テメエ、どっちの味方だよ」

「そりゃもちろん、可愛げのある方――ああ、ウソウソ。冗談よ、冗談。今はアンタの味方だってば」

 くすくすと小馬鹿にして笑うサイコ女――アイリーン・ジャールートへ苛立たしげに舌を打った。潜入任務は事前の情報工作があってこそ成功する。特に相手がオーヴァードならば、情報操作や調査に強いオーヴァードの支援が不可欠だった。このサイコ女の手を借りるのは業腹だが、この"腹話術師"以上もしくは同等の情報操作が出来るオーヴァードについて未紅は覚えがなかった。

「潜入任務受けたんでしょ? 制服だったら用意しといたわよ」

 この女はどこで依頼の話を聞きつけてきたのか、"ナーサリーライムズ"の依頼を受けたあと、アジト――アイリーンの自宅なのだが――に戻った未紅を出迎えた彼女の第一声がそれだった。

 こいつは変態だが、持ってる情報網は侮れない、と改めて思う。

「で、監視カメラのハッキングは出来るのか?」

「ブラックドッグ程じゃないけど、これくらいなら難しくないわ。ええ……2ブロック先、左折して15メートル先の路地」

 未紅は通話を切って駆け出した。左折した瞬間、アイリーンの言った路地の入り口で、何かが慌てた様子で引っ込むのが見えた。

「見つけたぞ、テメェッ!」

 怒気のこもった罵声を吐き散らかし、未紅は速度を上げて路地に飛び込む。路地の先、走り逃げる秋津島女学園の制服の背中を見つけ、未紅の口角は残忍な笑みの形に吊り上がった。

 逃げる背中との差は距離にして20メートル。未紅にとってはゼロも同然だ。未紅は軽く膝を曲げて身を低くすると、地面が抉れるほど蹴り込んで飛び出した。

 引き絞った弓によって放たれた火矢のごとく、無防備な背中へ一直線に飛びかかる。だが、炎に包まれた右腕が白い制服を焼き斬るかと思われた瞬間、ジャックナイフ・スパロウは全身を沈めて背後からの一撃を避け、蜘蛛めいた動きで真横に跳んだ。

「なんだと――ッ!?」

 広くはない路地だ。そんなことをすれば壁にぶつかる。だがジャックナイフ・スパロウは、まるで水泳選手がクイックターンを決めたように――壁を足場にして飛び出していたッ!

 空を飛ぶ燕を思わせる素早さと軽やかさ。確実と思えた一撃が空を切らされた未紅は、しかし勢いを殺さずに身体ごと振り向いて、飛びかかってくるジャックナイフ・スパロウに右腕で迎撃の拳を放つ。

 だが、その拳も躱される。

 直撃する瞬間、まるで燕が上昇気流に乗ったかのように、ふわりとジャックナイフ・スパロウが軌道を変えたのだ。真上に。

 《邪眼》使い。『魔眼』と呼ばれる球体を用いて、重力と斥力を操るバロール・シンドロームのオーヴァードの中でも特異な発症例。先程の真横に跳んだのも、空中で軌道を変えたのも、バロールの異能だとすれば何の不思議はない。

 ジャックナイフ・スパロウは劫火を吹き出す右腕を跳び越えると、まさに飛燕と呼ぶに相応しい蹴りを未紅の延髄に叩き込んだ。頚椎が砕けて食道を突き破り、神経が断線する。全身の筋肉が弛緩し、根本から倒壊するビルのように、上半身の重みに耐えられずに膝が曲がる。ブチブチと千切れる筋繊維と血管の音が体内で反響し、吹き出した血が未紅の胃と肺に流れ込む。

 誰の目から見ても致命傷は明らかだった。

 だが――

 血まみれの瞳が、"穢れた紅"ブライテッドルージュの右眼は、致命傷を負ってなお"刃紋燕"ジャックナイフ・スパロウの姿を捉えていた。

「やって……くれるじゃねえか……ッ!」

 未紅は口元に溢れる胃液と血液を飲み下し、崩折れかけた体勢を両脚で踏ん張って堪えた。オーヴァードの超回復力が断裂した神経を繋ぎ、砕けた骨を固め、傷口を再生させてゆく。

「確かに貴女の右腕は脅威みたいね」

 首筋を蹴った反動を使って飛び降りたジャックナイフ・スパロウは、制服のスカーフが巻かれた板状の物を逆手に構えた。その左目は、未紅の記憶に焼き付いたモノと同じ紫色の輝きを放ち、全身は激しい動きを行ったせいか、湯気が立ち上るほどの汗を噴き出していた。

「出来れば、今日は痛み分けってことにしない? 切った張ったみたいな疲れること、私も好きじゃないし」

 どこまで本気が分からない笑いを浮かべつつ、ジャックナイフ・スパロウはじりじりと後退っている。

「逃さねえよ」

 喉奥で血の味がする。舌に絡んだ血を弄びながら、再び未紅は地を蹴った。瞬く間に近づいて、ジャックナイフ・スパロウの顔面を右拳で殴りつけるが、金属同士が衝突する甲高い音が響く。浅い。逸らされた。マチェットに巻きつけられたスカーフが燃え上がり、鈍色の刀身をさらけ出す。切っ先は未紅へ向いていた。

「――っしゃらあああッ!」

 マチェットの持ち手を潰す勢いで未紅は蹴り上げたが、硬いブーツの爪先は、同じく硬い柄頭で受け止められた。このまま蹴りを押し込めば、逆に軸足を刈り取られる。かと言って蹴り足を引けば、その蹴り足を刈り取ってくるだろう。一瞬で判断した未紅は蹴り上げた姿勢のまま、軸足で跳んだ。否、軸足でジャックナイフ・スパロウの右側頭部を蹴り込んだ。

 ジャックナイフ・スパロウの右肘が跳ね上がり、未紅の蹴りを打ち弾く。未紅は硬い地面に背中から落下し、軽くない衝撃に顔をしかめたが、構うことなく地面を転がってジャックナイフ・スパロウの追撃を回避する。砂埃まみれのまま跳ね起き、ジャックナイフ・スパロウの脇腹へ横薙ぎの蹴りを叩きつけ、それが膝と肘で防がれるや即座に全身を捻って後ろ回し蹴りを叩き込んだ。

「――ッ!」

 間髪を入れぬ二連撃にジャックナイフ・スパロウが苦鳴をこぼして後ずさる。畳み掛けるように未紅は胴に飛び膝蹴りを入れ、虎が獲物を噛み砕くようにジャックナイフ・スパロウの脳天へ肘打ちを振り下ろした。

 肉を削ぐ音とともに返り血が未紅の頬に飛ぶ。しかし浅い。頭蓋への致命的な打撃を彼女は寸前で避けていた。顔半分を血に染めて、ジャックナイフ・スパロウは苦悶混じりの呼気を吐き捨てた。

「マジで……洒落ンならないっつの……ッ!」

 ジャックナイフ・スパロウは横薙ぎにマチェットを振り抜き、その勢いのまま上段回し蹴りを放つ。未紅はマチェットをガントレットで受け流し、回し蹴りを頭突きで迎え撃った。重たい衝撃に脳が揺さぶられる。視界が痛みでホワイトアウトする。だが未紅は、額に当たる感触を頼りにジャックナイフ・スパロウの足首を両手で掴むと、勢い任せに路地の壁へと叩きつけた。

 くぐもった破砕音が伝わってくる。肉に包まれた骨が砕ける音だ。だが一度で止めるつもりはない。掴む指を蹴り剥がそうとする限り壁に叩きつけてやる。

 暴れる蹴りが止まり、掴んだ足首を握り潰した頃、徐々に正常な明度を取り戻した未紅の視界は、ボロ布のようになって血を吹き出すジャックナイフ・スパロウの姿を映していた。死体同然の少女を放り捨て、未紅は皮肉げに笑った。

「……どうだよ? ちっとは、アタシとおしゃべりする気になったか?」

 未紅は制服の内ポケットに手を差し込んで――いつもならタバコが入っているはずだったが、あのサイコ女に取り上げられていたのを失念していた――空っぽなのを確かめると、不愉快そうに手持ち無沙汰に髪をかきあげた。

「ったく……逃げの一手の臆病者かと思えば、サイコ女の言うようにとんでもねえ手練だよ。初手で首の骨を折られたのは初めてだ」

「褒められても……嬉しくない……わよ……」

 轢死した蛙のようだったジャックナイフ・スパロウは仰向けのまま、汚泥の詰まった排水口のような音を喉で響かせた。

「切った……張ったは……嫌いなのよ……疲れるから……本当に……本当に……」

 死にかけた虫めいて血まみれの手足でもがきつつ、しかし決して離さなかったマチェットを杖代わりに突いて、彼女は立ち上がった。

「だから……さっさとカタをつけるわ」

 《リザレクト》――オーヴァードの代表的な異能であり、オーヴァードを怪物たらしめる異能である。再びマチェットを逆手に構えてジャックナイフ・スパロウは駆け出した。

「――こっちのセリフだ、糞がッ!」

 右腕から紅炎が吹き上がる。未紅の右腕を包む機械式のガントレットは、武器であると同時に防具であり、その実は彼女の能力を抑える制御装置でもある。そのリミットを意識的に外し、未紅は身構えた。

 どんな隠し玉があろうと、アタシの血と炎で焼き潰してやる――――



 ――車持未紅の左胸を、1センチに満たない鉄片が撃ち抜いたのは、その瞬間であった。

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