Middle Phase 5 ~刃紋燕~

「あら、どこに行くつもりですの? 清水遥海さん?」

 "刃紋燕ジャックナイフ・スパロウ"――遥海は静かに絶望していた。脳内に浮かび上がる『詰んだ』『マジかよ』『ふざけんな』等々の罵詈雑言が胃液のように喉を駆け上がってくるが、口の中の唾液をかき集めて飲み下し、言葉になるのを押さえ込む。

「登下校するときは必ず正門を通りませんといけませんわ。校則にも書いてありますわよね?」

 "穢れた紅ブライテッドルージュ"は、口寂しそうにガムを噛みながら、しかし不敵な笑みを浮かべて、寄りかかっていた塀から離れると遥海の前に立った。

「お待ちしてましたわ、"刃紋燕"さん。アタシの待ち伏せを避けて学校ここから出るとしたら、体育館裏ここしかありませんから」

 秋津島学園の敷地は高い壁で囲われ、教師も生徒も含めて普通の人間ならば、正門か裏門からしか出入りできない。また四方を囲む壁にも民間の警備会社のセキュリティセンサーが備え付けられており、不審人物の侵入を監視している。

 だが、お嬢様校ということもあってか、外から抜け出る人間への監視は若干甘い。センサーとセンサーの死角となるこの場所は、オペレーターのマー・アーリンが示してくれた安全な脱出場所エスケープ・ポイントのはずだった。

 しかし、これについて、あのオペレーターを責めることは無意味だ。おそらくは相手も同じ情報にたどり着いたのだろう。

「……そのエセお嬢様口調、何の罰ゲームなの?」

 "穢れた紅"の一挙一動に注意を払いながら、ほぼ無意識の動作で遥海はじりじりと半身を開いた。学生カバンを持つ右手を"穢れた紅"の視界から遮るように、自分の身体で隠す。一種の視線誘導だ。身体の陰になった右手を警戒し、相手の視線がそちらへと下がれば左手で、そうでなければ完全な死角となった右手で打つ。

 とは言え相手はUGNの危険人物リストに名が挙がるほどの手練だ。どれほどの小細工が通じるか不明だが、使える手札が多いことに越したことはない。

「……ッせえな」

 "穢れた紅"は憮然とした顔で噛んでいたガムを吐き捨てた。

「まどろっこしいのは無しにしようや、"刃紋燕"さんよ。アンタ、この学校に潜伏してるUGNなんだろ? ならアタシが知りてえのは二つだけだ。答えろ」

「今にも飛びかかってきそうなFHのエージェントに聞かれて、べらべらと情報を漏らすUGNエージェントがいると思ってるの?」

「いるとか、いないとか関係ねえよ。アタシが聞いてんだから答えろって言ってんのさ。答えねえっていうなら、答えたくなるようにしてやるぜ」

 好戦的に笑う"穢れた紅"の右眼から、ひとすじの涙がこぼれる。

 赤い、紅い、一滴ひとしずく。血の涙を頬に滴らせながら、彼女は遥海に殺気を向けた。

「――三年前、車持播州くらもち ばんしゅうとその家族を殺したのは、お前か?」

 唐突に持ち出された人名に、遥海は顔を強張らせた。その名前は覚えている。いや、忘れようがない。三年前に倒産した車持重工の社長であり、FHに資金提供を行っていた要注意人物。そして――

「……何の話?」

 平静を装いながら、遥海はカバンの持ち手に隠したスイッチに指を這わせた。遥海が手にしているのは学校指定の学生カバンに見せかけて、UGNが開発したウェポンケースだった。スイッチを押し込めばカバンの底が開いて、隠した武器が射出される仕掛けになっている。

「とぼけんじゃねえぞ、糞が。テメエが紫色の《邪眼》持ちだってのは、とっくに調べがついてんだよ」

 苛立たしげに、しかしどこか嬉しそうに"穢れた紅"は甲冑めいた右手を握りしめる。金属板の隙間から赤黒いモノが泥土のごとく溢れ出す。それは空気に触れるや否やオレンジ色の炎へと変貌した。

 数メートル離れていても感じられる熱気に遥海は息を呑む。"穢れた紅"は殺意と憎悪で彩られた昏い眼差しを遥海に向けた。

「殺す。テメエらUGNは皆殺す。アタシの血と炎で焼き潰すッ!」

「冗談じゃないわよ――ッ!?」

 遥海は困惑気味に悲鳴を上げながらも、反射的にスイッチを押し込んでカバンを"穢れた紅"の顔面に投げつけていた。戦闘訓練によって身体に染み付いた、ほとんど無意識の動作だ。それ故に"穢れた紅"の反応はコンマ1秒遅れた。

 コンマ1秒。超人オーヴァード同士の戦いにおいて、その隙ははるかに大きい。

「ぬわっ!?」

 慌てて"穢れた紅"が炎に包まれた右腕で飛来するカバンを払いのける。同時にバチン、とバネの弾ける音が響き、カバンの底に仕込まれた抜き身の山刀マチェットが"穢れた紅"目掛けて撃ち出された。

「――ざっけんなああああッ!」

 端倪すべからざるは"穢れた紅"の運動能力か。ほぼ真横で弾き出された山刀の切っ先を身を捩って避けると、すぐさま遥海の方へと駆け出した。

 だが、遥海も指をくわえて見ていたわけではない。"穢れた紅"がカバンを払いのけるのと同時に生まれた一瞬の死角――"穢れた紅"の右手側を走り抜け、地面に突き刺さった山刀を引き抜くと一目散に塀を駆け上がり、そのまま外へと飛び降りた。

「糞がッ! 待ちやがれッ!!」

 "穢れた紅"の罵声を背後に聞きながら、遥海は全速力で駆け出した。



 さすがに抜き身の山刀を持って走るのは、一般人に見咎められたら騒ぎになりかねない。路地裏に身を潜めた遥海は、制服のスカーフを外して刀身に巻きつけた。非オーヴァードを無力化する《ワーディング》を使えば、一般人の目を気にすることもないだろうが、逆に"穢れた紅"に位置を知らせてしまう。それ以前に、街の中での《ワーディング》の使用は、慎重であるべきというのがUGNの方針だ。運転中の一般人が《ワーディング》によって気絶してしまったら、望まぬ事故が発生する恐れもあるからだ。

(このまま、何とかアイツをやり過ごしながらセーフハウスまで帰投しないと……)

 物陰から路地の様子を伺いながら、カバンを投げ捨てたのは我ながら悪手だったと遥海は悔やんだ。あの中には応急手当用の包帯や薬品、身だしなみ用のハンドミラー――顔を出さずに曲がり角を視認するのにもってこいの――などが入ってたのだ。とは言え、あの状況で"穢れた紅"から逃げるには、無理矢理にでも隙を作って、そこにつけ込む以外の方法を遥海は思いつかなかった。

 追手の姿はない。遥海は上着から通信機を取り出し、オペレーターに連絡を入れる。流暢な、しかし若干の北京訛りのある英語でマー・アーリンが通話口に出るやいなや、遥海は喚き散らしたくなる衝動を抑えながら告げた。

「……奴が待ち伏せてた。周囲の監視カメラをハックして、"穢れた紅"を探して」

 了解Roger、と小さくも力強い答えが返ってくる。その言葉は、遥海に困難へと立ち向かう気力を、微かに湧き立たせてくれた。


 ――まだだ。まだ、活路はある。みすみす殺されてなるものか。

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