眼前の決壊

「院長!院長!」

 背の高い美丈夫が、病院に似あわないラフな格好で廊下を猛スピードで駆け抜けていった。窓の外には、霧雨に煙る黒々とした山塊が街を抱くように座しているのが見える。降りしきる膨大な量の雨水は山体に受け止められ谷へ収斂し濁流となり、河川へ、街へ流れ込む。そして、地面が保持できる水量の臨界に達した時、山が動いた。

「おい、院長外だ!外を見ろ!儂は出てくる、携帯借りていくぞ」

黒いシャツに紺色の半ズボンという出で立ちの男は、憔悴しきった白衣の男を見つけ、それだけを告げいずこへ走って行った。

「院長!院長!外が!山体崩壊です!街に土砂が」

 少し遅れて別の白衣の男が入ってきて、院長と呼ばれた男はうつろな目で窓の外を見た。先ほどまで木々が繁茂していた場所は茶色い土砂が露出し人工物を押し流していた。

「で、ベッドはあと何床あるんだったけ・・・急患に備えて、ICUは空きがあったよね。人員をまわして、落ち着いてね、患者さんに不安が伝染するとよくない。訓練通りに、うん、落ち着いて、訓練通りに、いいね?私も現場で指示を出すから。今からが大変だよ。しっかり頑張って」

 外を見つめる瞳に諦念の色が注すことはなかった。部下の医者を覇気のない声で励ますと、しわくちゃになった白衣を翻し、ICUのある棟へ消えていった。

 先ほどの美丈夫は白い床をばたばたとサンダルで駆けてゆき、電話越しに誰かと会話していた。

「ああ、霧か虹も無事か?ああ、それは良かった、そこも危ない。ああ、うん、そこなら大丈夫だ、ああ?風?ああ、うん、うん、分かった連絡しておく。気を付けて、じゃあな」

 不意に立ち止まり、左右を見て誰もいないことを確認し十階の窓を開けた。眼下には慌ただしげに其処此処を動きまわる黒い人の群れ。誰も空を見上げる者などいない。桟に足をかけ、一気に飛び降りた。開け放たれたままの窓は雨粒を少しだけ受け入れ床を濡らした。遠望の雲の切れ間に水蒸気の動きとは別種のうねりが覗いたが、すぐにそれは分厚い雲の中へ呑みこまれた。

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