檻を抜け出して

 唐揚げが食べたいと思った。雨の作るニンニクと玉葱とよく分からない香辛料がまぶされた揚げたてを。意識を失ってからしばらく目が覚めることがなかった。再び土の家のベッドの上で網膜におぼろげな光の像を映した時には首筋に氷嚢が当てられていた。

 時計は午後三時を差していた。頭痛も目眩もない。ゆっくり上体を起こして、そっと部屋を抜け出した。

 周囲に人の気配は無く、あっさり玄関までたどり着いた。床の大理石はひやりとして素足には冷たかった。

に出ると脇の駐車場に車が数台停めてあるのが見えた。車の陰に隠れるように産婦人科の窓の死角を選んで土の病院を抜け出した。

あてもなく歩いていると菰方建設の看板が目に入った。保護してもらおうと、プレハブの事務所の戸をたたく。怪訝そうに作業服を着た男性が滑りの悪い扉を開けた。

「なに?」

「社長の知り合いなんですけれど、社長はいますか?」

「・・・・・いや、居ない。あんた誰だ?だいたいなんだ、その格好は?」

 いや、あの、とどう説明して良いか分からなくて言葉に詰まる。

「なんなんだ?警察を呼ぶぞ、とっとと帰れ」

不機嫌そうに扉を閉められて、立ちつくした。砂利が素足にちくちく刺さる。土の所に戻りたくなかった。あそこにいたら彼らの得体のしれない役割を果たすための・・・・・犠牲、生贄の様なものにされる。病院内の幼気ない冷気と共に、なにか別のモノに作りかえられてしまう予感がした。もう土は脱走に気付いただろうか?パジャマ姿の目立つ格好ではすぐに見つかってしまうだろう。そのためにも土の病院からできるだけ離れなければならない。

 菰方建設の資材置き場をあとにして道路を歩いた。交通量の多い通りから人目をさけて住宅街に入り、そこを抜けて雲の病院へたどり着ければ今度こそ大丈夫なはずだ。

点滅信号のついた交差点にパトカーが入ってきたので慌てて路上に止めてある車に隠れた。走行音が遠ざかるまで待って、再び雲の病院を目指す。裸足でずいぶん遠くまで歩いた。痛みで足の指の感覚がほとんどなかった。雲の病院には一向にたどり着けていない。

歩いているうちに影が少しずつ伸びて、太陽も低くなってきた。通行量も次第に増え、すれ違う人から訝しげな視線を受ける。それに耐えられず、大通りに出ると、すれ違いざまのヘッドライトに目がくらむ。逸らした目線の先に命婦病院の大きな看板がライトアップされて、そちらの方へ痛む足を引きずりながら向かう。

突然後方からクラクションを鳴らされた。振り返ると雲と見知らぬ女性がいた。

「おいで。一緒にご飯を食べに行こう、さ、早く乗って。もう大丈夫」

言われるがまま、すぐに後部座席へ乗りこむと、助手席の女性が誰?と聞いていた。

「えっちゃん、悪いけど、この辺に若いこが着るような洋服屋さんってどこにあるかなあ?」

「えっ?先生の隠し子とかじゃないよね?えっと、そこの信号曲がってすぐよ。右側にあるわ」

「あぁ、そういえばあったね。よく安売りのチラシがはいってくる所だよね。でさ、悪いけど」

「一式買ってくればいいんでしょう?お金ちょうだいよ」

あぁ、ほんと察しが良いねぇありがとうと言って雲は財布を渡す。女性が車を降りるとすぐさま振り返って破顔した顔を向けられた。

「あぁ、本当に、本当に御無事で何より。私たち一同お探し申し上げていました。無事を皆に伝えますのでしばしお待ちを」

慇懃な態度で雲は携帯電話を取り出した。声から察するに虹のようだった。電話を渡されると若干涙ぐんだ嬉しそうな虹の声が聞こえた。

「無事だったの?大丈夫?怪我していない?見つけてあげられなくてごめんね。見つかってよかった。本当に良かった。帰ってきてくれてありがとう。本当にありがとう・・・・・あぁ、ちょっと待って。雨に代わるわ」

もぞもぞと向こう側から聞こえてきてもしもし?とくぐもった声が聞こえた。「・・・・・雨、急にいなくなってごめんなさい」

「いいえ、こちらこそ。目を離してしまって悪かった。本当に、こうやって喋れるのが夢のようだ」

「本当に、ごめんね。あの後崖から落ちたの。そこを土に拾われて今日病院を抜け出してきた」

「そうか。抜け出せたのか。あぁ、良かった。生きていてくれて」

「そこで風や霧、雲について知ってるかって聞かれたけど、雨しか知らない、あの日は子供を探しに山に入ったって言った。それでよかった?」

「あぁ。充分だ。ありがとう。ほんとうに、良かった・・・・・」

 鼻を啜る音が聞こえたので、帰ってきたら唐揚げが食べたいと言うと少し笑ってくれた。そして雲に代わってと言われ、電話を彼に渡し、じゃ、そういうことでと、電話を切った。

「お待たせ。ねぇ、その子裸足なんだけどなにか足を拭くものある?」

 女性が帰ってきて、雲からウェットティッシュを渡された。助手席から足をこっちにと言われたので差し出すとていねいに拭いてくれた。しっとりとして柔らかな手のひらで足を拭われ、怪我、していないみたいねと雲に言った。

「えっと、洋服はこれでよかったのかしら?」

 彼女はチノパンとシャツとカーディガンを取り出した。それを見て、ありがとうと雲は微笑んだ。

 後部座席で着替えている間に雲は経緯を話していた。隠し子じゃないが杠先生関係でちょっと保護が必要で預かっている事、女性は悦子と言い、杠先生とも仲の良い看護婦さんであること、今日は彼女とその同僚とで雲と一緒にご飯を食べに言っている途中であること。悦子さんはえっちゃんでいいからと微笑んだ。

 和風の居酒屋に着くと、竹製の間接照明に足元を照らされた小路を抜け奥の個室へ通される。そこでしばらく待っていると四人の女性が中に入ってきた。

 えっちゃん久しぶりぃと挨拶をかわす。雲は彼女と同じような説明を入ってきた女性たちにも行った。四人ともしたり顔で頷いた。

 料理が運ばれ、お酒もある程度回ったところで、さっちゃんと言う土の病院で事務をしている人が話を切り出した。

「それでさぁ、先生、月曜日にお昼休憩からふらっといなくなったのよね。午後もお休みにするねって突然言い出して。まぁ、確かにお客さんは少なかったけどね。で、私も同僚のコと一緒に退勤して、ほら、あの、えっと、ハンバーグが美味しい所!」

「エトワール?」

「そうそうそこ!に行ったの。お昼食べに。そしたらさ、いるじゃん!先生とその子!!もぉービックリしてさ、えぇ?なになに?って二人で言いながらご飯食べたの。あぁ、その子なのね。確かにこの業界長いと先生にちょっと嫌なうわさがあるって聞くもんね。まぁ待遇いいからやめるつもりないけど」

 そう言ってカシスオレンジをぎゅぅっと飲み干した。

「ってか、あなた風邪引いてなかった?点滴が五個くらい無くなっていたのよね。ほら、今の時期風邪が流行りだすじゃない?で、うち産婦人科だけど内科も少し見るからそういう薬も置いているのよ。で、二日前くらいにあれ?足りないよねって話していたのよ」

 たけっちと呼ばれている看護師さんはそう言ってごぼうのてんぷらをさくさくと食べた。

「風邪をひいていたのかい?ちょっとみせて」

 雲におでこに手をあてられ脇に手を入れられてから軽く脈を見られる。その光景を見てくすくすと女性たちは笑う。

「大丈夫みたいだね。微熱と脈が少し速いだけで」

「その、杠先生、に薬をもらったから」

「・・・・・ねぇ、先生、その時どうだった?機嫌とか、口調とか」

「ん?なんで?どうかしたの?」

「それがねぇ、四、五日前からめっちゃ機嫌悪くてさ。ちょっとカルテ出すの遅いとめっちゃ怒るし、ずっと舌打ちしてるしさ。カリカリしっぱなしで怖かったんだよね」

「・・・・・いや、その、命婦先生みたいに穏やかだったよ」

「そうなんだぁ」

「それで、だけど週空けたら先生もっと機嫌悪くなっているかも」

 冗談めかして雲がウーロン茶に口を付ける。

「えぇーちょっともうやめてくださいよぉ。その子が先生に保護されたからですか?え?でもそうしたら変じゃないですか?その子が来たから先生機嫌悪くなったんじゃないの?」

「いや、風邪が少し良くなってからいろいろ質問されていたんだ。その答えが気に食わなかったからじゃないかな。しかもまた風邪がぶり返しちゃってずっと寝込んでいたから」

「えぇ?それ、ちょっとやばくない?うっわーほんと今の職場嫌だなぁ。転職しようかなぁ」

 あははと笑いながらハイボールを傾ける看護師のあきちゃんに少し同情した。その張り詰めた雰囲気がどのようなものか知っているからだ。

「・・・・・元雇主として、完全にオフレコだけど、私からも転職を勧める。どうしても職に困ったら私のところにおいで。でも、空きがあるのは非正規なんだけどね。だから早めにどこか見つけた方がいいよ」

「えっ?杠先生のところ潰れるの?」

「・・・・・たぶん、おそらく。その、君たちもおかしいと思わないかい?」

「たっしかにー!だってたまに先生訳わかない手当てくれるもん。そこがいいんだけど、あと、夜遅くまで残っていると帰れって言われるんだよね。普通逆じゃない?」

「わかる。私も何度か謎の手術の準備手伝ったらそれだけで十万くれたし。あ、これ内緒ねって言われたやつだった。ま、いいか」

 それ、覚えてる?良かったら教えてくれない?と、雲はたけっちという看護師に微笑みかけた。ただ、瞳だけがぎらりと輝いて否を言わせぬ凄味を秘めていた。

「え?あ、あぁ、その、普通の堕胎手術なんだけど」

 気圧されて、ぎこちなくそれに答を返すと、畳みかけるように雲はいくつか専門用語で質問をした。器具の種類や用意した書類、患者の処置の方法など。

「・・・・・その、一連の処置って、ぎりぎり違法じゃないわよね?」

「ああ。でも、しばらくは身辺に気を付けた方がいいかもね」

 一瞬、若い女性たちから笑みが消えた。彼女たちは明らかに動揺していた。視線は泳ぎ、意味もなくマドラーでカクテルを撹拌し、髪の毛をいじる。

「・・・・・先生?あの?ちょっと、その、言い出しにくいんだけど」

 毛先をくるくると指に絡めながらみかっちと呼ばれている看護師がおずおずと話しかけた。その様子に雲は何かを察して、そろそろ二次会に行きたいけれどと切り出した。

 結局えっちゃんとみかっちと一緒に虹のお店へ行くことになった。明日も仕事だからと帰る二人に雲はお車代と言って封筒を渡していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る