良い話と悪い話

虹の店に着いたのは夜も更けた時間だった。光暈を纏った月が足元をおぼろげに照らし、薄く広がる雲が時折その姿を虹色の光の中に隠す。駐車場から空を見上げ、今夜から小雨になるかもと雲は呟いた。店内は閑散としていて、男が一人いるだけだった。

雨と目が合うと彼女は唇をぎゅっと結んで頷いた。隣でキープのボトルを開けている虹が微笑んでいた。

「唐揚げ、三人分と、いつもの」

カウンターに腰掛ける雲の注文に、ええ、と虹がたおやかに応じる。ハイボールとロックを出して、この方が看護婦さん?と尋ねた。

「奥の方は、使える?」

「ご案内しますわ」

個室に通され、慣れた手つきで虹がハイボールを作る。からんころんと氷が心地よい音を立てしゅわしゅわと炭酸がグラスの中で踊る。

「あ、あの、ここ、よく来るんですか?」

「そうだけど?意外?」

「あはは、ま、まあ、少しだけ」

差し出されたハイボールに口をつけるみかっちの頬はほんのりと紅く目が据わっていた。テーブルに空のグラスがぽつぽつと増えたころ、雨が入ってきた。

「お店、締めてきたわ」

微笑んで、えっちゃんの隣に腰を下ろした。看護婦の二人はすっかり酔っぱらっていて、とりとめもなく喋るのに虹は丁寧な相槌を打っていた。

業務の事、杠先生の事、お休みが平日も不定期にあること、院内で囁かれるお化けの話、堕胎処理で出る医療廃棄物の量が少ないこと、土がたまにガラス細工のような不思議な植物をすりつぶしている事。

小糠雨が降りだした頃、二人をタクシーに乗せてお店のシャッターを下ろした。雲が送ると言ってくれたので四人で夜道を歩いた。

「雨?急にいなくなってごめんなさい」

「ああ、もうそれは済んだ事だ。その話はおしまい。霧にも言っておいたから」

うん、と頷いて、ビニール傘に砕けた雨粒が街灯の明かりに乱反射するのをぼんやり見上げた。雨の鼻がひくひく動く。まるで本物の犬のように。

何かに気づいたように一瞬動きを止め、雨が眼前の闇に目を見張る。

「玉が・・・・・」

はっとして路地の薄暗がりのその奥を見る。ぬるりと金色に輝く四つ目があらわれ白く大きな体躯が闇から出てきた。

双頭の犬だった。玉、と雨が漏らすとおかあさん、おかあさん、と泣いて尻尾を振って傍まで駆け寄ってきた。犬の姿の雨とそっくりなふさふさでくるりと巻きあがった尻尾の、玉のものは二つだった。異形の子供を目にしても、雨はおかえり、おかえりと頭を撫で抱きしめ背を撫でていた。傍から見て玉は、あの山中に埋まっていたものたちと同じような存在に思えた。

玉を抱きしめながら帰ろう、一緒においでと雨は言ったが、それにはごめんなさい、ごめんなさいと答えるのみで、玉はするりと雨の腕から抜けだして再び暗がりへ消えてしまった。

「・・・・・雨、大丈夫かい?」

傘もささず髪や肩が濡れている雨を心配して雲がそっと傘を差しだした。

「ああ、行ってしまった。本当に、電の言うとおりこの世のものではなくなっていた。」

「帰ろう。今日はゆっくり休んで。それから考えればいい。私たちのすべきことも、あの子たちのことも」

「・・・・・そうだな、ありがとう」

虹のアパートへ続く道を歩き出す雨の顔をそっと覗きこむと雫がぽたぽたと落ちていた。それが雨の涙なのか髪から滑り落ちた雨粒だったのか分からないが、それから雨音がだんだんと激しくなる夜道をだれも一言も発することなく歩いて帰った。

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