雨という白い犬
つんと、苦い臭いがして、吸い殻は既に灰皿の中で細い筋を吐きながら息絶えていた。
「寒かったでしょう?部屋でゆっくり休んで。夜になったらまた呼びに来るから」
グラスにウーロン茶を半分くらい残したまま席を立ち、虹に案内され店の勝手口から出てしばらく歩いたところにアパートがあった。そこの二百三号室は清潔で簡素な部屋だったが、雨は押し入れから布団を出して床に敷いた。
「ありがとう。時間まで休んでいいんだね」
「ああ。私は仕込みを手伝うから虹と一緒に戻る。お店があいたら私のことは雨子、虹のことはゆかりと呼んで。紫でゆかり」
「分かった」
じゃあねと玄関を出ていった雨を見送ると身体が鉛のように重くなり、布団に入るとすぐに寝入ってしまった。
雨に起こされたのは西日が夜の闇に呑まれていく頃だった。これに着替えて、と雨は生成りのシャツとカーキ色のパンツを取り出した。驚いて布団から抜け出すと雨は紺色のホルターネックのロングドレスに着替えていた。白い肌に紺色のコントラストがとても美しい。てっきり雨は厨房で唐揚げを作る係かと思っていたが、そうではないようだった。
着古したチノパンとラグランティーシャツを脱いでシャツに袖を通す。雨は歩きにくそうなきらきらしたピンヒールを履き、難儀そうに階段を降りていった。
カウンターに入ると豪奢な藤色の着物と優美な夜会巻きで髪をまとめた虹がいた。長い睫毛も陶器のような肌も間接照明に照らされると途端に輪郭がぼやける。まるで魔界の入り口にいる美しくも妖しい魔女のようで、魔性と言う言葉はこの人をさす言葉としてふさわしかった。
「社長はもう少ししてから来るわ。勘が良いのね。貴女の乗り捨てたバイクを片づけて来るそうよ」
お店が開いている間は雨を雨子、虹をゆかりと呼ばなければならないのだった。
「ねぇ、あなたはここの部屋にいてちょうだいね。もう少しで社長と先生が来るわ。その時までこの部屋にあるもの食べていいからね」
奥の個室に案内され、黒い皮張りのソファに腰を下ろす。テーブルには色鮮やかな果物が置かれていた。
しばらくするとドアを開ける音、嬌声、ぞんざいな足音が聞こえてきた。おとずれる客は皆唐揚げを注文していく。すこしだけ、雨の作る唐揚げが食べてみたいと思ったが、皆が到着したらその時に食べられるだろうと我慢する。
座って待つのにも疲れたのでソファに寝そべりぼんやりしているとドアが敲かれた。起き上り、返事をすると風と黒いスーツの男が雨に連れられて入ってきた。
「おまたせ。どうぞ座って」
「雨子さん、唐揚げを三人前いいかな?後はいつものね」
わかった、と短く言って雨はすぐに出て行った。風は上着を脱いでネクタイを緩めた。スーツの男は鞄を置いてテーブルのオレンジを手にとり剥きはじめた。
「久しぶり。元気だったみたいだね。こちらは霧」
「霧とお呼びください」
黒ぶちのつるの細い眼鏡にさっぱりした黒い短髪。品の良い細身のスーツはかすかにシャボンのにおいがした。
「雨が見つけてくれた。しばらく雨のところにいたけど、山から降りてきたんだ。ややこしい法的手続きを引き受けてくれて助かったよ」
簡素にこれまでの経緯や霧が弁護士であることなどを風に教えてもらい、何か預かり知れぬところでせわになっていたらしくありがとうと頭をさげた。
「どういたしまして。私はその為にいるのですからお気になさらず」
微笑んだ霧は風と初めて会った日のような受け答えをする。不思議だったが、それを問うていいのか分からなくて黙っている。霧はそのままオレンジの皮をむき、食べ始めた。柑橘の香りで部屋が満たされる。ガチャリとドアが開き、両手にお盆をのせた雨が入ってきた。風は飲み物が入ったお盆を受け取る。そのそつのない動きに、気の使い方がうまい人だと思った。
「社長、ありがとう。先生はぬる燗で、社長は生でよかったかしら?」
「それからいつものウィスキー、あ、お盆に載っていたね。ありがとう」
お盆を持った二人が配膳して軽く乾杯をした。香辛料の匂いとさくさくの衣を纏ったきつね色の唐揚げがテーブル中央におかれ、早速風が箸をつけていた。さくっさくっと音を立てて咀嚼する。にやぁと笑って美味しいなあと雨を褒める。
霧も唐揚げにかぶりついてもぐもぐと口を動かしうんうんと風に同意した。一口食べてみると、さっくりとした衣と噛むたびに肉汁をあふれさせる身がとても美味しく、スパイシーな香りが鼻に抜けさらに食欲を刺激する。人生で食べたどの唐揚げよりも雨の唐揚げが抜群においしかった。雨も嬉しそうに唐揚げを口に運ぶ。犬だった時と同じように、嚥下し終えるとにやっとする。お酒に口を付けるのも忘れてみなで雨の唐揚げを無言で貪った。
唐揚げのお皿が空になると、雨はお皿を下げて煮付けと枝豆を置いた。二人はここでやっとお酒に口を付ける。
「それで?風と霧は何を持ってきたの?」
「ああ、ひとまず唐揚げがとても美味しかったよ、ごちそうさま。うーん、先月の襲撃はやくざだね。今日のは同やくざの傘下にある暴走族の仕業。さきほど関係者が警察署へ移送されていたよ」
「そう、バイクの件はありがとう。それで、私たちの探し物が見つかったんだが、伝承にあった通り、記憶をなくしている」
「ああ、この子だね。私は会ったことがあるけど霧は初めてだね。どこで見つけたの?」
「山の中だ。子供たちが見つけた」
「そうか。じゃあ、子供はみんな巣だったんだね」
「・・・・・あぁ」
すこし眉根を寄せて子供のことを語る雨が気になった。
「・・・・・喰われた子供は、残念だったとしか」
「そうだな・・・・・」
子供は全部で四匹ではなかったのか?喰われるとは一体何だろう。
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