蛙坂絨毯

鯣 肴

蛙坂絨毯

 或る雨の日の事だった。或る田舎の山道。車一台が限り限り走るのがやっとの、全長数百mの、湾曲の続く、見通しの悪い下りの坂道。其処を抜けると私の自宅であった。


 その日は仕事が珍しく早く終わった。爽快な気分で買ったばかりの軽自動車に乗り込んだ。ところが、運転すること数十分、曇りで留まって居た天気は崩れ始め、黒雲で空は覆われ、すっかり辺りはくらく成っていた。


 そうして居る内にくだんの坂道へと辿り着く。そして、最初の湾曲に差し掛かる直前。ふと車内の時計に目を向ける。17:00。窓の外は薄暗く、とうとう雨が降り始めた。勢いは弱いが、地面が湿るには十分な雨量。小さな水溜りが進む先へ形成されていく。


 明かりを点けなくとも外が見えない程の冥さでも無く、正面の大窓からの視界を雨が邪魔する程の勢いでも無かった為、そのまま、普段の様に先へと進んで行く。






 最初の湾曲を超え、坂の中盤程度に差し掛かった頃だっただろうか。前方の道に普段とは違う様子、雰囲気が見受けられた。今思えば、此の時に引き返す可きだったのだろう。多少無理をしてでも。時間が掛かると判って居ても、車を逆走させる可きだったのだろう。


 だが、私は進んでしまった。後戻り出来ない処まで


 進んで行く内に徐々に目に入って来る違和感は現実的に、鮮明に成る。目に入るのは緑。一面の緑。それが本来灰色である混凝土こんくりーとの地面の上を覆って居るのだ。


 私は何事かと思い、車を止める。すると其処に居たのは、蛙。辺り一面に絨毯じゅうたんの様に敷き詰められた雨蛙だった。


 私は其の場で大きな足音を響かせた。すると、およそ3m程度迄蛙は退くが、其れだけだった。続く道には緑色が只管ひたすらに続いて居るのだから。


 だが、今更引き返せはしない。此の道は狭く、逆走するとなると大きな危険を伴う。それに因る事故も過去に此処で起こって居たのだから。其の事をなまじ知って居た事が私から、逆走という選択肢を排除させた。


 覚悟を決めるしか無かった。此のまま突き進む、と。


 車に戻った私は、一度下を、進行方向の緑を一瞥いちべつし、溜息を吐く。そして、すうっと大きく息を吸い込み、右足を踏み込ませ、前方の緑へ突入する。


ブォゥーン、

ブチブチブチブチブチブチ…………


 破裂音が響き渡る。車の原動機えんじん音を突き抜けて。


 私は速度を一気に上げ、其処を一秒でも、いや、刹那せつなでも良いから早く走破したかった。だが、其れは出来ない。潰れた蛙の上を走行しているため、足が利かないのだ。雨水ではない為、輪胎たいやまとわり付き、容易には取れない。輪胎の溝も意味を為さない。


 速度計に目を向ける。十数km/hしか出て居ない。此れ以上は危険、出せないと、心が叫ぶのだ。


 足元から聞こえてくる破裂音と理性が闘う。限り限り其れ以上、右足先から力を伝えない様に。右足を踏み切らない様に。気持ちを瀬戸際で抑えつつ。


 恐怖に抑されつつも、進行方向へ目を向ける。すると、緑の絨毯に、まだらに茶色が混ざり始めて居る事に気付く。どうやら雨蛙以外も居るらしい。


 私は其の儘進み続ける。早く終わってくれと心の中で絶叫しながら。


!?


 何かが車の正面に向かって飛び込んで来る。正面の大窓右側中央に向けて。気づいた時にはもう手遅れだった。


ドォォォォン!

ドォブチャーッ!


 其れは私の車の正面の大窓に激突し、ぐちゃりと飛び散った。不幸な事に、体の半分程度のその肉塊を其処に張り付かせ、まるで柘榴ざくろの断面の様に血肉を飛び散らせていた。


 そう。其れは蟇蛙ひきがえるだったのだ。大きさからして間違い無く。私は其の時のあの眼が網膜に焼き付いてしまった。半壊した頭部。其処に残った片方の眼で、窓越しに私を見つめるあの眼を。目が合ってしまったのだ。刹那の事であっただろう。しかし、其の時間は長く感じられた。数秒間時が止まった感覚。その後、どろりとその眼は力を失い、濁り、止まった。


 言葉にならない絶叫。それが喉元から勝手に湧き上がる。そして、耐え切れず、右足を完全に踏み降ろした。


 湾曲、湾曲。続く湾曲。右に左に必死でかじを取る。車を滑る様に進行させる。目の前の其れから逃げ出したくて。張り付いて居るのだから逃げられる筈も無いのだが。先程まであれ程耳に訴えかけて来た音すら気にならない程頭が真っ白になり、其処から先は覚えては居ない。






 気付けば、家の前だった。車の原動機は停止されて居た。幾程か停車してから時間も経過して居た様で雨はすっかり止んでいた。


 これは泡沫うたかたの夢だったと、認識を改竄かいざんしたかったが、目の前の窓に張り付いた肉塊が其れを許してはくれなかった。


 左の窓から外を見る。すっかり辺りは真っ赤に染まっていた。夕方。雨上がりの夕日である。自身の網膜に焼き付いた光景の所為せいか其れは此れまで見た所在あらゆる光景よりも綺麗に見えた。


 動く気力を取り戻した私は、車を家の脇の川へと移動させる。そして、車から降り、自宅倉庫から管を延ばし、思いっ切り放水した。車の正面目掛けて。


 強烈な水圧が飛び散った血肉、油分、肉片を吹き飛ばす。肉塊もその勢いに負け、剥がされ、川へ流され、下っていく。その後、車体全体に付着していた私の罪と恐怖を丁寧に洗い流した。


 そして、管を放り投げ、川縁へ移動する。そして、此れまで内に溜め込んで堪えていた嫌悪、不快感、罪悪感を吐瀉物としゃぶつとして放棄した。





 其れから私は緑色と茶色が苦手に成った。蛙何ぞは直視出来やしない。そのため、過ごし易かった田舎から都会へと引っ越す事と為った。

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