深夜喫茶Chain「一杯の珈琲」

  その日、松永 清一(マツナガ セイイチ)は一人、深夜の喫茶店を訪れた。


レジに居た若い男性店員に珈琲を注文し、窓際の席に腰掛ける。


深夜帯というのもあり、客はほとんど居ない。


天井で回り続けるシーリングファンをぼおっと見つめながら、店内に設置されたスピーカーから流れる音楽に耳を傾ける。

松永の大好きな曲だった。

昭和歌謡界を代表する曲のメロディだけが、静かな店内にしっとりと流れている。

小声で歌詞を口ずさんでいると、やがて僅かな微睡みを感じてきた。

ソファに深く腰かけ、松永はふうっと溜息をつく。


松永はここ何日かろくに睡眠を取っていない。

眠れない訳では無い。

寝る暇がないのだ。

父親から受け継いだ町工場。

それが今倒産の危機にあった。

両親が必死にやってきた工場だ、潰したくはない。

しかし、色んな所へ頭を下げても融資は断られ続け、松永の心は心底疲弊仕切っていた。

このままでは大学進学を控えた娘の学費さえ危うい。

家族を犠牲になどできない、できるとしたら、己の命だけ……。


ふと、窓に目をやる。


店の外を通りすがる通行人が目に止まる。

会社帰りの疲れた顔をしたサラリーマン、飲みの帰りか、顔を火照らせ、陽気に語らいながら歩いて行く若い男性達。

どこか思い詰めた顔で俯き歩く女性。


皆それぞれ思いに耽ながら歩いているのだろう。


松永はそれらを見ながら懐かしそうに目を細めた。

だがその時、ふとある事に気が付く。


傘だ。

皆傘をさしている。

しかも暗くてあまりよく見えなかったが、雨粒が街灯に反射して微かに見て取れた。


ここに来る時は降っていなかった。

運が良かったな。

等と松永が思っていると、先程の若い店員が珈琲を運んで来てくれた。


「お待たせ致しました」


淹れたての珈琲の香ばしい香りが、松永の鼻腔をくすぐる。

落ち着く香りだ。


「ここの珈琲はずっと変わらないな、昔のままだ、ありがとう……」


そう言って松永が珈琲を一口味わう様に口に入れた時だ。


「あのう……失礼ですが前にもよくここに?」


若い店員が申し訳なさそうに声をかけてきた。


「ん?あ、ああ……だいぶ昔だがね……親父に連れられて何度か、子供の頃だったけど、親父の真似して飲めもしない珈琲頼んで、舌がバカになりそうなほど砂糖を入れてさ、誤魔化しながら飲んでたよ、ははは」


「はは、なるほど、そうでしたか……」


「まあそれもあって珈琲が好きになったんだが、実はもう一つこの店の好きな所があってね」


「この店のですか?」


店員が不思議そうに聞き返す。


「ここから見える景色が大好きだったんだ……特にこんな雨の日さ……色とりどりの傘が行き交ってこう……カラフルでさ、親父も好きだったんだ、ここから見える景色、まだ結婚する前のお袋としょっちゅうこの店に来て入り浸ってたらしいよ……ああ悪い、こんなおっさんの思い出話に付き合わせちまって」


松永が慌てて店員に言うと、若い店員はお構いなくと微笑み返してくれた。


「はは……考え事してたらつい懐かしくなっちまってね、この店に入っちまった……窓を見てたら丁度雨が降ったみたいで皆傘をさしてたからさ、何かつい思い出して……」


「雨?」


店員が一言返した時だった。


「雨なんか……降ってませんよ……」


「えっ?」


突然店内から掛けられた抑揚のない女性の声に、松永は一声上げながら振り返った。


赤い眼鏡を掛けた若い女性だった。

勿論会ったこともない知らない女の子だ。


「き、君は?」


松永がそう尋ねた時だった。


「美、美兎ちゃん?」


店員の男性が女性の名を呼んだ。

どうやら知り合いのようだ。


「店員さんも見てたでしょ?雨なんか降っていなかった……」


「いや、ま、まあ……ていうか何んだよ急に、お客さんに失礼だろ」


「私もお客様ですよ……もっと崇めて……」


突然やってきた女の子と店員が訳の分からないやり取りをしだす中、松永はさっき聞いた言葉が気になり窓を振り返った。


外にはほとんど人など居なかった。


無論、女の子の言う通り雨が降っていた形跡すらない。


「は、はは……疲れてたのかな……」


松永そう零した時だった。


「お知り合いですか……?さっきから貴方を見ていますが……」


女の子が再び松永に声をかけてきた。


振り返ると、あの女の子が外を指さしている。

釣られるように指を指す方に松永が目を向けると、そこには忘れもしない人物が二人、こちらに微笑みかけるようにして立っていた。


「親父……お袋……!?」


松永は衝動的に急いで席を立ち店の外へと出た。

窓側の壁沿いまで駆け寄ったが、二人の姿は何処にもない。

幻?いやそんな筈はない。

さっきの女の子が指をさして教えてくれたのだ。

見えていたのは自分だけではない。

けれど二人はもう既にこの世にはいない筈。

亡くなった母を、追いかけるようにして病で亡くなった父。


呆然としながら松永が店に戻ると、さっきの若い男性店員が松永に駆け寄ってきた。


「だ、大丈夫ですかお客様?顔色が……」


「あ、ああ……ちょっと信じられないものを見てしまって、気が動転したというか……」


すると、男性店員は少し困った顔をしながら口を開いた。


「じ、実はさっきのおじいさんとお婆さん、ぼ、僕にも見えてまして……前にも会った事があるって言うか、そ、その、この店よくこんな変な事が度々あるって言うか、信じては貰えないかもしれないけど……」


しどろもどろになりながら店員は松永にそう答えた。


「き、君にも見えたのか……?親父と、お袋が……?」


「私にも……」


そう言って先程の女の子が店員の背後からひょっこりと顔を出して言った。


「はは……し、信じ難い話だな……でもそうだな……その話、詳しく聞かせてくれないだろうか?君達にも珈琲を奢るよ、他に客もいないみたいだし、良いだろ?」


「い、良いんですか?丁度休憩時間なのでお客様が良いのなら僕は喜んで」


店員と女の子は快く承知し、松永は三人でテーブルを囲んだ。


夜は長い。

過ぎ去った時を感じつつ、淹れたての珈琲を口に運びながら、三人はいつまでも言葉を交わした。





松永がとある銀行から融資を借り入れることができ、工場を立て直す事に成功した後、娘の入学式のお祝いにこの店に立ち寄ったのは、それから数ヶ月が立った日の事となる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

深夜喫茶 コオリノ @koorino

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ