『証言』
矢口晃
第1話
最初乗ってきた時から、何というか、違和感というほどのこともないですけれども、ちょっと変わった人だなとは思いましたよ。六本木の交差点の辺りで私の運転するタクシーに手を挙げまして、ちょうど夜の十時半になろうかという頃だったと思います、ええ、時間ははっきりと記憶していのですよ。何しろそのお客さんが乗ってきた後、散々時間のことばかり気にするのですからね。
そうですね、服装は黒っぽいスーツに、それほど高そうなスーツではなさそうに思いました、何というかパリッとした感じではなくて、どちらかというとくたびれた感じのスーツでした、身長は百六十五センチ前後でしょうか、髪はそれほど長すぎず清潔でした、着色もしないで。何年も買い替えていなさそうな眼鏡を付けていましたね。ただ控え目でおとなしそうな印象でしたよ。歳はそうですねえ、二十五、六というところだったでしょうか。
そのお客さんはタクシーの後部座席に乗り込むと、
「すみません。東京タワーまでお願いします」
と言いました。ちょうどその時私は東京タワーを背にして車を走らせていたものですから、
「Uターンしなくちゃいけませんから、少しかかりますよ」
とお客さんに言いました。お客さんは少し面白くなさそうな顔をしながら、
「なるべく急いで下さい」
と私に言いました。
急ぎたいのはやまやまですが、そうかと言ってご存知の通り六本木の夜はあの人通りに車の数ですから、そう簡単に飛ばすわけにもいきません。私はなるべくお客さんの気を損ねないように気を使いながら運転しました。
ようやく細い路地を使って車の方向を変えることができた頃には、十時半は確かに過ぎていました。なぜならお客さんがその時、
「東京タワーの大展望台は何時までですか?」
と私に質問してきたからはっきりと覚えているんです。
「さあ、……何時まででしょう」
曖昧に答えた私には、お客さんは続けて、
「十一時まではやっているでしょうか?」
と自信のなさそうな声で尋ねてきました。ちらちら腕時計を気にしながら落ち着きなく窓の外を眺めるお客さんの様子を、私はルームミラー越しにそれとなく伺っていました。何か東京タワーの展望台の上で誰かと待ち合わせでもしているというような、そんな様子に見えましたので、
「どなたか、お待ち合わせですか?」
と私は遠慮がちに声を落して聞いてみました。お客さんは意外にも嫌そうな顔も見せずに、
「いえ、まあ……」
と言葉を濁していました。私はそれ以上首を突っ込んで聞くのはやめようと思い、ただひたすら車の運転に集中しようと心がけました。
車が長い信号待ちをしている間、お客さんはやはり腕時計を何度も見ながら、時折深いため息をついたりしていました。何だかやたらと時間がかかってしまい、私の方まで申し訳なさで胃がしくしくしてきました。いえ、胃はそれほど弱くはないのです。ただお客さんの気持ちを考えるとね、同じ男性として済まない気持ちになるのですよ。ええ、その時には私は東京タワーの上で待ち合わせている相手は女性だろうと、勝手に想像で決めつけていたものですからね。
信号待ちから解放されて、最後の坂を登りきってやっと東京タワーに到着した頃には、すでに十時四十分を過ぎていたころでした。駐車場に車を停めると、お客さんは私にこう言うんです。
「すぐに戻ってきますから、ちょっと待っていてもらえます?」
展望台がまだやっているかどうかを見にいくのだなと感じ取った私は、にこやかに笑いながら、
「ええ、いいですよ」
とお客さんに答えました。車を降りたお客さんの後ろ姿を、私は運転席から体をねじってしばらく見ていました。何とも頼りない、寂しい後ろ姿でした。
それから数分後です。トントン、と後ろの窓ガラスを軽くノックする音が聞こえました。私はその時ルームライトを点けて新聞を読んでいたので、後ろからお客さんの近付いて来るのに全く気がつかなかったのです。
「お帰りなさい」
そう言いながら、私はドアを開けました。再び車に乗り込んできたお客さんを見ると、何と驚いたことに両手にジュース入りの紙コップを持っていました。お客さんは車に乗ると、その一つを私に差し出しました。私は慌てて両手でそれを受け取りながら、
「いや、どうも、ありがとうございます」
とお礼をいいました。お客さんは「ふふ」とはにかんだように笑いながら、
「やっぱり、もう閉まっていました」
と私に向かって言いました。私は頂いたジュースを両手で持ちながら、
「それは……お気の毒です」
と言いました。お客さんはその後しばらく黙ったままでした。
私の分のジュースまで買ってきて、車に乗っても行き先を告げないということは、恐らく私に何か聞いてほしい話でもあるのだろうと思い、私はルームライトを点したまま、もらったジュースに静かに口を付けていました。
おもむろにお客さんが言ったのは、
「いつも、だめなんですよね」
という言葉でした。その意味はもちろん私には理解できませんでしたが、私はただ黙ってお客さんの言うことを聞いているべきだと思い、あえて言葉を口にはしませんでした。
お客さんはドアの窓ガラスのところに左肘を立て、じっと暗い外を見つめていました。青年特有の、憂鬱そうな横顔でした。
お客さんは、またぽつりと言葉を発しました。
「いつも、あとちょっとのところで、だめなんですよね」
わかる。私はその言葉を聞いて、素直にそう思いました。やはり待ち合わせていたのは女性だったのに違いありません。そしてお客さんは、その女性に憧れていたのに違いありません。ひょっとしたら、美しい夜景を二人で一緒に眺めながら、愛を打ち明けようとしていたのかもしれません。
私は自身のまだ若かった時分のことを思い出しながら、そんなことを考えていました。もしかしたらお客さんは、今日のこの日のために何日もの間デートの段取りを組み立てていたのかも知れません。そして愛を告げる緊張で、悶々と寝苦しい夜を幾度も重ねたのかも知れません。それが、何かの都合で全てが水の泡になってしまった。やっとの思いで夜のデートに誘いだした相手の女性も、先に帰ってしまっていた。あんな夜中に一人で待たせたのです。相手の女性は相当怒っているかもしれません。もう口も聞いてもらえなくなるかもしれません。電話をかけても、もう出てくれなくなるかもしれません。
「すみません、降ろして下さい」
私の勢いづいた思考は、お客さんのその声によって唐突に中断されました。見ると、寂しい笑顔を、それは明らかに無理をして、強くあろうとして作っている笑顔だと見て取れましたが、そんな表情をしてお客さんが私の方を見ています。お客さんは私に千円札を一枚渡しました。そのスーツの袖が、やけに長くて手の平にまでかかりかけていたのを覚えています。私が百いくらからのおつりを用意しようとすると、お客さんは、
「お釣りは結構です」
と言いました。私は返す言葉がみつからなくて、
「はあ、すみません」
と小さく言いながら頭を下げました。私がドアを開けると、お客さんは持っていたジュースの紙コップを私の前に出しながら、
「すみませんけど、これ……」
と言いかけました。私は咄嗟に、
「ああ、いいですよ。捨てておきます」
と言いながら紙コップを受け取りました。それからお客さんは、何も言わずにすたすたと歩き始めました。六本木の方へ向かって歩いていきました。東京タワーのオレンジ色の照明に照らされた後姿が、しょんぼりと、何だか泣いているようで、私まで胸が熱くなりました。
私がそのお客さんについて覚えていることはそれだけです。何の嘘いつわりもありません。善良そうな、とてもおとなしそうな青年でした。とても人を殺したりするようになんて見えませんでした。
どうしてあの青年が、あの日の深夜都内で発生した女性殴打殺人事件の犯人として疑われているのか、私にはさっぱり理解ができません。はい。確かに私の見た男性と、この似顔絵の男性とは雰囲気がとてもよく似ています。身長もちょうど刑事さんのいうのと同じくらいだったように思います。でもだからと言って、あのおとなしそうな、傷つきやすそうな、心の素直そうな青年が、どうして人を殺したりなどできるでしょうか。私は、絶対に彼ではないと思います。きっと、いや、間違いなく人違いですよ。
そうだ。そう言えば、さっき刑事さんこう言っていませんでしたか? 女性は鈍器のようなもので、顔面を激しく複数回殴られ死亡したと。そしてその傷が女性の左顔面に集中していることから、犯人はおそらく右利きだろうと、そう言っていませんでしたか?
なら、やっぱり違いますよ。彼は犯人なんかじゃありません。なぜなら、私はよく覚えているんです。彼が始終気にしていたあの腕時計のことを。
あのお客さんは、腕時計を右の手首につけていたんですよ。いえ、間違いありません。私はルームミラー越しに、何度もそれを確認していたのですから。そうです。最初あのお客さんが車に乗ってきた時に感じた違和感というのも、実はそれが一つの原因だったかもしれません。何か様子が違うな、ああそうか、腕時計が逆なんだ。私は確かにそう思った記憶があります。
刑事さん、右利きの人が、右の手首に腕時計を巻いたりしますか? 普通は、左腕に巻くんじゃないんですか?
あのお客さんは左利きだった。そうです。最後に私にお札を渡す時の手だって、間違いなく左手でした。お客さんの手の平が、私の位置から見えたのですから。
やっぱり違う。あのお客さんじゃありませんよ。あんな打たれ弱そうな横顔の哀しい青年が、人なんて殺したりするものですか。
『証言』 矢口晃 @yaguti
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