3――落雪の室内へ(前)
3.
どうしてこんなことになったの?
なんでお母さんが大怪我してるの?
『手術中』
って文字が点灯するICUの門扉を見上げた私とお兄ちゃんは、通路脇のベンチに腰かけて、お互いの手を握ったの。
正確には、私が一方的にお兄ちゃんとくっ付いてるだけなんだけど。
だって心細いでしょ? お兄ちゃんがそばに居てくれるだけで安心できるのよ。いつも私を包んでくれる、頼れる
私をかばって事故に遭ったときも。そして今も――。
「お母さん大丈夫かな~?」
「後頭部に打痕があったらしいね、あるある」神妙にうつむくお兄ちゃん。「体は水浸しで、周囲に遺留品はなかった。通用口だから靴跡はたくさん雪上に残ってたようだけど、凶器は見付からず。一体何が、母さんの頭へ直撃したんだろう?」
「それについて我々も聞きたいねぇ」
「!」
突如、通路の向こうから人影が現れたわ。
顔を上げた先には、なぜか紫一色のラメ入りっていうド派手なスーツを身にまとった精悍な男性が立ってる。
め、目がチカチカする……。
すっごい悪趣味な一張羅よね。紫色って、ホストでも着ないと思う。髪の毛やワイシャツ、靴下まで紫色なんだもん。
「やぁどうも、実ヶ丘署の捜査一課強行犯係、
おどけた声で挨拶がてら、警察手帳を提示されたわ。
階級は警部。まだ二〇代後半っぽいのに警部だなんて、キャリア組じゃなきゃ難しい身分よね。
国家公務員試験に受かったキャリア組って、最初の数年は現場経験を積むために所轄へ配属されることがあるらしいから、その一環なんだろな~。
見れば、三船さんの後ろにも人影があった。彼とは打って変わって、地味な灰色のスーツとトレンチコートを着た青年よ。三船さんよりは年若い感じ。二〇代前半くらい?
その人も警察手帳をひけらかす。階級は巡査部長。
短髪で実直そうな顔立ち、どちらかと言えば小兵だけど腕っぷしは強そう。刑事らしい目立たない佇まいね。そもそも目立ちまくりな三船さんがおかしいんだけど……。
「不肖、
うっわ、うるさい声~。
そんな大声で宣言しなくても聞こえるよ~。
浜里さん、いかにも体育会系なのよね。三船さんが大卒キャリアなら、浜里さんは高卒ですぐ警察学校に入った、現場の叩き上げって感じ。
「警察が来たんですね、よくある展開だ」
お兄ちゃんが立ち上がって、会釈を交わす。
「病院が通報したからねぇ。傷害沙汰も強行犯の仕事なんだよ、うん」
三船さんがメモ帳を開き、右手でボールペンをくるくると回した。
事情聴取する気満々ね。私たちが第一発見者だもんな~。被害者であるお母さんが一命を取り留めた分、殺人事件よりは小規模だけど、原因をはっきりさせなきゃ警察も引き下がれないもんね。
「さっき『事故』現場って言いましたよね、浜里さん?」
お兄ちゃんが耳ざとく質問したわ。
あ、お兄ちゃん鋭い。些細な一言も聞き逃さないの、かっこいいよ~。
これじゃ~どっちが聞き込みされてるのか判ったもんじゃないわね。
「ええ、まぁ!」頭を掻く浜里さん。「不肖、この浜里漁助! まだ断定するのは早計でありますが、状況を伺う限りでは、傷害事件の線は薄いと推察しました! 現場に凶器などの遺留物がなかったので!」
「先入観は禁物だけどねぇ」
すかさず三船さんが黙らせる。
咄嗟に唇を閉ざした浜里さんを尻目に、改めて三船さんがお兄ちゃんと私を正面から見据えたわ。
「病院から交番へ、交番から強行犯係へ、連絡が来たわけだけど、湯島溜衣子さんは何者かに傷付けられたのか、それとも事故だったのか……? 今、現場の裏口にも捜査員と鑑識課が詰めている最中だねぇ、うん」
三船さんはメモ帳片手に紫色のメガネをくいっと押し上げ、紫色のハンカチをポケットから出して、手の汗を拭った。
本当に紫だらけね。色彩心理的に意味があるのかな、お兄ちゃん?
「あるある。紫は人を寄せ付けない高貴な心理。高学歴キャリア組にふさわしい色合いだね。昔の冠位十二階でも、紫は上位に位置づけられてた」
「俺の紫色が、何か?」
「こっちのことです」こほんと咳払いするお兄ちゃん。「で、僕たちは何から話せば良いですか?」
「いろいろあるけどねぇ。まずは月並みに、お母様が人に狙われるような覚えはないか。それと、最初にガイシャを発見したときの様子を克明に聞かせて欲しいねぇ。あとで調書も作るから、警察署でもしゃべってもらうことになるけど」
「こ、克明も何も~……」
私、あの惨状を脳裏に思い出して、言い淀んじゃった。
お母さんの惨状に気が動転して、現場の状況なんて覚えてないよ~。
「母さんは雪と水に濡れてました」すかさず代弁するお兄ちゃん素敵。「患部は後頭部、それも頭頂部に近い箇所でした。寒さのせいか、血の凝固は早かったようで、出血量は少なかったです。ありがちだなぁ」
「よく見てるねぇ」ボールペンを指先で回す三船さん。「大した観察眼だ」
「妹が大騒ぎしてた分、僕は冷静で居るよう努めました」
むぅ。何よそれ~。
私がまるで落ち着きのない子供みたいじゃないのよ~。お兄ちゃんの発言だから許すけど。むしろお兄ちゃんが私を常にフォローしてくれてるって思うと嬉しいかも? うん、やっぱりお兄ちゃん大好き。
「何時頃から倒れていたんだろうねぇ?」
「母さんの退勤時間は昼前だったはずです」
「あ~、お兄ちゃん。それ、残業して遅れてたわよ。私、お母さんと話したもん」
「本当かい、ルイ?」
お兄ちゃんが私をまじまじと見つめたわ。
わ~い、お兄ちゃんの瞳に私が映ってるっ。眼光に吸い込まれそう~。
「本当よ、お兄ちゃん! それと……あんまり言いたくないけど、沖渚にも再会したの」
この忌むべき名前は出したくなかったけど、仕方ないよね。
お兄ちゃんの左足を奪った人物の身内なんて、口に出すのもはばかれるわっ。
「沖? ああ、交通事故の」左足を一瞥するお兄ちゃん。「僕に気を遣わなくていいよ。優しいなぁ、ルイは」
ひゃ~、優しいって褒められちゃった!
しかもお兄ちゃんってば、私の頭をいい子いい子してくれたの。神すぎるっ。お兄ちゃんに頭撫でられるの好き。大好き。超好き。
「んふふ~。沖渚は『ブランケット症候群』っていう心の病気らしくて、お母さんの診察を受けてたんだって」
「母さんの? それはまた運命のいたずらだな。あるある」
そんなにないと思うよ、お兄ちゃん。
「でね、その母親である沖波恵が、四〇八号室に過労で入院中なんだって」
「四〇八号室?」
「そ~なの。その部屋って、通用口の軒先から見上げた場所、ちょうど真上に位置してたのよ~!」
これって偶然とは思えないわ。
四〇八号室の直下に、お母さんの事故現場があったなんて。
「部屋の窓には開閉禁止の貼り紙があって、外には
「氷柱! それっすよ!」
叫んだのは浜里さんだったわ。
私は話の腰を折られてムカついたけど、みんな彼を注目したから黙っておく。
浜里さんは手を叩き合わせ、三船さんへ訴えかける。
「やっぱりこれは事故ですよ! 不幸な落雪事故です!」
「根拠は?」
三船さんが促すと、浜里さんは相槌を打ってみせた。
「氷柱や落雪が危ないのは、雪国じゃ常識です! それらは凶悪な鈍器と化します。重みで落下して、人の命を奪うんです!」
「通用口から退勤したガイシャに、運悪く直撃したってことかい?」
「その通りです三船主任!」
浜里警部は拳を握りしめた。
力説してるな~。ちょっと自説に固執してる向きもあるけど。
「さっそく四〇八号室を調べましょう! 氷柱の落ちた痕跡が、張り出した屋根に残っているはずです! もしくは屋根の上から滑り落ちた雪の形跡が!」
ぐいぐいと三船さんを引率しようとする浜里さん、水を得た魚みたいに有頂天だわ。
やっぱり『事故』なの?
たまたま運悪く、病院の屋根から氷柱もしくは落雪があって、退勤するお母さんの頭に降り注がれた――?
「凶器が見当たらないのは、氷雪だから体温で溶けたわけか」
三船さんも
「いわゆる『消える凶器』だね。あるある」
お兄ちゃんが小声で唸ったわ。
警察は聞き流してたけど、私はお兄ちゃんのあらゆる発声を逃さない。
「きえるきょ~きって何?」
「推理小説によくあるトリックさ。犯行の決め手となる凶器が見付からず、事件は迷宮入り。犯人は嫌疑を逃れてほくそ笑むパターンだよ、あるある」
「へ~。例えば?」
「氷で撲殺した後、その氷が溶けてなくなれば証拠隠滅だ。今回、母さんが水浸しだったのも酷似してるね」
「うん、まぁ~……」
「他にも、凍らせたバナナで殴った後、バナナを食べてしまえば証拠隠滅になるとか。もしくは、袋に砂を詰めて鈍器にしたあと砂を捨てれば、打痕と一致する凶器は二度と現れない。あるある」
ないんだかあるんだか。
けど、お兄ちゃんの博識っぷりに、私は改めて惚れ直しちゃった。
左足を失って以来、部屋に引きこもって本ばっかり読んでるお兄ちゃんだけど、それが思いもよらない形で役に立ってるわね。
「事故なのかな~。ま、お母さんが生きてるってことは、とどめを刺す犯人が存在しなかったってことだし、妥当よね~……」
「刑事さん、僕たちも四〇八号室を見に行って良いですか?」
お兄ちゃんが左足をぎこちなく動かして、三船さんに付いて行こうとしたの。
何を言い出すのよお兄ちゃんっ?
四〇八って、あの沖波恵が入院してるのよ? 気まずくて立ち入れたもんじゃないわ。
「構わないよ。君たちは現場の第一発見者だしねぇ」
三船さんも二つ返事で了承しちゃうし。
そりゃ~警察は、私たちの事情なんて知らないから、あっさり認めるだろうけど~。
「じゃあ上へ向かおうか」
私たちはICU前を離れたわ。
お母さんの容態が心配だけど、ここで悶々と座して待つよりは、行動して気を紛らわせた方が建設的ってことかな……うん、そう思うことにしよう。お兄ちゃんは前向きで素敵。
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