2――ブランケットの四階へ(後)
「ブランケット、症候群?」
何それ。
いや、ブランケットそのものは知ってるけど。体を温める布がどうかしたの? なんで症候群なの?
「……語源は『スヌーピー』に登場する、ライナスという名の子供よ……」
「犬のマスコットで有名な、あのスヌーピー?」
「……そうよ」指を立てるお母さん。「……ライナスはブランケットを肌身離さず持ち歩いていて……それを手放すと、たちまちパニック症状を引き起こすキャラクターなの……大切な物を紛失すると乱心してしまうのよ……」
「へぇ~」
「心理学では『ライナスの毛布』という通称で有名よ……」
「じゃ~沖渚も、宝物を失ってイライラしてるのね~。そう言えばペンダントを手放したとか話してたっけ」
ペンダント。
沖渚が父親からもらった思い出の品、だっけ?
「……ルイも気付いたわね……渚ちゃんの宝物は『ペンダント』よ……高価な誕生石を飾り付けた想い出の逸品らしいわ……でも、借金返済のために質へ入れた……」
「それで『ブランケット症候群』が発症しちゃったのね~」
「……そういうこと……はぁ、わたしも疲れちゃったわ……今日は午前中で上がる予定だったのに……思わぬ残業よ……ふぅ」
「いつもお疲れ様~」背中を撫でてあげる私。「お医者様って激務だもんね~。しかも今日は夜勤明けでしょ? 早く帰って休んでね!」
「……そうするわ……じゃあ、またね……」
お母さんは手を振りながら、医局の方へ引き返してく。
私はそれを見送ったあと、一人取り残されて「さて」と考え込んだ。
これからどうしよっかな~。お兄ちゃんのリハビリでも見学しようかしら。
(あ。でも、その前に~)
私、階段を見据えたわ。
この先に、入院患者たちの病室があるのよね。
沖渚の母・沖波恵もここに寝泊まりしてるんだわ。
「ちょっと覗くだけなら、問題ないよね?」
だって気になるじゃない?
おずおずと階段を登った私は、この病棟の最上階、入院室のドアがずらりと並んだ四階へ立ち入ったの。
きょろきょろしながら足を進めると、目指す病室はすぐ見付かったわ。
『四〇八号室/
どうやら二人部屋みたい。もう一名は知らない人。
私はそっと入口の隙間から室内を垣間見たわ。
出来るだけ怪しまれないようにしたけど、傍目にはどう映ってるのか判んない。
ま、私みたいな美少女なら何やってても怪しまれないわよね。可愛いは正義だもん、うんうん……。
「そこのお嬢ちゃん、どいてちょうだい」
「きゃっ!」
私、背後から話しかけられて飛び上がっちゃった。
振り向けば、初老のしわくちゃな熟女が廊下に立ってたわ。
寒そうに震えながら、室内へ入りたがってる。
「あたしゃここに入院しちょる湊艫子さね。お嬢ちゃん、四〇八号室に用事かい?」
「あ、いえ、たまたまドアが開いてたんで目を引いただけです~っ」
「そうかい。ならどいとくれ。ふー、トイレに行くだけでも寒くて
湊艫子と名乗った熟女は、肩を抱いて身震いしつつ、よぼよぼの足でベッドに戻る。
は~、びっくりした。
こっそり覗くつもりだったのに、さっそく見付かっちゃったじゃないのよっ。
でも、まだ肝心の沖親子には発見されてないからセーフよね?
とにかく、沖波恵の姿を探さなきゃ……。
(居た! 沖渚が会話してる中年女性!)
二つあるベッドのうち、窓際に面したベッドで、やせこけた中年女性が横になってた。
腕には点滴が
窓の外は病院の屋根が張り出してて、凍った雪と
『氷柱と落雪に注意!』
っていう貼り紙が窓に掲示されてて、窓を開けるのは禁止されてた。
そんな沖波恵の枕元でパイプ椅子に座ってるのが、沖渚よ。双眸がイライラと殺気立ってるけど、家族相手に怒鳴り散らしたりはしない。
へ~、我慢できてるじゃん。
「――ママ、聞いて――今日、通院を始めた精神科医が、あの湯島溜衣子だったのよ」
沖渚の奴、今日の出来事をさっそく打ち明けてる。
私のお母さんを呼び捨てにするなんて生意気。
「
ところが沖波恵ってば、寝たきりの体躯をしきりにゆすって、湯島の名に拒否反応を示してる。
骨と皮しかないようなやつれた両手で耳を塞ぎ、ぎゅっとまぶたを閉じて、忌まわしき湯島の姓名を認識すまいともがいてるの。
まるで私たちが呪われた悪名みたいじゃないのよっ。失礼しちゃうわねっ。
「――ごめん、ママ」
「嗚呼、嗚呼……もう疲れたわ。過ぎたことは忘れて、早く楽になりたい。何もしたくない、全て忘れて眠りたい」
「――駄目よ、ママ! そんな弱気になっちゃ! 過労で鬱気味なのは判るけど――」
どうやら沖波恵の方が、よっぽど精神を患ってるっぽい。
過労は心も折れやすいって言うし、仕方ないのかな?
「うんうん、判るわぁ」
それを傍聴してた湊艫子が、しきりに相槌を打ってた。
熟女特有の耳年増、噂好きのオバサンって感じ。寝巻きの下にチラチラ見える赤いインナーや
おまけに寒がりらしく、室内にあった電気ストーブを全部自分の周りに持って来てるの。うわ~、独占してる。
「沖さん、辛かったのね。判る判る、こっちまで悲しくなって来るわぁ」
わざとらしく
そりゃ~部外者に聞き耳立てられたら、良い気分はしないわね。他人に共感されても、所詮は安い同情だし。
(何にせよ、すっかり歯牙が抜けてるわね~、沖波恵って)
私はホッと、スレンダーな胸を撫で下ろす。
少なくとも波恵が逆恨みを再燃させることはなさそう。渚の暴走が唯一の気がかりだけど、波恵がブレーキ役になってくれるかな?
後顧の憂いがなくなった私は、いそいそと病室を後にしたわ。
(沖渚と再会したときは、どうなることかと心配したけど~)
せいぜいお母さんが、診察中に渚の不意打ちを喰らわないか注意する程度ね。
「覗き見終了~。さてと、お兄ちゃんの所に行こっかな~」
私は廊下を突っ切って、階段を降りたわ。
この一つ下が、お兄ちゃんのリハビリルームよ。
「あれ?」
階段の踊り場で身を反転させた私は、窓の外に異物を視認しちゃった。
外はもちろん雪景色。
ただし、こっち側は病院の裏口、職員通用口に面してるわ。病院に勤務する人たちが出入りする経路なんだけど――。
「誰か、倒れてる?」
――私、雪に埋もれてる人影を発見しちゃった。
最初は人形かと思ったけど、こことの距離を考える限り、あれは等身大の人間よ。
ていうか、あれ、見覚えあるような?
私そっくりの華奢な外見で…………って!
「お母さん!」
心当たりがあり過ぎて、私は声が裏返っちゃった。
窓にかじり付いて地上を遠く眺める。あっやばい、本物だわ。
湯島溜衣子で間違いない!
お昼で退勤するって言ってたから、ちょうど帰る所だったんだわ。
(お母さん、頭から血を流してる!)
遠目にもうっすら確認できた。
雪が赤黒く染まってる。
血で濡れてる!
「た、大変!」
私は残りの階段を駆け下りたわ。
すれ違った看護師に叱られても気にしない。ていうか一緒に来て欲しいわっ。
三階の廊下に着地した私は、さらに下の階を目指す。
「あれ? ルイじゃないか」
お兄ちゃんが廊下に居て、声をかけて来た。
うぐっ。何て後ろ髪引かれるスイートボイスなの~っ。
本来ならお兄ちゃんとここで合流するつもりだったけど、今は断腸の思いで振り切ったわ。今はお母さんの方が心配だもんね。
「お兄ちゃんもあとで来て! ゆっくりでいいから、裏口まで!」
「裏口? あるある、説明もなしに従わせようとするワケアリなアピール、よくある」
「そんなんじゃないの~っ! お母さんが血まみれで気絶してたのよ!」
「何だって?」
かくして私は、お母さんのもとへと駆け付けた。遅れてお兄ちゃんも追い付いた。
くしくも第一発見者になっちゃった。
裏口の軒先に突っ伏したお母さんは、意識不明の重体だったわ。幸い、ここは病院だから、すぐに外科医と看護師が緊急手術を手配してくれたけど。
それによれば、頭部に裂傷があったみたい。
何かが強く激突した痕跡。
(誰かに殴られたってこと~?)
お母さんの体、雪にまみれて水浸しだったわ。私は裏口から空を仰ぐと、張り出した病院の屋根と、いわくある四〇八号室の窓が、ちょうど真上に観察できた――。
*
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます