2――ブランケットの四階へ(前)

   2.




 トラック運転手の妻と娘が、この病院に居る?


 私、全身が総毛立っちゃった。


 体中が震える。わななく。


 握りしめた拳に力がみなぎる。


 血液が沸騰したかと思ったし、自慢の黒髪も逆立ったし、歯も全力で食い縛ったし……私は恨み募る『トラック運転手』のツラを思い出したものよ。


 忘れはしない。忘れてたまるもんか。


 お兄ちゃんから左足首を奪った、


 出来れば同じ目に遭わせてやりたいけど、さすがに私の良心が自制を求めてる。暴走を食い止めてくれる。


 病院のど真ん中で立ち尽くす私へ、お母さんが同情するように肩をすくめたわ。


「……トラック運転手の名前は、沖潮おきうしお……特徴的な響きだから……忘れようがないわ」


 沖、潮。


 正確には『元』トラック運転手よね。


 今は免停くらって車にすら乗れないはずよ。


「……去年……沖潮本人および彼を雇っていた運送会社を訴えて……合計で四ケタ万円の示談金をもらったわね……会社は倒産、沖潮も多額の借金を抱え、業務上過失で逮捕」


「ざま~みろよ」


「……それでも沖潮の奥さんは離婚せず、借金返済のために働き詰めだったそうよ……」


 ふ~ん、甲斐甲斐しい家族愛もあったものね。


 普通は愛想を尽かして離婚しちゃいそうだけど。


「じゃ~沖夫人は過労かろうで入院したの? で、娘の方も赤貧生活で心を病んじゃった、と」


「……そうね……さっきの診察で、娘さんもわたしに気付いたはずよ……賠償金裁判のとき、さんざん顔を合わせたから……」


 交通事故の被害者と加害者だもんね。傍聴席で同席したこともあるわ。


 特に示談が成立したときの、娘さんの鬼気迫る形相ったらなかったわ。何千万円もの支払いを背負わされて、一家の人生は真っ逆さま。何割かは保険が降りるとしても、沖潮本人は逮捕されてるから、残額を支払うのは家族だもんね。


「……夫人の名は、沖波恵なみえ……娘の名は沖なぎさと言ったわね……」


「うわ~。そんな子の診察、よく出来たわね~」


「……わたしは仕事に徹したけれど……渚ちゃんはこちらを警戒していたわ……診察なのに症状を教えなかったり……よそよそしい態度で無視したり……あれじゃ何しに病院へ来たのか判らないわね……ふぅ」


 やる瀬なく溜息をついたお母さん、きっとこれが本音なんだろうな~。


 症状を打ち明けない患者って、一定数は居るみたいね。自分の恥部や悩みを吐露するわけだから、用心深い人ほど心を開かない。ましてや事故の被害者家族になんて――。


「警戒っていうか、敵愾心って感じ~?」


「……そうね……もともとは沖潮が悪いのであって……わたしたちが恨まれる筋合いはないのだけれど……賠償金請求で沖家がどん底に叩き落とされたことで……渚ちゃんは逆恨みしているのよ……」


「冗談じゃないわ! 恨むなら事故を起こした父親を恨みなさいよっ」


 私、ぷんすか怒っちゃう。


 缶コーヒーを握りつぶそうとしたけど、中身が入ってる缶にいくら力を込めても、女子の握力じゃビクともしなかった。私はか弱い乙女だからね、うん。


「……あ……噂をすれば影ね……」


「え」


 お母さんが身を引いたわ。


 私も身構えて廊下の奥に目をやると、そこには見覚えのある若い娘がひたひたと歩いて来たの。




 ――沖渚!




 間違いない。加害者の娘。


 ある意味では彼女も被害者かも知れない。やつれてるし、服装も安物のセーターとジーパン、ダウンジャケット。地味すぎ。父親のせいで苦労してるな~って感じ。


 言うまでもなくアクセサリーなんて一つもない。かなり切り詰めた生活してるわね。化粧っ気もなし。買えないんだと思う。


 年齢は私と同い年だった気がする。


 別に睨み付けるつもりはなかったんだけど、虎視眈々と観察してた私の視線に、向こうも気付いたっぽい。


「――何よ」


 沖渚の奴、短く呟いたわ。


 つっけんどんな冷たい語気。


 うわ~、敵意丸出し……って言う私も目から火花を散らしてたから、おあいこだけど。


 沖渚が私の眼前でぴたりと立ち止まる。


 私の方が小柄だから、彼女を見上げる格好になっちゃった。く~っ、こんな奴に上目遣いするなんて屈辱っ。私がこの角度から覗き込んで良いのはお兄ちゃんだけなのに~っ。


「そっちこそ何よ」


 私も短く言い返すの。


 む~、感情が先走っちゃう。すかさずお母さんが手を挟んで「まぁまぁ二人とも……落ち着いて……」なんてなだめすかしたけど、それでも私たちは動かなかった。


「――覚えてるわよ、あんた――湯島泪ね?」


「私も覚えてるよ、沖渚」せいぜい余裕ぶって口角を上げる私。「別に私は、直接あなたに恨みはないけどね。悪いのはそっちの父親だもん」


 正論のつもりだったけど、こういうのって正鵠であればあるほど相手の神経を逆撫でしちゃうみたい。


 沖渚はますます怒り心頭に発するの、ほんと困っちゃう。


「――あんたたちのせいで、あたしの人生はメチャクチャよ――パパは多額の賠償金を背負って獄中生活。ママとあたしが代わりに返す羽目になったんだから! あたしなんて高校を休学してまで働いてるのよ!」


「休学か~、大変ね。てか破産申請すればいいのに」


「――あんたはいいわね。ぬくぬくと人並みの生活が出来るんだから。あたしは身なりもろくに整えられない。破産申告もして、家も財産も抵当に入れられて――パパからもらった想い出のペンダントまで売り飛ばしたのよ!」


 ペンダント?


 この子、宝物を手放して気が立ってるんだわ。精神を病んだっていう触れ込みだったけど、鬱じゃなくてヒステリーとかパラノイアとか、そっちの症状かな?


「――ママも過労で入院しちゃったし! あたしも精神科を紹介されたわ。医療費がかさんで、ちっとも借金を返せない! もうお先真っ暗よ! ああああ!」


 じ、地団駄を踏み始めたわよ、この子。


 頭を両手で掻き乱して、顔を激しく左右に振る。そんな醜態をさらせば当然、ロビーに居た待ち合い客もびっくりして、好奇の視線を寄せ始めたわ。


 たちまち私たちは悪目立ちしちゃった。きゃ~、これは恥ずかしいっ。


「……だから落ち着きなさいって言ったのに……」


 お母さんがもう一度、手を差し挟んだ。


 今度こそ私と沖渚を引き剥がし、間に割って入る。さすが現役の精神科医、あしらいが上手ね……な~んて感心する暇もなく、お母さんは沖渚の肩を掴んでくるりと方向転換、彼女を無理やり廊下の陰へ退散させたの。衆目から隠れるためにね。


「……渚さんの診察は終わったでしょう……早くお薬をもらって帰宅しなさい」


「――あんたの診察なんて信用しないわ!」口だけ達者な沖渚。「――担当医を変えられないか問い合わせてやる!」


「……それはわたしも同感……変えてもらうのがあなたのためになりそう……」


 それが無難よね。


 沖渚なんて常にイライラしっ放しだし、お母さんに手を出しかねないわ。


「――それとあたし、診察後はママのお見舞いに行く予定なんで、帰らないわ――上の階に向かうから」


「……あらそう……病室では騒がないでちょうだいね……?」


「――判ってるわよ!」


 沖渚はお母さんを振りほどくと、廊下の脇にあった階段を早足で登り始めた。


 そっか、本来は階段を登ってく予定だったのね。私と対面したせいで、いさかいになっちゃったけど。あ、もう見えなくなっちゃった。立ち去るの速~い。


「はぁ~、嵐みたいな子だったね~」


「……鬱憤ストレスがたまっているのよ……あれは一種の症候群だと診断したわ……」


「症候群?」


「……本当は患者の容態を他言しちゃいけないのだけど……」


 口許を手で覆ったお母さん、こっそり私にだけ耳打ちしたわ。


「……沖渚ちゃんは……心理学で言う『ブランケット症候群』よ……」


「ブランケット?」


 初めて聞く専門用語に、私は思いっきり眉をひそめた。


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