3――着付け室へ(前)

   3.




 津波澄子さんが着付け室に踏み込んだ瞬間、鼻をつまんで吐き捨てたわ。


「この部屋、ハッカ臭い、ですね」


 開口一番それかよ、って誰もが思ったけど、つい口に出しちゃう気持ちも判るわ。


 室内はペパーミントの刺激臭が立ち込めてるんだもん。店主の速水渓子さんが焚いたアロマキャンドルに、この芳香が含有されてるのよね。


「酒井の嫌いな香りを振りまいたんです」包み隠さず供述する渓子さん。「あの男はペパーミントを嗅ぐと意識が遠のいたり、吐き気をもよおしたりするので、いい薬です」


「意識が、遠のく? それは、妙ですね」


 津波さん、真面目に考え込んじゃった。


 何が妙なんだろ?


「ペパーミントは、覚醒作用や、眠気覚ましの、刺激臭として、有名です。意識が、遠のくなんて、あり得ません」


「でも現に――」


「それは『ノシーボ効果』、ですね」津波さんの見解。「プラシーボ効果を、ご存じ、ですか? ただの、小麦粉を、薬だと、思い込ませると、本当に、体調が、回復する、という、心理的な、作用なのですが」


「心理的な……」


「その反対が『ノシーボ』です。苦手意識のせいで、体に、悪影響を、及ぼします。毒じゃないのに、毒性を、帯びてしまう。科学的には、あり得ない、心因性の、症状です」


 ペパーミントには存在しない効能を、酒井薫は引き起こしてた。


 心の在り方が、現実をねじ曲げちゃった。


 科学さえも超越しちゃう――心理って怖~い。


「遅かったですねぇ、津波さん」


 招待した三船さんが、時計とメモ帳を睨めっこしてる。


 来るまで小一時間を要したけど、そんなもんじゃない?


 津波さんは課外用の作業服を着て、いかにも現場仕事を始めますよって格好してる。切りそろえた黒髪とメガネがツンツンしてて、余人の付け入る隙なんてありゃしないわ。


 神経質そうにメガネをくいっくいって上げ下げしてる辺り、彼女自身も急な呼び出しにちょっとご機嫌ななめなのかな?


 私の横で眺めてたお兄ちゃんが「柄にもなく気が立ってるみたいだな」って人間観察に余念がないのも驚きよ。


 む~。お兄ちゃん、私以外の女性を見つめるの禁止~。


 津波さんは、容疑者三人――杉浦さん、浅本さん、淡路さん――を順番に見据えたわ。


 名前と顔を頭の中に刻み込んでるっぽい。


「皆さんが、酒井薫さんを、取り巻いていた、愛人たち、ですね?」


「愛人という語句は、語弊がございますね」訂正する杉浦さん。「わたしめは、彼の花嫁候補でしたの。誰が彼の伴侶にふさわしいか、審査中でございました」


「なるほど。酒井薫ホトケの、財産を、狙って、近付いた、恋人ですね」


「なっ――」


 津波さんってば、歯に衣を着せないな~。


 図星を忌憚なく突き付けられたもんだから、杉浦さんの育ちの良さそうな振る舞いがみるみる瓦解したわ。


 さっきまで憔悴してたのが嘘みたいな剣幕になってる。


「し、失礼ではございませんか?」


「ですが、彼が、金持ちに、なってから、あなたは、接触したのでしょう? 男性の、財産目当てで、結婚を、迫る、心理を『黒い未亡人』と、言います」


 黒い未亡人――。


 なるほど、腹黒いわね。


 後ろからお母さんが耳打ちしてくれる。


「……結婚して……亭主の財産を相続できるよう手続きしてから……事故や病気に偽装して殺害する……金目当ての犯罪心理よ……でも……」


 でも。


 お母さん、ちょっとだけ口をつぐんだわ。


 そう――今回の場合、その心理は微妙に当てはまらないわ。


「……結婚する前に、酒井薫が死んだら……その犯罪心理は、意味を成さないわね……」


 配偶者じゃない限り、女性三人は、彼の財産を受け取れない。


 今の彼女たちは、まだ、酒井薫を殺す動機がない。


「なぁによぉ、あたしたちを疑ってるのぉー?」


 淡路さんが声を裏返して威嚇したわ。


 さっき、この人の紙袋から酒井薫のハンドバッグが見付かったばかりなんだけど、よくこんな虚勢が張れるわね~。開き直ったのかな?


 それとも『黒い未亡人』の埒外だから、いい気になってる?


「淡路さんは、出会い系サイトで、酒井さんと、知り合った、そうですね?」


 津波さんが一言ずつ、淡路さんに確認を取ったわ。


「だったら何よぉー」


「それも、また『黒い未亡人』の、パターンの、一つ、なのです」


「えぇーっ?」


「婚活サイトや、出会い系、SNSを、用いて、富裕層の男性に、近付き、財産を、みつがせて、殺す。現代では、こうした、新しい『黒い未亡人』が、急増中です。独身男性へ、たくみに、忍び寄る、悪女の、心理です」


「だけどあたしはハンドバッグを盗んでないよぉ! ましてや彼を殺すなんてぇー、絶対ないわ! まだ大してふんだくれてないのにぃー……あ、今のは失言だけどぉー」


 本音が出ちゃってるじゃないのよ。


 やっぱりこのアバズレ女、酒井薫の成金に目を付けて、搾取する算段だったのね。


「最後に、浅本さん」


「はい?」


 保険のセールスレディこと浅本さんにも、津波さんは物申したわ。


「一時期、流行ったのが、旦那に、生命保険を、かけて、殺す『保険金殺人』の、黒い未亡人です」


 しれっと告げた津波さんは、試すような視線を私たちにも向けたわ。


 お兄ちゃんが相槌を打つ。


「保険金殺人は、社会派ミステリによくあるパターンだね。あるある」


「浅本さん。あなたは、保険の、契約を、酒井さんに、迫って、いましたね?」


「それが当方の仕事ですから。そうして何度か会ううちに、プライベートでも親しくなりました。本当は、倫理的によろしくないんですけど」


 必死に言い繕う浅本さんの仕草が、どこかソワソワし始めた。


 何か隠してるっぽい?


 津波さんから目を逸らそうとうつむいたり、横を向いたり、いかにも後ろめたそう。


「枕営業、しましたか?」


「!」


 津波さん、率直に言い過ぎっ。


 今日の津波さん、キレッキレじゃない? 物怖じせずストレートに核心を突いてる。図星を刺された浅本さん、しばらく絶句しちゃったじゃないのよ。


「金持ちに、保険契約を、結ばせ、さらに、肉体関係を、契る、ことで、既成事実を、作ろうと、したんですね。結婚した暁には、夫の財産も、生命保険も、配偶者のあなたが、相続できる、という手筈で」


「でも! そうする前に、彼は死んでしまいました! 今のわたしには、彼を殺す動機なんてありませんよ!」


「そのつもりだった、ことは、認めるのですね?」


「それは――」


「すでに、保険の、契約書と、婚姻届は、出来上がっているのでは、ないですか?」


「ど、どうしてそれを!」


「やはり」メガネを指で押し上げる津波さん。「あとは、酒井薫さんが、合意して、署名と、捺印を、するだけの、段階だったと」


「そりゃあ、わたしはセールスレディですから、契約の書類は準備万端でした。彼を口説き落とすために日夜、他の花嫁候補と混じって、彼を誘惑していたんです」


 女って恐ろし~……私も女だけど。


 三者三様、それぞれが酒井薫の財産を狙う『黒い未亡人』の心理だったんだわ。


 けど、酒井薫は一足先に死んじゃった――。


「淡路さんの、紙袋に、酒井薫さんの、ハンドバッグが、あったんですよね?」


 津波さんが話題を変えたわ。


 見る間に当人が血相を変えて、ギャルらしく喚き散らすの。


「だからぁー、あたしは盗んでないってばぁー!」


「では、真偽を、調べて、みましょう」


「はぁー? 真偽ぃ? どぉーやって?」


「匂いを、たどるのです」


「匂い?」


「こんなことも、あろうかと、ここに、来る前、警察犬を、手配して、もらいました」

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