2――お母さんの病院へ(後)



「カイン? 何ですかそれ」


「……由来は、旧約聖書の創世記第四章に登場する『人類最初の殺人事件』ね……」


「じ、人類最初の殺人事件?」


「……アダムとイヴの子である、二人の兄弟……カインとアベルの相克関係から引用した複合心理よ……童話としても有名だから、知っている人も多いんじゃないかしら……」


 あ、私知ってる。


 ――兄のカインは農業を営み、弟アベルは羊飼いを営んでた。二人は仲睦まじい兄弟だったけど、ある日それぞれが神様へ供物を捧げた所、神はアベルの供物ばかりを喜んだため、カインは一転して弟を妬み、ついには殺害しちゃうの。怖~い。


「……兄弟姉妹に殺意を宿す心理が『カイン・コンプレックス』よ……秀海ちゃんが張河ちゃんを憎み、殺害した……まさにカインとアベルでしょう?」


 どんなに仲が良くても、きっかけがあれば正反対の怨嗟を萌芽しちゃうのね。


 相反する感情を複合的に所有しちゃう、表裏一体の愛憎――。


「……カインとアベルは、神を崇敬していたわ……それって、中洲姉妹にも言えるのよね……中洲家は父子家庭で、双子は父親を中心に生活していた……父親が神も同然だったんじゃないかしら……中洲姉妹は『ファザー・コンプレックス』でもあった……」


 ファザコン!


 秀海ちゃんたち、二つもコンプレックス持ってたんだ~。


「父なる神、と言いますもんね、キリスト教って」


 おば……姉さんが相槌を打つと、三船さんもボールペンでメモ帳を叩いたわ。


「そうだった! 中洲家の父親は優等生な秀海ばかりを溺愛して、素行の悪い張河には厳しく接していたんだ! うん、俺のメモに書いてある。ほらここ、ここ見てよ」


「近寄るな鬱陶しい」押しのけるおば……姉さん。「けど、そうなの?」


「そうだって! ガイシャの父・中洲流介りゅうすけは一〇年前に離婚して、男手一つで育てたようだから。手間のかからない優等生を厚遇するのは、当然かも知れないねぇ」


「……つまり、秀海役ばかりが父親にチヤホヤされていたわけね……張河役の診療に同伴する父親を見たことあるけど、険悪だったわ……入れ替わりも信じてなかったし……」


 父の寵愛を受ける者・受けざる者も、カイン・コンプレックスをなぞってるのね――。


「ううっ、ぐすん。何それ、可哀相」


 ――と。


 唐突に、おば……姉さんが涙ぐんでたわ。ぽろぽろと大粒の雫を頬に垂らしてる。


 あ~、また始まった。


 直後、お母さんも手慣れた様子で、おば……姉さんを慰め始めたし、スマホの向こうでもお兄ちゃんが『泉水さん、また感情移入してる?』って察してる。


(おば……姉さんって人一倍、涙もろいのよね)


 普段はキリッとしたクールビューティなんだけど、妙に感受性が強いっていうか、人情派刑事っていうか。


「ちょ、湯島警部補、落ち着きなって」


 三船さんまでもが呆れた形相で、オロオロとおば……姉さんを慰めてるわ。


 こんなんで、よく警部補が務まるわね。それも強行犯係の捜査官よ。行く先々で嗚咽してたら仕事にならないんじゃない?


「……はいはい……泉水ちゃんは感情の『同調シンクロ』が人一倍強いのよね……」


「シンクロ?」


 三船さんが聞き返してる。


「……『共感』シンパシーとも言うわね……感情なんて目に見えないのに、なぜか把握できてしまう……不思議だと思わない? これは、人間の『無意識』ひいては『普遍的無意識ふへんてきむいしき』に、人類全員の記憶が共有されていて……なのよ……」


『あるある。感受性の豊かな人ほど、普遍的無意識から他人の心が流れ込んで来るんだ』


 スマホ越しにお兄ちゃんが賛同したわ。


 あ、あるのかな? 私は初耳だけど。


 人の気持ちをんだり、察したりするのが得意な人って、実は『普遍的無意識』に接続するのが得意な体質ってこと? お兄ちゃんも私の恋慕を汲み取ってよ~。


「えぐっ。つまり、ぐすっ。私のもらい泣きって、他人にシンクロするから? ひぐっ」


 おば……姉さん、一向に泣き止む気配がないわ。


「ほらっ湯島警部補、俺のハンカチ貸すから、顔、拭いて拭いて」


 おば……姉さんが三船さんからハンカチを受け取った。ハンカチも紫色だわ……。


「こほん、ありがと」平静を取り戻すおば……姉さん。「それで溜衣子さん、他に変わった様子はありませんでした? 張河役に扮した秀海の、診察時の仕草とか」


「……一度だけ、他の患者と鉢合わせて、キャットファイトが始まりかけたわね……」


「え?」


 おば……姉さんも、三船さんも、私も、お兄ちゃんまで耳を疑ったわ。


 キャットファイトって、殴り合いの喧嘩よね?


「……同じ高校の生徒とバッタリ出くわしたみたい……その子は、私の担当患者じゃなかったけど……中洲張河役の秀海ちゃんにしてみれば、通院していることを隠しておきたかったんじゃないかしら……でも偶然見付かって、口論になっちゃって……」


「その、鉢合わせた生徒の名前は?」


 おば……姉さんが、かじり付いたわ。


 それ、私も気になるっ。


「……あまり言いたくないんだけど……」ほぞを噛むお母さん。「……水野霙よ」


「!」


 私の頭が爆発したわ。


 水野霙。


 先刻も、お兄ちゃんとの会話に出てた悪名。


(あ・い・つ・か!)


 私ってば今、とても人に見せられない剣幕してると思う。


 電話越しのお兄ちゃんも、二の句が継げてない。


 だって、その女は――。


「……水野霙は……高校では秀海ちゃんと生徒会長の座を争うライバルだったそうよ……うちの子たちも、秀海ちゃんの応援演説をしてたわ……」


 私と秀海ちゃんは親友だったからね。


 対抗馬の水野霙は、こっちの選挙活動をことごとく妨害して来た記憶がある。


「……選挙のイザコザで、水野霙も心をんだそうよ……再会すれば喧嘩して当然ね」


 お母さん、やる瀬ない想いを必死に呑み込んでる。噛み潰してる。


 水野霙め!


(あの女が! 私の友達も! お兄ちゃんも! 全ての歯車を狂わせた!)


 半年前の忌まわしい記憶が掘り返される。


 私は素早く踵を返したわ。


『ルイ? 声が遠ざかってるけど、どうしたんだい? 移動してるのか?』


「ごめんね、お兄ちゃん。用事を思い出したの。目的地に着いたらまた電話するから」


 私は水野霙の住所を知ってる。半年前に覚えた。


 次の聞き込みはそこに決定。


(あの女が、補導後の秀海ちゃんと接触してたとはね~。必ず問い詰めてやる……!)




   *



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