トイレ素手磨き

神山イナ

はじめてのキュッキュ

【ときに貴様、トイレは毎日磨いておるか?】


 長い黒髪の女が言った。

 俺の目の前で、険しい表情をしている。


 ここがどこで、彼女が誰なのかについては、あまり意味がない。

 だってこれは、俺の夢の中だから。

 彼女がやけに垢抜けた美人なのも、きっと俺の理想を反映しているからなんだろう。

 でもそんなことはどうでもいい。どうせ夢だし。

 ……だけど、聞かれた質問には、ちゃんと答えようと思った。

 そんな性格の、28歳独身会社員。


「『あっ、ちょっと汚れてきたな~』と思ったら掃除するようにしています。頻度は、一週間に一回くらい?」


 俺がそう答えると、女はふっと鼻で笑った。

 よくわからないが、トイレ掃除を毎日行わない人間に対しては冷たい性格のようだ。


【しかも貴様……掃除の際、ブラシやゴム手袋を使っているな?】


「はい。汚いので」

 女の問いに、俺は即答した。

 すると女は、得意げに言う。


【汚い――か。はてさて、真にけがれているのは、トイレを見下す貴様の精神そのものなのではないのか?】


「なんだと? どういう意味だ?」



磨いてみろ。そうすれば、すべて清らかになる――】



 女は、そんな言葉を残してぼんやりと消えていった――

 というか、俺の目が覚めてしまった。

 トイレを素手で磨くなんてばかげてる。なんだか不愉快な夢を見てしまったようだ。


 そんな気分でベッドから身を起こしたが、まだ夜は明けていない。出勤までまだ時間がある。

 もう一眠りしようと、寝ぼけ眼でもう一度布団をかぶる。

 しかし、強烈に眠りを妨げるを無視することはできなかった。


(トイレに、行きたい)


 そう。俺の膀胱が、荒ぶるほどの尿意を催していたのだ。

 すべての働き人にとって、出勤前の睡眠時間は何よりも貴重。

 中小企業の冴えない平社員である俺ですらも、それは決して例に漏れない。

 すなわち、安眠を得るために、トイレへの駆け込みは必須だった――。




※※※




 ――ジャアアアアアアア……



 用を済ませ、両手を上部の流水にさらす。いつもと変わらぬ事後の所作ルーティーン

 そんないつもと変わらぬ日常のなかで、ただひとつ足りないものがあることに嫌でも気が付く。

 タオル。

 タオルがない。

 タオルがなくなっている。手を拭くことができない。

 いや、待て。タオルどころではない。いつも脇に置いてあるはずの、掃除用ブラシとスプレー、ゴム手袋も消えている。


 なぜだ?

 どこかへやった記憶はないし、盗まれるような代物でもないのに……。




【磨け……】




 唖然としていると、便器の中から声がした。

 便器の中の水たまりが揺れている。しかも、さっきの夢に出てきた女の声だ。

 もしかして、俺はまだ寝ているのか? 


 いや、トイレの芳香剤の香りが、ここが現実であることを確かに匂わせている。

 これは夢じゃない。己の嗅覚を信じる限り、ここは確かに現実だ。俺は間違いなく起きている。


「これはやばいな……」

 手の平の水気が冷や汗に変わった。

 怖くなってしまった俺は、すぐさまトイレからの脱出を試みる。


 しかし、ドアノブが動かない。

 なんでだよ。

 おかしいだろ。

 カギなんか掛けていないのに。



【選べ。トイレを素手で磨くか、ここを貴様の墓場とするか。その二択だ】



 恐ろしい現象が起きている。

 用を足しに来ただけなのに、俺はいま、生死の選択を迫られているらしい。

 たしかに、他人から見てもつまらない人生であることは認めるが、流石にまだ逝きたくはない。

 カギが閉まっているという不可解な状況を鑑みるに、トイレの声に従わなければ多分本当に死ぬだろう。


「…………」


 どうやら磨くしかないようだ。

 トイレを、素手で。

 素手で。


「やってやろうじゃねぇか!」


 覚悟を決めた俺は、床に腰を下ろした。

 そしてまず、便器の外側を指でなぞった。

 こすった!


【貴様、なめているのか? その程度の所作では汚れなど落ちぬぞ!】


 便器の中からダメ出しを受けた。


「くそっ……」

 むきになった俺は、手の平を広げ、ゆっくりと便器の外側をなでた。

 これでどうだ?


【ええい、根性なしめ! 話にならぬ! わらわの手解きを受けるがよい!】


「何っ?」

 瞬間、俺の手の平は、トイレの水たまりへと吸い込まれた。

「くっ!?」

 そして、着水した。

「ちくしょうっ!!」


【まず、滑りをよくするために手を濡らさねば何も始らぬ。それこそがトイレ素手磨きの基本であるがゆえ。さあ、磨くのだ。丹精を込め、全力でな】


「おまえ、一体誰なんだ!?」

 あまりにも不気味な現象に、俺はたまらず質問した。

 しかし相手は幽霊だ。ばかばかしいとは思ったが、割とまともな答えが返ってくる。


【わらわの名は、《ウスサマ=ミョー子》。トイレの女神である】


「トイレの女神だと?」

 俺が反応すると、ミョー子は、水を得た魚のようにぺらぺらと語り始めた。


【トイレとは、この世の中で最もやくが集う場所。わらわはその厄が貴様に降りかからぬよう、こうして懸命に活動を続けておるのだ。崇高なる女神なのだ】


(厄……?)

 なんだか恐ろしいことを言われた。


【しかし、貴様が常日頃からトイレ掃除をおろそかにしているがゆえ、今現在の貴様のトイレの厄除けパワーは限界を迎えつつある。だからこうしてわざわざ忠告に来てやった次第なのだ。感謝せよ!】


「ふざけんじゃねぇ! 俺は、一週間に一回は必ず掃除している! ちょうど昨日だって掃除した!」


【愚か者め! 週に一回程度のおこないで足りるわけがなかろうが! 汚れが落ちていないと言っておるのがわからぬのか? どんなに一生懸命磨いていようが、汚れが落ちていなければ意味がないであろうに!】


「そんなばかな!? 目ためは真っ白じゃないか!?」


【……やれやれ、瞳の奥まで穢れているようだな】

 呆れた声でミョー子が言った。

【では、自らが創り出した汚れを、その地肌で感じてみるがよい!】

 

 そう告げられると同時、俺の手の平は、便器の内側へと打ち付けられた。

「ううっ!?」


【どうだ? 感じるであろう? この世のけがれを】


「……な、何だこのは……」


【それが汚れだ。目に見えぬ汚れ】


 汚れ? 穢れ? ぬめり? 何なんだこれは?

 自分が触れているものの正体がわからない。たまらなく不気味な感覚だ。

 早くすべてを、洗い流してしまいたい――。


【さあ、ここからは貴様の意志だ! 死にたくなければ、磨くがよい。丹精を込め、全力でな】



 ミョー子の声は、その言葉を最後に聞こえなくなった。

 代わりに、真夜中のトイレの静寂が、俺に何かを訴えかけている。


 その不思議な感覚に、俺はただじっと耳を澄ませていた。

 どうせ事を為さない限り、ここから出ることはかなわないだろう。

 

 

 



 キュッ! キュッ!




 俺は磨いていた。

 トイレの内側を、素手で、手の平で、懸命にこすっていた。


「ぬ、ぬめりが、とれていく……」


 俺が手の平を動かすと、その動きに呼応するかのようにキュッキュキュッキュと小気味いい音が返ってくる。

 俺の精神が、トイレと連動している。

「見える、見えるぞ」

 肉眼では決して確認することのできない細かい汚れが、感覚でわかる。

 便座も、ふち裏も、水たまりの奥も、すべて汚れている――。


「キュッキュ! キュッキュ!」


 その後の俺は、何かに取り憑かれたように全身全霊で磨き続けた。

 手の平の痛みや汚れは、まったく気にならない。

 むしろ、心地よさすらある。


「まさか……これが、真の『トイレ掃除』なのか?」


 どれほどの時が過ぎたのか。

 俺はやがて、便器の隅々までピッカピカに磨き上げることに成功した。


 素手で。

 

 ブラシも、スプレーも、ゴム手袋も使っていない。

 手の平で、一生懸命ごしごしした。

 ごしごししたのである!


「なんだ? この神秘的なスッキリ感情は……」

 トイレ素手磨きを終えた俺の心は、真っ白に洗われていた。

 どうやら、綺麗になったのは便器だけではないらしい。

「やった……! やったぞ……!」

 何はともあれ掃除は終わった。とりあえずここから出るとしよう。


 ドアノブに手を掛けると、何事もなかったかのように普通に動かせた。怪奇的な結界魔法は解けたようだ。俺は、開放感あふれる新鮮な気持ちでトイレのドアを開けた。

 ――が、すぐに憂鬱感に襲われる。


 夜が明けていた。朝になっていた。

 そう。出勤の時間である。




※※※




 数時間後。

 いつものように「はあ、今日も仕事か」とため息を吐きながら電車に揺られ、「はやく帰りたいな」と言い漏らしながら会社ビルのエレベーターに乗り込み出勤した俺の机に、季節はずれの給与明細が叩きつけられた。

「は……?」

 つまり、特別臨時ボーナスである。

 いきなりである。何の前触れもなく。

 特に優秀な営業成績をおさめた記憶はない。


「なぜですか?」

 たまらず上司に問いかけたが、「きみの人間性がうえに評価された」というよくわからない答えが返ってきた。

 言わずもがな、褒められるような人間性は持ち合わせていないはずなのに。


 気味がわるくなった俺は、始業と同時にたちあげたパソコンで『トイレ掃除』について検索をかけてみた。

 するとどうやら、トイレ掃除というのは『金運を呼び込む行為であるらしい』ということがわかった。

 インターネットによると、世の中の成功者――大企業の経営者や、大御所の有名人なども毎日のトイレ掃除を実践しているそうな。

 まじないなんて信じるたちじゃないが、給与明細の額面を見る限り、あながち嘘でもないらしい。


              


※※※




 仕事を終えて帰宅した俺は、まず手を洗う前にトイレを磨いた。

 素手で。

 別に金運を上げたいとかそういう理由ではなく、なんだろう。

 ただ純粋に、触れていたかった。

 便器を、素肌で、感じていたい。

 そして、その穢れを、こすって取り除きたい。

 綺麗なままの姿でいて欲しい。

 果たして、この感情に名前はあるのだろうか?


 俺は次の日も磨いた。

 素手で。

 その次の日も磨いた。

 素手で。

 つまるところ、俺は毎日、トイレを素手で磨き続けた。

 それどころか、便器を抱きながら眠りに落ちる日もあった――――。




 その後の俺が、会社を独立して両手に余るほどの財産を得たことは言うまでもないだろう。


【ありがとう。わたし、綺麗になりました】


 それでも相変わらず独身だが、ずっとこのままでかまわない。

 だって俺のそばには、いつも大切な人がいる。

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トイレ素手磨き 神山イナ @inasaku

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