第2話


 群れを抜ける、とジルベルトが宣言したのは、今から春を三回ほどさかのぼったころのことだった。旅に出る前から彼はよく群れを抜け出し、海岸に来てはほかの鳥乙女と歌声を重ねていた。群れに来るたびになぜか彼は必ずロゼッタの前に現れ、執拗にデュエットを迫ってきていた。

 あの宣言を聞かされたとき、自分は何をしたのだったか。思い出したくない記憶がよみがえり始め、ロゼッタは首を振る。

 先ほどのリラの音から離れるよう、どこに降りるかも決めずに空を飛び、すぐに翼が疲れて草むらに降りる。夕焼けはほぼ沈んで暗くなりつつある。冷たい風が羽毛を揺らすと、ようやくロゼッタは、自分の心臓が恐ろしく暴れていることに気づいた。息を吸ってしずめようとするが、自分の動悸を感じれば感じるほど脈が速くなる。羽毛についているごみをくちばしで落とし、全身の手入れが終わる頃に、ようやく平静を取り戻す。しかしそのときには、背後で蹄の音が聞こえていた。

「やっぱり鳥乙女の声は美しいね」

 振りかえって反射的に後ずさる。似合っていないソフト帽が目の前で揺れている。ポロン、と弦をひとつ弾いてジルベルトが眉をひそめる。

「驚かせてすまないねアモーレ。そんなに僕の演奏が魅力的だったかな?」

「いいえ」

 即座に返答をして、なぜこんなに感情的になってるのか、とロゼッタは浅く呼吸をした。ジルベルトは微笑んだ。

「僕と一緒に来てくれたら、毎日でも聞かせてあげるよ。いや、僕の演奏に君の歌声が重なれば――」

「やめて」

 ロゼッタは首を振る。ポロポロと漏れるリラの音を聞くたび、これがあの曲を演奏した楽器の音なのかと疑ってしまう。先ほどの音色とは似ても似つかない。しかし、胸の辺りがざわつく。

「……前から言ってるはずよ。そんなことできるわけがない」

 ロゼッタは首を振って答えた。夕陽は完全に落ち、空は藍色に染まりつつある。

 鳥乙女の将来は二つある。群れの中で一生を過ごす道と、人間社会に降りていく道。ただし、うがった見方をすれば、もう一つだけ生きる道がある。無断で鳥乙女の群れを抜ける道だ。

 鳥乙女の狩りは一人ではできない。幾重にも重ねた歌声で魚をおびき寄せ、もう一方の鳥乙女がそれを捕まえる。その狩りの技術も一朝一夕で身につくわけではない。しかも鳥乙女は、半人半馬ほど手先が器用ではなく、人間社会の中でまともに生活はできない。群れから離れて生きる鳥乙女など、ロゼッタは見たことがなかった。

 ジルベルトはリラをかき鳴らす手を止めて微笑んだ。群れを抜けたときから、彼はロゼッタを旅に誘っていた。

「生活のことなら大丈夫さ。人は芸術を欲している。確かに僕も少しは苦しい時期もあったけど、こうして三年間生きてこられたんだよ」

 人間があの曲の美しさを理解できるとは、ロゼッタには到底思えなかった。旅をしながら美しい歌がうたえるはずもない。それは成鳥の儀で歌声が認められなかった、才能のない鳥乙女がすることだ。

「ロゼッタ、キミも広い世界に憧れているんだろう? 世界には人間だけじゃない、森に棲むラミア、好奇心旺盛なハーピー、大道芸をするキマイラなんてのもいた。おもしろいことに、みんな歌が好きなんだ」

 ジルベルトは目を細めて語った。さまざまな種族の生き物と意気投合するジルベルトの姿は簡単に想像ができた。しかし、その場に自分がいるイメージはどうしてもできないし、したくもない。

 ロゼッタは首を振った。

「私は鳥乙女よ。ここで生きるのが普通だし、歌をうたうことが普通。旅なんてしなくても」

「キミは本当に鳥乙女かい?」

 ジルベルトが小首を傾げてロゼッタを見つめる。ロゼッタは顔をしかめた。

「キミは本当に鳥乙女だろうか。ちなみに僕は半人半馬じゃない。ジルベルトさ」

「いいえ、あなたは半人半馬だわ。それはあなた自身も気づいてる。でもそれを認めるのが嫌で、あなたは群れを抜けたのでしょう?」

 半人半馬は種族に対する誇りが高く、石槍を巧みにつかう優れた狩人が、群れの中では重宝される。歌や演奏が好きなジルベルトは、群れの中で異端児として扱われた。

「そうじゃない、ロゼッタ。キミは鳥が空を飛べなければ意味がないと思っている。鳥はずっと空を飛び続けるべきだと思っている。でもそうじゃないだろう? どんな鳥も、生まれたときは誰かに卵を支えられていただろう? 水が欲しければ水面によるし、だれもが最期は地の上で終わるんだ」

 ジルベルトが前脚で地面を打った。ロゼッタのほうに歩み寄り、手で翼に触れる。

「僕にはわかる。キミは誰でもないロゼッタを探している。でもそれはどこにもいない。僕には本物のロゼッタが見える。それはいま目の前にいるロゼッタだ」

「自分を偽ってるのはあなたのほうでしょう。本当に私を連れて行きたいと思ってるの?」

 ジルベルトの眉が吊り上がる。下半身の鹿毛が逆立ったように見える。ロゼッタは今になって、ジルベルトの体が自分のそれよりもひと回り大きいことに気がついた。慌てて翼を引っ込める。

 嫌な沈黙がおりて、ロゼッタは頭を引っ込めた。先ほどのような言葉が自分の口から出てきたことに驚いた。ばさりと翼を広げて、ロゼッタは藍色の空に飛んだ。



 冬の渡りまで、あと数日を切っている。

 成鳥の儀は、渡り先の土地で行う。普段から群れの中で存在感を表し、才能を見出された鳥乙女もいるが、ロゼッタはそれには当てはまらない。成鳥の儀で自分の実力を見せるしかない。

 昼すぎ、いつもの岬に立って練習をする。鳥乙女の、歌の練習方法は決まっているわけではない。歌声の巧拙はほとんど才能で決まるという噂もあるぐらいだ。しっかりとした歌の訓練を受けるために、人間社会へ降りることを希望する鳥乙女もいる。

 喉の感触は悪くない。いつもの不安はまだ残っていたものの、今さらあわてても仕方がない。人間社会に降りることだけを夢見てきた自分が、成鳥の儀のあと、群れの中でひっそりと暮らしていく様子など、考えることはできない。

 しかし、あのジルベルトの言葉に反論できなかったことも事実だ。疑問が消えなかったときはない。自分はなんのために歌うのか。それがわかれば苦労はしない。

 練習を終え、毛づくろいをすませると、背後で蹄の音が聞こえた。

「調子はどうかなハニー?」

 彼が帽子を脱いで一礼をする。

「覚えてる? 僕らが初めて会ったときのことを」

 歌うようにジルベルトが言い、ロゼッタは目を閉じた。同じような時間、この場所で、ちょうど同じようにこの男は気安く声をかけてきたのだ。

「悪いけど、初めはまるでキミがおばあさんのようだと思ったよ。キミの中に流れている時間がとてもゆっくりのように見えたのさ。それは僕の中で足りないものなのかもしれない。だからキミに惹かれたのかな~」

 ジルベルトはいつもの微笑みをたたえてリラを弾いている。いつも胸をざわつかせる彼の音色が、今日は不思議と嫌ではなかった。むしろ動揺している自分を、上から冷静に見下ろしている気分だった。

 彼の言葉が、先日の自分の言葉の返事だということに気づき、ロゼッタは頷いた。彼のリラを翼で指す。翼がわずかに震えていた。

「なにか歌いましょう」

 宣言したあとにジルベルトの顔を見て、どうして自分が彼を嫌っているのか、ロゼッタはなんとなく理解した。彼は今とても驚いたような顔をしているが、いつもの軽い態度が影響して、それが本心からの表情なのかがわかりにくい。彼は他人との距離を縮めているように見えて、ある意味で他人と一定の距離を保とうとしている。それが自分には卑怯に見えて、腹立たしい。

 自分の歌声を彼の楽器と合わせたことは一度もない。これまでロゼッタは合唱も伴奏も嫌ってきた。お互いの息を合わせるのが煩わしく、そんなことをして思いどおりの歌がうたえるわけがないと思っていた。

 なににする? とジルベルトは小首をかしげる。ロゼッタが数小節、メロディを口ずさむと、ジルベルトはうなずいて四肢を折った。ロゼッタは翼を広げ、歌声で空気を震わせる。

 鳥乙女が歌ううたは、楽譜に起こされているわけではない。親から子、成鳥から若鳥へ歌い継いでいくしか、歌を残す方法はない。この歌は幼いころにロゼッタの母親から教えてもらったものだった。人間の歌劇で使われている曲らしいが、詞の意味は知らない。歌のために生きた歌人が披露したものだったか、記憶は定かではない。

 遠慮がちにジルベルトの音色が後ろからついてくる。自分の喉を触られているようで気持ちが悪い。しばらくして彼がロゼッタに合わせてくれていることがわかり、ロゼッタは自分の思うように喉を震わせた。一息吸えば彼の指が止まり、一つ高い声を出せば彼の手が跳ねる。ここと思う瞬間に弦の音が鳴り、それが彼の音かどうかわからなくなる。しだいに境界が曖昧になる。

 目を閉じると、街の小さな通りで、自分と彼が音を重ねているところが見えた。周りでは人間たちが不思議そうな顔をして歌を聞いている。街が森に変わり、海岸に変わり、聞く者は様々な種族に変わっていった。歌っている自分の姿を、ロゼッタははじめて真剣に見つめた。目を背けたくなるほどまぬけで、しかし、この上なく幸せそうに見えた。

 全てを歌い終えた時、ロゼッタはいつの間にか伴奏が聞こえなくなっていたことに気づいた。深く息をはきながら隣を見ると、ジルベルトが頷きながら立ち上がった。

「ロゼッタ、相変わらずキミは歌がへただ」

 ジルベルトは微笑んで蹄をならした。海の向こうの太陽が、ゆっくりと水平線に向かって沈んでいく。

「キミの歌う姿が好きだった。毎日見ても飽きないだろうな」

 ジルベルトは弦を弾いて、丁寧な音階を奏で始めた。ゆったりと揺れる三連符の音が、驚くほど早く胸の中に染みこんでいった。


 岬近くの森にたたずんでいると、波の音が静かに聞こえる。森のほうからは秋の虫たちの声が聞こえ、たまに煩わしく思うこともある。数匹とらえて食べてしまっても、大合唱がやむことはない。彼らは彼らの意思で歌っているわけではないのだ。

 夜の海は、ロゼッタはあまり好きではない。黒々とした海原が、怒っているようにしか見えないからだ。夜の海では、目を閉じておくに限る。海の音は耳にやさしく、考えごとをするには良い場所ではある。

「こんばんは」

 木々に寄りかかっていると、隣にあの年上の鳥乙女が舞い降りてきた。あまり心配をかけたくはないので、ロゼッタは薄く微笑む。彼女は首をかしげた。

「あなた、まるで自分のひながいなくなったみたいな顔してるわよ」

 年上の鳥乙女がそう言うと、ロゼッタは目を閉じた。否定する気力はない。

「……彼、どうして私なんかにつきまとうのかしら」

 頭の中でぐるぐると回っていた疑問の渦の中から、ひとつ落ちてきた言葉を口に出す。年上の彼女は羽を伸ばした。

「うーん、だいたい生き物ってのは、自分の足りないところに惚れるのよ」

「そんな、自分でも自分がわからないのに。私から歌をとったら何も残らないわ。本当に、何もない――」

「あとにはおマンマの食い上げちゃんが残るわよね」

 鳥乙女がにやりと笑う。冗談かどうか、彼女の表情からは判別できない。

 ロゼッタはくちばしを開け、大きく息を吐いた。人間社会に降りるために、今まで誰よりもきれいな歌を目指してきた。それが、自分が生きている証明を得るためだとしても。

 この道を諦めることは、今までの自分を、真っ暗な海につき落とすことと同じだ。

 いつかこうなる日が来ることはわかっていた。自由な彼に対する気持ちが、嫉妬であることに気づいたときから。嫌悪の先は彼ではなく、夢をあきらめきれない自分自身だ。

「あなたから歌をとったら何が残るか、あいつはそれを知ってるのかもね」

 彼女は微笑んで片目を閉じた。両の翼をロゼッタの頬に当て、まっすぐにロゼッタの瞳をみつめる。羽毛の暖かさが伝わってくる。

「あなたがどんな道に進んでも、あたしはあなたを覚えてるわよ。つぎに会ったときは、何も言わずに抱きしめてあげる」

 ロゼッタは彼女を見つめて、弱々しく微笑んだ。自分でも情けなく思うほど、心臓が小刻みに震えていた。



 遠くの空で、渡り鳥の群れが弧の形を作ろうとしている。

 海岸から離れた丘の上で見ると、その群れは一羽の大きな鳥のように見えた。みなが同じ方向を向き、だれも海を渡ることに疑問を抱かない。越えた先では、夢を終わらせるための儀式が待っている。

 はじめて後ろから注視する鳥乙女の群れが、ロゼッタには少しいびつに見えた。きっと自分が飛ぶことに疲れてしまったからだろう。あの列を崩さずに飛ぶことが、今までの自分の生きる目的だったというのに。

 背後から蹄の音が聞こえ、となりに半人半馬の男が歩みよってくる。空を仰ぎ見ていたロゼッタは目を閉じ、顔を歪めた。

「ロゼッタ?」

 ロゼッタはその場にくずおれ、隣の半人半馬の足に頭を預けた。次々に頬をつたっていく雫が、じんわりと鹿毛に染み込んでいった。

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ロゼッタ・アリア 黒田なぎさ @kurodanagisa

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