ロゼッタ・アリア

黒田なぎさ

第1話

 遠くの空で、渡り鳥の群れが弧の形を成している。

 秋の終わりの風はつめたく、ロゼッタは二度首をふった。海風に押された波が激しく岩礁にぶつかる。足元にまでしぶきが飛んできたので、ロゼッタは波打ち際から数歩離れる。風がおだやかになる夕方までには、まだ少し時間がある。

 鳥乙女《セイレーン》のロゼッタにとって、岬の岩礁は都合の悪い場所ではない。人が寄りつかないことは当然だが、足もひっかけやすいし、波も見ていて飽きることはない。時々、海鳥がやってきてはこちらを不思議そうに見つめてくる。鳥に警戒されるほど鳥乙女は人間に近くないが、鳥と会話ができるほどそちらに近いわけでもない。

 ロゼッタは翼を広げてほこりを落とし、ていねいに翼をたたんだ。息を吸って、三回ほど声を出す。音をひとつひとつ確認しながら、喉と腹を徐々に慣らしていく。体が熱を帯びてくるのを感じると、ここ数週間ほど練習している歌をうたい始める。

 誰も見ていないことをいいことに、翼を広げて目をとじる。自分の声が海風に乗り、波の音と混じり始めた。小刻みに翼が震え、力で羽根がぬけ落ちそうになる。喉に負担をかけないように、気持ちをおさえる。鳥乙女ならだれでも知っている歌。女性の名前を何度も呼びかける、悲しみを押しつけるような自由詩。

 歌っているとき、ロゼッタは自分の声がどんなふうに伝わっているのかと不安になることがある。声を出すたびに自分の声に驚く。それは恐らく、理想としている声と自分の声とが大きく離れているからだ。いちど自分でも驚くほどきれいな声が出せたかと思えば、鳥の鳴き声のほうがましだと思うこともある。近頃はその不安が徐々に大きくなってきている。不安を隠すように気持ちを高ぶらせる。力を入れすぎて声が裏返りそうになる。

 最後の転調を歌い終わってから、一羽のかもめがロゼッタの上を通り過ぎた。かもめの姿を目で追いながら、歌えることが幸せなのかとふと思う。鳥乙女は歌うことに大きな喜びを感じると言われる。だがロゼッタは時々、歌っていてどうしようもなく息苦しくなる時がある。思いどおりにならない自分の声を捨てたくなる。そんな時はたいてい海を眺めた。波の音を聞くと、なぜか歌いたくなる。

 かもめが飛んでいくのを見届けると、背後の陸の上に黒い影が見えた。鳥乙女は普通の鳥と同じく目が良い。影の正体を確認して息をのむ。放っておこうかと迷ったが、影は明らかにこちらを見ているし、ロゼッタの視線にも気がついただろう。練習を見られるのも癪な気がして、ロゼッタは翼を広げて岩礁から離れた。なるべく影に視線を向けずに丘のほうへ向かう。そばを通り過ぎようとすると、影の正体がこちらを見上げた。

「邪魔してすまないね、ロゼッタ。どうしても早く君に会いたかったんだ」

 影の形は上半身が人間、下半身が馬だった。眼前の半人半馬《ケンタウロス》は手にリラを持ち、つばのあるソフト帽をかぶっている。どう見ても、山岳地帯にいる野生の半人半馬とは違う。ロゼッタは仕方なく地面に降りた。

「いつ戻ってきたの」

「ワーオ。ロゼッタはこの吟遊詩人ジルベルトのことを覚えてくれているのか!」

 ジルベルトが微笑んでリラの弦をひとつ弾く。やはり無視しておくべきだったかとロゼッタは目を細める。

「成鳥の儀が近いみたいだね、ほかの鳥乙女たちも練習していたし、みんなが南に渡る前に聞かせてもらわなければ!」

 質問をぶつけてみたものの答えが返ってくる様子もないので、ロゼッタは黙っておくことにした。「すばらしいよアマリッリ~」放っておいてもこの男は勝手に話を続ける。ジルベルトは前足で軽く地面を打った。つやつやとした鹿毛が妙にきれいだ。

「ロゼッタ、前よりも素敵な歌声になってるじゃないか。鳥乙女はやっぱり歌ってるときが一番エレガントだと思うよ」

「あなたが言うと嘘くさいわ」

 ロゼッタは眉をひそめた。この男に褒められても嬉しくないどころか、何とも言えない感情が喉の奥からこみ上げてくる。ロゼッタはきびすを返して翼を広げた。

「ああ、待っておくれアモーレ! 今年はこれだけを言いに来たんだ」

 ジルベルトの声を聞いて、ロゼッタは動きを止めた。頭の中では警鐘が鳴っていたものの、体を動かすことができずに次の言葉を待つ。

「僕と一緒に来るつもりはないかい?」

 ロゼッタは一瞬だけ翼を下ろして、それからすぐに地面を蹴った。後ろから自分を呼び止めるハイトーンの声が聞こえる。

 やはり逃げ続ければよかった、とロゼッタはくちばしを閉じた。



 沖のほうで無数の鳥乙女が飛び回るのを眺めながら、ロゼッタは岩場の上で翼を畳んだ。太陽の位置は高く、沖から鳥乙女たちの歌声が聞こえる。鳥乙女の狩りは騒がしい。

 鳥乙女の主食は魚だ。群れで歌をうたい、水中の魚をおびき寄せて別の鳥乙女が魚をとらえる。これらは大人の鳥乙女、成鳥の仕事である。幼鳥と成鳥のあいだの鳥乙女を若鳥といい、ロゼッタはこの若鳥の位置にいる。若鳥が成鳥となる儀式のことを、成鳥の儀という。

「ああ寒い、今年は冷えるわね」

 ロゼッタのとなりに、少し年上の鳥乙女が降りてくる。ロゼッタは彼女を一瞥して、すぐに沖のほうに視線を移した。

「早めに渡らないと大変だね。水の中に足つっ込むのも楽じゃないし」

「このあいだまで、水浴びはわりと好きだって聞いてたわ」

 それはそれ、と彼女が微笑んで翼を震わせる。鳥乙女に人間のような腕はなく、足も鳥足で、くちばしもある。頭から胸にかけてはわずかに人間の面影が残っているものの、肌はほとんど羽毛に覆われている。魚をとるには十分な構造だが、魚をおびき寄せる歌唱を習得するには、それなりの訓練が必要である。目のまえの彼女はもう、ひとつ前の冬から狩りの訓練を受けている。

 成鳥の儀では若鳥が歌声を披露する。群れの長たちがそれを聞き、若鳥の将来を決める。将来といってもそれは二つしかない。ひとつは成鳥の一員として狩りを行い、群れのなかで余生を過ごす道。つがいを作り、子を生み、生涯群れに尽くすことが、大部分の鳥乙女の一生である。

 もうひとつ、特別な歌唱の才能を持つものは、人間の社会の中で生きることを許される。裕福な商人や劇団に飼ってもらうということだ。その鳥乙女は狩りをする必要もなく、群れの中では英雄視される。

(……断罪の日みたい)

 ロゼッタは沖を見つめながらつぶやいた。その昔、美声を目当てに人間が鳥乙女をさらう時代があった。鳥乙女は報復として人間の船を沈めた。そこで交わされた契約が、鳥乙女は才能ある若鳥を人間の社会に送り、代わりに利益としてえさをもらうというもの。昔は生贄のように思われていた道だが、自由に歌がうたえる道として、今では多くの若鳥がこの道にあこがれている。

 成鳥の儀はふつう、冬の渡りが完了したころに行われる。ロゼッタは今年、成鳥の儀を受ける。あと数週間で自分の運命が決まるというわけだ。

 緊張してる? と目の前の鳥乙女が首をかしげる。ロゼッタはゆっくりと首を縦に振った。ロゼッタは群れの中でも、人間社会での生活を強く希望している鳥乙女だった。対してこの鳥乙女は、成鳥の儀を受ける前から、群れの中で生きることを望んでいた。

「そういえばさ、寒いときにうるさいやつが来たわねえ。ある意味で寒いやつだけど」

 彼女の言葉に、ロゼッタは目を閉じた。嫌悪を隠すつもりはない。

「昔はあたしも苦手だったけどさ、最近は見直しちゃったよ。ジルベルトが旅に出るって言い出したときは絶対無理だって思ったけど、いまだにしっかり生きてるんだもん」

「……それはそうかもしれないけど」

 急に風の強さが気になり始めて、ロゼッタは羽の手入れをした。

「でも彼は群れを抜け出したのよ。普通じゃない」

 あの半人半馬は数年前に、群れを抜け出して旅に出た。半人半馬は集団で山に棲み、何よりも規律を重んじる。当然ふたたび群れに戻ることは許されない。

「まあ良いことだとは言えないけど、あいつらしいと言えばそうじゃない? 自分の考えを持てるってすごいじゃん。ナンパっぽいところは変わってないけど」

 年上の彼女が目を細める。人間は昔、声の美しいメスの鳥乙女におどろき、『鳥乙女』の名をつけた。しかし鳥乙女にもオスはいる。目の前の彼女には既に、将来を決めた相手がいる。

「ジルベルトさ、あたしらの群れに来るのは今年限りにするって言ってたけど、それってやっぱりさ――」

 彼女が言い終わるより前に、無数の鳥乙女が海面に突っ込んだ。色とりどりの翼が水しぶきを受けて輝く。上昇した鳥乙女の足の中で、銀色の鱗がきらきらと光った。


 ロゼッタは、自分がいつから歌の道に進もうと思ったのかは記憶になかった。気がつくと歌の練習をしていて、気がつくと周りの鳥乙女たちと自分とを比べていた。人間社会におりて歌声を披露することについても、はっきりとした動機があるわけではない。自分の体から羽毛や皮を剥ぐことができないように、自分から歌を取りさることはできないと思っていた。

 唯一、理由とも目標とも言えない記憶がある。小さいころから孤独が好きだったロゼッタを、よく気にかけてくれる鳥乙女がいた。いま考えれば姉という存在に近かったかもしれない、その鳥乙女は群れの中でも歌が上手く、自分が歌を始めたのも彼女の真似からだろう。彼女はよくロゼッタの歌をほめ、またバラよりはぶどう酒の色に近いロゼッタの毛色をほめた。ロゼッタが幼鳥から若鳥になるころ、その鳥乙女は人間社会に降った。

 月日がたてばたつほど、その鳥乙女がどれだけ恐ろしい存在であったかわかってきた。どうしてあんな張りのある声を出すことができるのか。どうすればあんなに呼吸をするように歌い、周りの視線を釘づけにできるのか。当たり前のように隣にいた鳥乙女が、どれだけ非凡だったか。

 その後ろの道を歩くことが当然だと思っている自分が、どれだけ浅はかなことか。

 気づいたところで、歌を辞めるという考えを認めるわけにはいかなかった。悩んだときにはひたすら岬に向かい、喉を震わせた。おそらく今も人間社会のどこかで、目を閉じて歌声を響かせている彼女の姿を想いながら。



 夕刻。血の色の夕陽が水平線の向こうに沈もうとしている。鳥乙女は普通、海岸でかたまって眠る。天敵という天敵も昔はいたが、人間社会との契約が成立してからは、夜もそれほど警戒する必要もなくなった。

 一日の練習を終えてロゼッタは海岸に向かう。空気の震えを通して聞き覚えのある音が耳に入る。一瞬引き返そうとも思ったが、翼が疲れていたので、見つからないように低く飛んで着地する。

 多くの鳥乙女が岬の先端をとり囲んでいる。その中心では半人半馬の影が、小型のリラを弾いている。リラの音色は、凪で静まりかえった海面を撫でているようだった。歌いたがりの鳥乙女たちが、黙って他人の演奏を聴いているのは珍しかった。

 数秒、ジルベルトの音色を聞いただけで、ロゼッタは呼吸が苦しくなった。わずかに吹いている風の音の中で、その音色は手につかめるほどはっきりしていた。彼の手元からこぼれてくる三連符の波が、ゆるやかに、しかし迷うことなくロゼッタの耳に流れ込んでくる。その音色の鎖はどんなに引っ張っても切れることはない。おそらくこの音色を聞いて、振り返らずにいられる鳥乙女はいないだろう。

 後から聞けばそれは、鍵盤なら片手で演奏できるほどの単純な曲だったらしい。自分たちの声に誇りをもっている鳥乙女の前で、そんな曲を演奏するとは実にジルベルトらしいと思ったが、眼前で四肢を折って座り、目を閉じてリラを弾いている彼の姿は、本当に自分の知っているジルベルトなのかとロゼッタは疑った。最後に目にした彼の姿と同じとは、どうしても思えない。

 気がつけば一匹の鳥乙女が、音色に乗せて歌を口ずさみ始めていた。この中でいちばん歌が上手い鳥乙女だ。周りの者がそれに合わせて副旋律を重ねていく。彼女らの歌声がジルベルトの音色を消してしまうことはなかった。むしろ周りの声が儚く聞こえるほど、そのリラの音はしっかりと響いていた。

 と、ジルベルトがとつぜん目を開き、はっきりとロゼッタを見つめてきた。彼がわずかに口の端を上げる。ロゼッタは全身の毛が逆立つような感覚を覚えて、反射的に目を見開いた。

 ロゼッタは物音も気にせずに、きびすを返して地面を蹴った。思ったとおり、いくらその場から離れても、リラの音色が耳から離れることはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る