128 罪人のレプリカ

 吸い込まれそうなほどに青い空が広がっている。

 雲は遠くの山際にかかっているだけで、頭上を遮るものは一切なく、手を真上へと伸ばせばそのまま浮かび上がってしまいそうな気さえした。

 血の流れない戦争が終わった翌日、僕はアシュタヤとカンパルツォとともに城へと赴いていた。戦勝式典へと出席するためだ。


 式典、といってもそれほど大々的なものではない。建国祭が例年通りの日程で開催されることに決定したこともあり、各種褒賞の授与や国王からの挨拶などといった最小限度のものに留まるという通達がなされていた。

 戦争には金がかかる。軍事関連費の調達で国の財布は薄くなっていて、また、内乱となると反乱軍から奪える資産もなく、国費の節約を理由に祝勝パーティなどはまた後日、建国祭の祝いを兼ねて、と決められたそうだ。

 とはいえ、それは軍人に限った話である。

 貴族という存在は大なり小なり程度の差はあれど祝い事を好むものらしい。今回のオルウェダらによる反乱は政治的な側面が強く、「貴族たちの間では『ささやかな』祝賀会を開かれるのだ」とカンパルツォは面倒そうに顔を顰めた。


 僕にとってはありがたいことだった。

 貴族たちの予定に併せ、また、戦争に参加した人員の規模も考慮されたことで式典が二部制に分割されたからである。貴族に対するものが先に城内で行われ、それから軍人たちに対するものが正門前の庭園で行われることになっていた。

 カンパルツォは当然、貴族の式典に参加する。問題なのはアシュタヤだ。彼女は両方の出席資格を持っており、どちらに参加するのかは彼女の裁量に任されていた。

 城までの道中、答えなど分かりきっているくせに僕は「アシュタヤはどうするの?」と訊ねた。当然、彼女は不思議そうな顔で即答した。


「軍人の式典に参加するつもりだけど……どうして?」

「貴族の方に出た方がいいよ。アシュタヤさ、もう軍やめるんでしょ?」

 彼女は「でも」と眉を寄せる。「今は軍属だから、ニールと一緒にいる」


 アシュタヤの選択におかしな点はない。けれど、僕は彼女のためと装って都合のいいように仕向けた。


「……そうやって『今』って言ってたらずるずる進んじゃうよ。未来を見なきゃ。外交官になるんだろ? なら偉い人たちにおべっか使ったほうがいいって。代理は僕がちゃんとやるからさ」

「おべっかって、なにそれ」


 アシュタヤはくすりと笑い、しばらく考えたあと、「じゃあ、そうする」と僕の忠告を受け入れた。前庭で二人を見送って、周囲に視線を彷徨かせる。カンパルツォの護衛にはアシュタヤと僕以外正式に軍に所属している者はいないため、そばにいるのは顔も知らない軍人たちばかりだった。


 式典は昼前に始まり、恙なく進んでいった。規律正しいエニツィア兵たちは無言で直立していたが、王が臨時の俸給を出すと述べるとさすがにざわつきが起こった。軍人たちの中には「戦いがなかったのだから金ももらえない」と考えている者も多かったようだ。エニツィアでは国への忠誠心と清貧はそれほど関わりがなく、喜びこそすれど不満に思う者は誰もいなかった。

 国王の御諚が終わると部隊ごとの表彰へと移る。中隊長、あるいは大隊長が代表して壇上へと昇り、勲章が授与されていく。壇上から降りるとともに盆を持った女性に返却していることに鑑みると、渡されているのは形骸化されている勲章なのだろう。特段大きな戦果を挙げることのできなかった兵への救済措置みたいなもので、陰で参加賞と揶揄されている勲章だ。


 もちろん、中には価値のある勲章を贈られた隊もあった。『太陽』を止めるために壁を生み出した防衛魔法部隊やエルヴィネとともに出陣した阻害魔法部隊がそうだ。しかし、その中核を為した僕やエルヴィネが触れられることはなかった。

 不満などはない。

 大規模立体魔法陣に相当する魔法を三人で――狭く解釈すると僕一人とも言える――阻止したなどと公然に認められるはずもないし、ボーカンチ解放軍に所属していたエルヴィネを褒めそやすのは軍の沽券に関わるのだろう。この式典は全エニツィア軍人のための式典であり、軍の権威を貶めるような措置を執らないのは当然ではあった。


 アシュタヤの名前が呼ばれたのはあらかた表彰が終わったときだ。軍人たちの間でも終了の予感が漂っていて、「これで最後かな」と口に出す者さえいた。

 代理である僕が歩み出ると小さな波が広がった。壇上に昇り、庭園を埋め尽くす軍人の群れに目をやる。揃いの軍服に身を包んだ多くの人たちもまた、僕をじっと見つめていた。


「ニールくん」


 咳払いとともに小声で促してきたのは国王その人だ。慌てて木張りの壇上に膝を突くとかすかな笑い声が兵たちから沸き起こった。嘲笑するような雰囲気は感じられず、それがかえって羞恥を煽る。

 二言三言、ほとんど定型のような言葉をかけられ、起立を命じられる。国王は隣の侍従から受け取った勲章を僕に手渡し、目を細めた。紛れもない感謝を顔に浮かべ、彼は僕にしか聞き取れないような声で囁いた。


「ニールくん、ありがとう。きみには何と言ったらいいか……公式に称えられなくて申し訳ない」

「……いえ、そう仰っていただけるだけで光栄です」

「いやあ、宰相に止められてしまってね。抱えきれないほどの勲章を用意していたのに」

「え」


 顔が引き攣るのが分かった。あまりに軽い口調に苦笑が漏れかける。

 あの、これってその公式の場ってやつですよね。

 そこで僕は以前、アシュタヤが国王を「お茶目」と評していたことを思い出し、笑いをごまかすために鼻を擦った。その不格好さにだろうか、国王は相好を崩す。


「しかし、エニツィアが今こうしてあるのもきみが約束を守ってくれたおかげだ……望みがあるなら何でも言ってくれ、できる限り応えさせてもらおう」

「……陛下、恐縮ですが今でも構わないですか?」


 無茶な依頼であるとは承知していた。だが、できるだけ早く聞き入れて欲しい願いでもあり、僕は懇願を視線へとこめる。

 国王はわずかに困惑を滲ませたが、直立する軍人たちを一瞥したあと、小さく溜息を吐いた。我が儘な子どもに手を焼いたかのように、眉を上げている。


「手短になら」

「アシュタヤ・ラニアさまのことなんですが……」


 それだけで用件は伝わったようだ。彼は「禁術かね?」と次の句を言い当て、それから「心配はいらない」と微笑んだ。


「カンパルツォの提案でラニア嬢には内密にしていたが……彼女には禁術の研究権限を与えておいた。不可思議な力を有していることからも妥当性はあるだろう」

「……そう、でしたか」


 僕はそれだけ、何とか返した。

 ――なにも不安に思うことなどなかったのだ。その喜びが全身を駆け巡る。

 ああ、アシュタヤ。これを聞いたらきみはどう思うだろう。自分が安全な場所にいたと恥じるだろうか。他人の命を使ったのに、自分は失うものがなかったときみは自分を責めるかもしれない。

 だが、そんな必要はないのだ。結果的に成功したから言っているのではない。

 僕たちは絶えず、知らないところで、誰かから守られている。

 それは恥じるべき事柄ではなく、むしろ誇るべき事実なのだろう。互いに守り、守られることで僕たちは生きていける。それこそが人間の、否定してはならない美しいあり方なのだ。


「……ありがとうございます、陛下」僕は深々と頭を下げ、心情を吐露する。「とても不安で仕方なかったんです」

「礼を言うのはこちらだ。彼女にも感謝してもしきれない……、これくらいせねば胸を張れん」


 僕はゆっくりと息を吐く。長々と話していたため、「早く降りろ」と言いたげな侍従の咳払いが聞こえた。長い時間姿勢を保っている軍人たちも表情にも緊張から生まれる疲労が貼りついていて、申し訳なくなる。


 これで終わりにしよう。

 心残りはなくなった。


 僕は国王に一礼し、壇上から軍人たちを見下ろした。右腕を顔の前に掲げ、手袋をするすると引き抜いていく。露わになった若草色の〈腕〉はここにいる誰の目にも見えることはない。肩の下にある空虚さに困惑の声が沸き起こった。


「……どうした、ニールくん」


 そう声をかけてきた国王の口を〈腕〉で塞ぐ。無礼極まりないが、それくらいしなければ僕の力は認識されないだろう。「何かしている」という認識が染みこみ、軍人たちの視線が集中するのを待ってから、口を開いた。


「……みなさん、少し前に起こった化け物騒動を覚えているでしょうか。貴族が二人、殺された事件です」


 その瞬間、庭園にざわめきが満ちた。軍人たちは突如始まった告白に眉を顰め、会場の隅に控えていた衛兵が駆け寄ってきている。その手に握られた槍の鋭利さに僕は目を瞑った。

 もうあとには引けない。


「あのとき、レカルタを恐怖の底に陥れたのは魔獣などではありません。……犯人はこの僕、ニール=レプリカ・オブライエンです。僕は三年前、金を奪うためだけにエニツィアの貴族を殺害しました。貴族の殺害は死によって償われなければならない、皆さんもご存じでしょう。……僕には初めからこの場にいる資格などないのです」


 混乱に満ちたどよめきは庭園を覆い尽くしていく。きっと状況を正しく理解できている人間は少ない。だが、それでも構わなかった。これだけの人数が罪の告白を聞いたという事実こそが重要なのだ。

 言葉は人によって運搬され、真実めいた枷となり、僕をより確かな罪人にする。

 そのとき、個人の感情は意味をなさない。

 向き直り、国王の口を塞いでいた〈腕〉をどける。目を見開き、凝視してくる彼に僕は頭を下げた。


「陛下、僕の望みはただ一つです。民の声を聞き、法という約束を守ってください。それが叶えられれば何もいりません」


 国王の身体は震えている。衛兵が近づいてくる。僕へと槍を突きつけた彼らに、国王は小さな声で「……連れて行け」と告げた。


     〇


 牢に入るのは三年半ぶりのことだった。

 色のない石壁は様々な思い出を去来させる――冬の到来を予感させる収穫祭直前のバンザッタ、『拒否の堀』で浴びた水の冷たさと着地に失敗して打ち付けられた地面の固さ、無理に牢に入り込んできたベルメイア、それから、アシュタヤの、ぴんと張られた糸のように静かな声がない交ぜとなって僕を浸した。


 独房はエルヴィネが入れられていたものとほぼ同型の作りで、目の前にあるのは鉄格子と黒く重苦しい扉だけだ。その厳重さは絶対的な隔絶を感じさせた。燭台には乱雑に魔法石が置かれていたが、もはや燐光とすら表現できないほど弱々しく、一日に二回支給される食事の質素さすら覚束ないほどだった。

 かび臭い空気を吸っていると身体の内部も淀んでいく気がする。

 犯した罪の性質上、面会も裁判もなかった。貴族の殺害は国家転覆を狙う意志と等号で結ばれ、それはすなわち政治犯としての意味合いを持つ。真偽判別が僕の語った事実を証明した以上、誰かが嘆願してくれていたとしても無に帰するだけだ。

 沙汰を言い渡されたのは牢に入ってから一昼夜経たないうちのことだった。伝えに来た衛兵らしき男の声は上擦っていて、どうにも聞き取りづらかった。


「処刑は近いうちに行われるそうだ」


 近いうちっていつですか。誰か僕に会いに来ていたりしませんか。

 そう訊ねたが、衛兵は一切の答えを返さなかった。鉄格子を挟んだ向こうで扉が閉められる。差し込んでいる光が切れると途端に心細くなった。

 いいんだ、聞かなくても答えは分かっている。

 きっと処刑は建国祭で執り行われるのだろう。広場の壇上に乗せられた断頭台が脳裏を過ぎっていた。ギロチンって痛くないのかな、首が切られても意識があるって何かで聞いた気がする。できれば痛くないと嬉しいなあ。

 僕は膝を抱え、じっと扉を見つめる。〈腕〉を使えばすぐにでも壊せるだろうが、そんな選択肢は僕の中にはなかった。鉄格子や鉄扉を破壊した瞬間、この世でもっとも狭く暗い檻の中に閉じ込められる。他の何よりも耐えがたい牢獄は良心の中にこそあるのだ。


 それから三日間、僕は硬いパンだけの食事を楽しみ、ゆっくりと流れる時間を楽しんだ。脳内ストレージから呼び出される画像は光の有無に影響されず、鮮明に視認される。ほとんど無意識下で取り込まれたかつての視界はナイフのような鋭利さで懐古の念を僕に刻んだ。

 僕の世界にはなかった街並み、アシュタヤと眺めたバンザッタの光の輪、仲間たちの顔……思い出は美しいものばかりではなくて、血に塗れた死も映し出す。僕は与えられた時間を過去の中で過ごした。


 誰か僕に会いに来てはいないか?

 その答えも分かっている。警備は厳重で、人の気配が近づくのすら稀だったけれど、僕には一つだけ感じられるものが残されていたからだ。

 アシュタヤの〈肌〉――。彼女の広範囲精神感応は壁や阻害魔法陣に遮られることなく、時折僕の心を撫でた。青く透明な〈肌〉に〈腕〉で触れ、僕は謝罪の意志を伝えようと試みる。結果的に嘘を吐いてしまったことを謝りたくて仕方がなかった。

 彼女の力は僕からの一方通行だけれど、それでも彼女が軽蔑や失望などといった薄暗い感情を覚えていないことは確信できた。そうでなければ何度も力を使う理由がない。僕はアシュタヤの優しさが嬉しくて、暗闇の中で彼女が訪れるたびに微笑んだ。


 手紙はもう読んでくれただろうか。

 僕の思いは既に残してある。自分勝手な希望だけれど、きっとアシュタヤは幸せになってくれるだろう。外交官になり、船に乗って広い世界を回るのだ。そうしていつか、僕ではない誰かと恋に落ち、僕を思い出の本に閉じ込める。どんなに埃を被ったっていい、彼女の本棚の中に僕という存在があったならこの上ない幸福に思えた。

 そして、鋼鉄の扉が開かれる。表情を感じさせない衛兵は石壁と変わらないくらい無機質な声で「出ろ」と短く告げた。

 強さと速さを増していく鼓動の音に、僕は気付かないふりをし続けた。


     〇


 幌の外から建国祭にはしゃぐレカルタ市民の声が響いてきている。薄い布を隔てた向こうとこちらでは温度が異なり、風が暖かい方から冷たい方へと流れるように、やけにはっきりと人々の喜びが伝わってきていた。

 耳を塞ぐつもりもなく、また、そう思ったところで実行することはできない。

 荒縄はしっかりと僕の左腕を身体へと縛り付けている。拘束はそれだけでなく、足枷もつけられていた。鎖の先に鉄球がついた、ステレオタイプな足枷だ。とはいえ、鉄球は見た目以上に重く、馬車に乗るだけでも精一杯だった。


 馬車は喧噪の中を進み、やがて歓声がいちばん強い場所で止まった。幌が開けられ、光のまぶしさに目を細める。耳に同様の機能がないことを恨めしく思った。

 レカルタ中をつんざくような声、声、声……。四方八方から沸き起こる叫びは空中で攪拌され、僕へと届く頃には原型を保っていない。怒りの臭いがしないことだけが心の救いだった。

「出ろ」と命じられ、鉄球を引き摺りながら足を踏み出す。馬車は舞台に横付けされていて、足がついた先は処刑場だった。広場を埋め尽くしてもまだ足りず、道の先にも人々の姿があり、背筋が震えた。脂ぎった興奮が喉を詰まらせる。ヤクバの言葉を思い出す。


 ――いちばん盛り上がるのは『死刑』だな。


 きっとここにいる人間のほとんどは僕がどんな罪を犯したか、知らないだろう。あるいは興味がない。だが、人の死を娯楽に変える中世的で野蛮な価値観だと誰が批難できる? 僕がいた世界、僕が暮らした時代においてもその価値観は消え去っていたわけではない。ニュースの中でも、本の中でも、ネットワークの中でだって、誰かの死は人の興味を惹くような形で伝えられていた。

 舞台の下で歓声を上げている人々は、命がエンターテインメント化されていることに気付かない僕たちよりもむしろ純粋だ。死を身近に感じ、胸に抱く。彼らは僕を何らかの形で受容し、内部に取り込もうとしてくれている。


 深く息を吸い、吐き出した。つもりだった。身体の奥深くから生まれた震えは呼吸すら妨げていて、どうにもままならない。


 舞台の大きさは二十メートルくらいだろうか。その中央には二台の断頭台が並べられている。肉厚な刃は横幅が一メートルほどもあり、どこまでも無感情に冷たく光っている。相当の重量があるのが一目で分かった。

 背中を押され、足を前に出すとずるりずるりと引き摺られた鉄球が音を立てた。近い方の断頭台までおおよそ九メートル、僕は歩いたその距離にえもいわれぬ感情を覚えた。


 エニツィアにおける長さの単位、一エクタは約七十センチメートルだ。つまり、平均的な人間の歩幅とほぼ一致する。断頭台までは十三エクタ、十三歩。死刑台へと歩を進めるには相応しい数字に、偶然というものは恐ろしいな、と呑気に考えた。

 ぼんやりと眼前にある巨大な刃を眺める。

 動きを止めていたのは長い時間ではなかったが、衛兵はそれすら許さなかった。肩を押し下げられ、僕は床板へと膝を突く。木の板は堅く、膝の皿に痛みが走った。その体勢のまま、腕を引っ張られた。膝だけで進み、四つん這いになったと同時に頭を押さえつけられる。喉が木の枠に当たり、咳き込む。上から被せられた拘束具が金具で固定され、身動きが取れなくなった。


 ああ、アシュタヤ、きみはこの広場のどこかにいるのだろうか。僕の心に触れないのは正解だ。僕のためにもきみのためにもならない。できれば目を閉じていてくれ。また発作が起きてしまったら申し訳ないから。


 僕は歯を食いしばり、床板を睨む。幻想の刃を食い止めようと身体が強張る。心臓が握りつぶされたように痛くて堪らない。鎖がじゃらりと擦れ、足首の圧迫感がなくなる。足枷が外されたらしい。その事実で僕の終着点がここであるのだと実感する。

 そのとき、僕が歩いてきた方向から足音が聞こえた。二人だ。死刑囚とそれを連れた衛兵だろう。断頭台が二台あるならば罪人も二人いて然るべきだ。

 もう一人の彼も僕と同じく一言も発しなかった。恐怖のあまり声が出ないのか、それとも覚悟を決めてきたのだろうか。拘束具が固定される金属音が響く。そちらを見ないように努める。視界に入って良い影響があるとは思えなかった。


「では」と厳かな声が喧噪の隙間を縫って耳に届いた。「ただいまより処刑を実行する」


 国王の声だ。彼は広場に集まった観衆に国王らしい、威厳のある声で宣言した。

 そうだ、それでいいのです、陛下。あなたはそうして気高く判断できるお方だ。王に相応しくないなどとは思わない。

 僕はぎゅっと目を瞑る。歓声に麻痺し始めた鼓膜のごくごく表面に刃のストッパーが外される音が触れた。心臓の鼓動が止められない。最後まで遵法精神を保てていればよかったのに、と僕は悔やむ。

 内部から噴出し続けているのは恐怖だけだった。

 どれだけ身を捩っても存在が消え去ることへの恐怖は全身に絡みついて離れない。首の筋肉が強く緊張する。漏れ出す息は揺れて、か細い。がちがちと歯が音を立てる。


 ああ、ああ、なにも考えるな、なにも!

 唇を噛みしめ、ともすれば展開してしまいそうになる〈腕〉を必死に抑える。やるなら早くしてくれ、恐い、恐いんだ!


「刑に処せ!」


 国王の声が響く。一拍の間を置く。溝に沿って落下する巨大な刃はその自重で――ニール=レプリカ・オブライエンの首を叩き切った。







     〇







 遠くに歓声が響いている。拍手の音が空気を揺らす。その音に聴覚は狂い、もはや麻痺しかけている。一向に痛みはやってこない。僕は瞼を上げる。目の前にあるのは床板だ。首はまだ繋がっている。拘束具が外される。何が起こっているのか理解できない。立ち上がれずにいると何かが目の前をころころと転がっているのが見えた。白い塊、それが隣の断頭台から来たものであると気付く。視線を移す。

 隣のギロチンの刃は間違いなく受け金に触れている。だが、流れ出る血液はどこにもない。それもそのはずだ。僕の隣にいたのは罪人ではなく、白い布で作られた人形だった。


 何が起こっている?

 疑問は喉を通過しない。混乱している頭に国王の声が轟く。「刑は実行された!」実行? 僕はまだ生きている。何を言っている?

 真っ白になった思考は色がつくたびに引きちぎられていった。舞台の下にいる人々は拳を突き上げ、何か叫んでいる。その意味を聞き取ることができない。身を起こしたが、その場を離れられない。

 呆然としている僕の前には白い塊、人形の首が落ちている。歓声に押されるように、首は半回転して、その顔を僕へと向ける。

 その瞬間、僕はすべてを理解した。


 人形の頭には名前が記されていた。


 ニール=レプリカ・オブライエン――エニツィアの言葉と、この世界で僕とアシュタヤしか知らない英語で僕の名前が刺繍されている。

 全身が震える。記憶が揺れる。アシュタヤが縫っていたもの、名前の綴り、荷車に詰め込まれていた人形の群れ。バンザッタで再会したキーンの言葉が頭の中で反響する。もぐらとの会話が甦る。


 ――毎年行われる建国祭ではな、罪人に対する特赦があるんだ。

 ――建国祭のときに罪が帳消しにされてよ。


 ああ、ああ……ああ! 

 今、僕は確かに処刑されたのだ! 隣で首を斬られたのはニール=レプリカ・オブライエン――僕という……罪人のレプリカ。

 そう気付いた瞬間、全身から力が抜けた。へたり込み、虚空を眺める。


「ニール!」


 舞台の上をアシュタヤが走ってきている。彼女は僕の胸へと飛び込み、強く抱擁してきた。だが、僕は彼女の背中に腕を回すことができない。


「……アシュタヤ、きみは知ってたの……?」

「ニール、なにも言わないで」

「違う……だめだ、だめなんだ、アシュタヤ。僕はここで裁かれなきゃいけない、法は僕を許しちゃだめなんだ」

「ええ、法はニール=レプリカ・オブライエンを許さず、裁いたのよ。なにも問題なんてないの」

「詭弁だ……そんなの気休めじゃないか……」

「――気休めでいいじゃん」


 舞台の袖からどこまでも楽天的な声が聞こえた。

 顔を上げるとフェンやヤクバ、セイク、マーロゥ、ヨムギ、カンパルツォ、ウェンビアノ、ベルメイア、エルヴィネ、マイラまでもが揃っている。マーロゥやヨムギは怒っているような表情をしていたけれど、他の皆は全員微笑んでいた。


「ニールちゃん、言ったでしょお? 気休めは命を救っちゃうんだってば」


 ヤクバが「ほらな」と勝ち誇る。「『死刑』がいちばん盛り上がるだろう」

 セイクは意地の悪い笑みを浮かべていた。「ほら、さっさと飲みに行くぞ」


 こうなると知っていたのか――初めから。その考えを読んだかのようにマーロゥが唇を尖らせた。「俺は知らなかったから危うく城に乗り込むところだったんだからな」

「まったくだ」ヨムギが苛立たしげに同意した。「ニール、お前は馬鹿か」


 僕は何も言うことができない。何を言うべきかすら分からなかった。


「ニール、お前は反省するべきだ。何でも自分で解決しようなどと思うな」

 ウェンビアノの叱責にカンパルツォが頷く。「言っただろう? おれたちはお前を全力で守る、とな。それを教えるにはいささか乱暴な手ではあったが……わざわざ式典で喚いたらしいからその罰だ」


 身体が震えた。

 アシュタヤがそうされていたように――僕もずっと守られていたのだ。

 その事実に堪えることができなかった。視界が滲み、涙が溢れる。それを見たベルメイアが強い口調で言った。


「ニール、わたしも今までのこと、全部許してあげる。罰は十分みたいだし」

「あんた、いつでも自分勝手だったのになに恰好つけてるのよ」とエルヴィネは肩を竦め、 ウェンビアノの隣にいるマイラはいつもと変わらない穏やかな表情で僕を急かしてきた。「帰りましょう、ニールくん。ごちそうを作ってあるの」


 だが、僕は動けない。全身が金属の塊になったかのように重い。アシュタヤの抱擁が弱まり、身体が離れる。彼女は鼻が触れ合うほどの近さで僕の瞳をじっと見つめた。


「ごめんね、ニール……本当は再会したときに確認するつもりだったんだけど、ヤクバさんたちに内緒にしろって言われてて……でも、あなたも打ち明けてくれなかったからお互い様ってことにしてくれない?」


 アシュタヤは普段となんら変わりない、悪戯っぽい笑みを作った。責める気などない。けれど、僕の胸には言いようのないしこりが残っている。


「でも、アシュタヤ……こんな、今さら図々しく生きるなんて僕には……」

「聞こえないの?」


 アシュタヤは広場を指さす。そこにあったのは拍手をする観衆たちの姿だった。誰一人怒りの臭いを発している者がいないことに、気がつく。


「ねえ、ニール……図々しくたって受け入れてくれる人はいるの。少なくともここにいる人はみんなあなたを受け入れてるじゃない。あなたはたった今、みんなに祝福されてニール=イクサクロ・ラニアに生まれ変わったの」


 ああ――ああ!

 身体を支えることができない。僕は跪き、アシュタヤに縋り付いた。みっともないわめき声が喉から出て行く。


 ――なにもかもが洗い流されたのだ。

 生まれながらにして背負っていた業も、この世界で犯した過ちもすべて。

 泣き崩れる僕に声が降ってくる。フェンの声だ。彼は初めて出会ったときのように手を差し伸べてきていた。


「ずっと言い忘れていたことがあるんだ」彼は僕の手を掴み、言った。「ようこそ、エニツィアへ……」

「……フェン、僕は……僕は、死ななくていいの? エニツィアは僕が死ななきゃ――」

「ニール、お前が死んで救われるのはお前の敵だけだ。この国はお前の敵か?」


 ……いつから錯覚していたのだろう。

 とても単純な間違いを犯していたことを思い知った。

 僕はエニツィアではない――その当然の事実を僕は忘れていたのだ。ギルデンスがどう言おうが、僕はたった一人の、ちっぽけな存在に過ぎない。僕は自分が化け物などではなく、人であることをようやく思い出した。

 引き起こされた僕は今度こそアシュタヤの背中に腕を回す。それだけでは足りなくて〈腕〉を出した。彼女の温度は僕を肯定する。それが何よりも幸福で、堪らない。

 アシュタヤは身を捩ることすらせず、どこまでも僕を受け入れ、小さく囁いた。


「……ニール、今度は禁術を使わない。あなたの気持ちを聞かせて?」


 もう他に考えるべきことはなかった。覆い隠していた感情を曝け出す。情けなくて、みっともなくて、どうしようもないほど大切な思いを、僕は告げた。


「僕は……生きたい。……きみと、みんなと生きていたいんだ……」

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