127 エニツィアよ、凱歌を揚げよ

「まさか俺たちがここに立つことになるとはな」


 右に立つヤクバは手で庇を作り、遠くの黒い塊を睨んでいる。いきなり連れ出されたことを批難しているようには見えず、僕はおどけた。


「ごめん、でも、手の空いている人が他にいなかったから」

「おいおい、ニール、お前の目は節穴だな。目の回るような忙しさに喘いでたのに気付かなかったとは」

「どこかだ」左に立つフェンが静かに反論する。「さっきまで酒を飲もうとしていたのはどこのどいつだ」

「待ってくれ、酒を飲んだら戦えないわけじゃないだろう。むしろ酒を入れなくちゃだめだとも言えないか?」


 ヤクバの飄々とした物言いに僕は呆れ、詰る。


「緊張とか、そういうのはないの?」

「そんなもの」鼻で笑い、彼は続けた。「あるに決まってるだろう」

「え」

「正直に言えばここに立てたことに感謝してるんだ。そうだろう? 俺もフェンさんもニールも別の国で生まれたのに、こんな大役を任されてる。これはかなり興奮する」


「確かに」とフェンは気分が良さそうに笑みを溢した。振り返った彼につられ、僕とヤクバも後ろを覗く。そこにいるのはエニツィアの人々だ。

 背中を支えられていることを実感した。


「それなのになんだ、ニールは軍人なのに軍服も着ないで」

「ああ、これ? 軍服よりもこっちの方が丈夫だからさ」


 僕が着ているのは超能力養成課程の制服だった。ギルデンスとの戦いの前に預けた鞄の中に詰め込んできたものである。防刃性能こそないが、宇宙局が開発した特殊繊維のおかげで耐火耐熱性能はこの世界の衣服よりもずっと高い。今の状況にはおあつらえ向きだ。

 アシュタヤの作戦はすでに開始していた。エルヴィネは護衛隊を引き連れて南から大回りに待機地点へと向かっており、セイクやマーロゥ、ヨムギは今まさに作戦の真っ最中だ。レクシナはアシュタヤのそばに残っていたが、彼女にも果たすべき役目がある。


 成功するだろうか――そんな疑問はもうなかった。

 あるのは「成功させなければならない」という使命感だけだ。僕たちは互いの意志を確認するように顔を見合わせる。二人がいるだけで心が軽くなった。

 僕たち三人が任された最初の仕事――それは『太陽』を受け止めることである。


 ラ・ウォルホルから盗まれた『太陽』がいつ使用されるか。

 敵は奥の手を最後まで取っておくことなどという悠長な戦い方はしないだろう。乱戦の最中発動させたら味方までをも飲み込んでしまうし、温存していたら無駄な犠牲が生じる。戦力という面や王位簒奪後の求心力の低下を懸念すれば、『太陽』が使われるのは最初しか考えられない。

 だからといって阻害魔法で妨害はしない。

 僕の進言により、『太陽』はあえて撃たせることに決まっていた。


 エニツィア軍の予想が正解していることを示すように、遠くにある反乱軍の隊列は綺麗に割れている。計画が露見しているわけがないと高をくくっているのか、それとも露見したところで構わないと思っているのか、うっすらと何層にも重なった詠唱が地を這ってきていた。


「さて、そろそろか」


 ヤクバは安穏とした表情でそう言って詠唱を始める。巨大な水の龍が宙に生まれ、大きく身を捩ってから僕たちを囲んだ。それだけで周囲の気温が下がったような気がした。


「詠唱するのは久々だな……」フェンは滑らかになった皮膚を眺めて呟く。「うまくできなかったら悪い」

「悪いじゃ済まないよ、命かかってるんだから」


 ろくでもない冗談に僕とヤクバが同時に睨んだがフェンが気にしているような気配はない。彼は前方を見据えたまま小さく笑っただけだった。

 視線の先にはとぐろを巻いた水龍がいて、鱗を通して歪んだ景色がある。その中に漠然とした予兆を感じたのか、フェンはゆっくりと目を瞑り、口を開いた。

 水龍が形作るドームの中、彼の詠唱が水の壁に反射して降り注いでくる。歌声にも似た力強い響きは美しく、不思議な安堵感を覚えた。

 前方に赤い光が生まれたのはそのときだった。

 発動を始めた『太陽』にヤクバが顔を引き攣らせる。


「おいおい、でかいぞ、本当に止められるのか」

「疲れててさ、失敗したらごめん」

「お前もフェンさんも冗談がろくでもないな」


 ヤクバの嘆きを聞き流し、僕は右手を眼前に掲げる。アシュタヤが縫ってくれていた予備の白い手袋を水平に引き抜き、腰のベルトに結ぶ。それから前方から猛烈な速度で迫り来る『太陽』を見据えた。

 反乱軍が放った『太陽』はラ・ウォルホルで用いられたものよりも一回り大きい。放出されたフレアは地面の草を根こそぎ焼いていく。赤々と燃える炎は空気を掻き集めように回転し、その端から燃焼させていた。


 一拍遅れて、振動が水龍の鱗を伝わり始めた。膜の外側では足下が揺れるほどの轟音が鳴り響いている。

 五十メートルほど後方にいる魔術部隊は歩兵たちを『太陽』から守るために何重もの壁を構成していた。彼らの姿がすっかり見えなくなる。視線を前に戻すとそこにも壁ができている。横幅はあまりないが、何枚も重ねられているのは確かだ。


 あとは任せてください。

 胸の中で、すべてを託してくれたエニツィアの人々にそう伝えた。

 ――僕がこの国を守るんだ。僕に人としての重さを与えてくれた、エニツィアを。

 決意を込め、前方を睨む。


 その瞬間、猛進してくる『太陽』が後方の魔術部隊により生み出された土の壁へと衝突した。かすかに動きが鈍る。だが、その程度で何百人、何千人の詠唱により生み出された魔法が止められるわけもなかった。

 灼熱の塊は次々と壁を飲み込んでいく。一瞬にして水分を奪われた土は暴れ狂う熱風を受けて呆気なく崩れ去っていった。光と音と熱が、どんどん近づいてくる。


「フェン、準備はいい?」


 詠唱を続けるフェンは首肯だけを返した。僕は〈腕〉を槍へと変え、ヤクバは水龍の尾を伸ばし、壁をさらに厚くする。

 僕たちを守る最後の壁――土は砂へと変わり、融点に達する。液状になった砂がどろりと垂れ、その威力の凄まじさを実感させた。ぐずぐずと壁が崩れ始め、熱風が襲ってくる直前、僕は〈腕〉を突き出した。

 先端が水龍の鱗を掠める。フェンの詠唱が終了し、巨大な壁が生まれる。〈腕〉はその中央を貫き、『太陽』の被膜へと触れた。

〈槍〉が飴細工のように溶け、押しつぶされる。


『太陽』に、ではない。〈腕〉を溶かしたのは僕の熱であり、つぶしたのは僕自身の意志だった。扁平になった〈腕〉は凝固し、盾を構成する。『太陽』の持つ運動エネルギーがぶつかり、かすかに〈腕〉がひしゃげた。

 奥歯を食いしばって衝撃を耐える。気を抜けばその時点で終わりだ。〈腕〉はへし折れ、僕たちは『太陽』に飲み込まれるだろう。目を瞑ると悪い想像に襲われる気がして目を見開く。

 ――そして、『太陽』の運動は完全に停止した。


「止まったぞ!」


 ヤクバが快哉を叫んだが、炎を堰き止めてもなお熱エネルギーは直進する。〈腕〉のわずかな隙間を通り抜けた分子は容赦なくフェンが作り出した土の壁を焼いた。分厚い壁にひびが入る。生じた隙間に熱の大蛇が入り込み、壁の内部で全身を揺さぶる。

 吹きすさぶ熱風に壁の端が崩れたのを目にし、フェンが口を開いた。再開した詠唱が水龍の小部屋の中に満ちる。壁を強固にしようとしているのだ。

 ――だめだ。僕は衝撃に締めつけられている喉の肉をこじ開け、叫んだ。


「大丈夫! 止められるから!」


 ――敵から僕の姿が見えていなければならない。

 おそらく敵は双眼鏡などを使って戦況を確認しているはずだ。ならばそれを利用しない手はない。僕が『太陽』を止めたと認識させれば敵軍に動揺は広がる。

 僕の指示にフェンが詠唱を中断した。衝突した瞬間の熱風を防いでくれた土の壁が崩れ去り、『太陽』の全貌が露わになる。

 十メートル先にある『太陽』は怒り狂ったようにフレアを放ち、僕の〈腕〉を燃やし尽くそうとしていた。炎の蛇が水龍に絡まり噛みつき、激しい蒸発の音が四方八方から突き刺さってくる。伝導してきた熱は数秒もしないうちに内側へと溢れ、熱気が肌を這い始めた。


「おい、ニール、まだか! もう持たないぞ!」


 絶え間なく響く蒸発の音が水龍の断末魔のようにも聞こえる。ヤクバは短く詠唱を行い、水龍の大きさを維持しようと試みる。だが、追加される水の量よりも気化する量の方が圧倒的に多く、水龍の体積は見る間に減っていった。鱗の隙間から入り込んでくる過熱水蒸気が肌を焼く。痛みにヤクバとフェンが呻き、僕は歯を食いしばる。

 もう十分だ。

 ラ・ウォルホルのときのように上空へ逸らすなどという生ぬるい手段をとるつもりはなかった。

 必要なのは絶望だ。何度撃っても無駄であると思わせるような絶望を与えなければならない。僕は運動エネルギーのほとんどを喪失した『太陽』を睨み、声を発した。


「ヤクバ! 僕だけを外に出してくれ!」

「……馬鹿野郎、なに言ってんだ!」

「いいから早く!」


 舌打ちに感謝するのは初めてだった。一歩踏み出した僕と二人の間に壁が生まれ、前方にある龍の尾が消える。灼熱の空気が制服の上を這い、修繕に用いられた糸を燃やした。左腕で顔を覆うが、面積が足りるわけもなく、顔面の皮膚が燃える。

 僕は〈腕〉を一度引っ込め、身体に纏い、全力で跳躍した。

 球形の炎はどこにいても等しい温度で身体を焼いていく。露出している肌が焦げる。痛覚は全身をやすりにかける。呼吸すらもままならない。


 だが、これで終わりだ。

 五メートルほど前方に〈盾〉を生み出す。

 ――僕のサイコキネシスの射程は十メートルだ。だが、十メートルしか伸びないというわけではない。その内部でならどんな形にも変えられる。若草色の円は直径十五メートルほどまでに広がった。『太陽』よりは小さいが躊躇する猶予などない。


 押しつぶしてやる。


 宙に浮かんだまま、僕は〈腕〉を振り下ろした。圧力を加えられた『太陽』は徐々に変形していき、地面との間でその限界に達した。

 炎が破裂する。行き場をなくしたエネルギーが水風船のように割れ、四散していった。消え去った『太陽』の中心に着地する。地面の確かさに僕は深く息を吸い込んだ。


 風が吹いている。

 燃やし尽くされた空気の隙間を埋めるように風が集まってきている。その風圧は僕の身体に辺り、痛覚を刺激した。肉を刺す無数の針は堪えられるものではなく、すぐに〈腕〉の中に全身を浸して治療を始めた。

 戦場を不思議な静寂が貫いている。

 エニツィア軍からも反乱軍からも音がしない。両軍の中央、忽然と姿を消した暴力の象徴がすべての人間の思考を奪っていったかのように一人として口を開く者はいなかった。

 ――僕たちを除いて。


「ね?」と僕は振り返る。「大丈夫だったでしょ?」


 二人の目撃者は驚愕の表情で固まったままだ。「嘘だろ」とヤクバが呟き、「信じられん」とフェンが首を振る。僕はそれがおかしくて、噴き出した。英雄になったような気分は微塵もない。どちらかといえば悪戯が成功したときのような感覚だった。


「ヤクバ、悪いけど水、かけてくれる? ちょっときつい」

「あ、ああ」


 頭上から降ってきた水はほどよく冷たくて、生き返る心地になった。大きく一口飲み干すと内側にこもっていた熱が消えていく。ずぶ濡れになった髪を掻き上げ、僕は犬みたいに身体を振った。


「よし、じゃあ、行ってくるよ。あとは手筈通りにやろう」


 返事を待たずにサイコキネシスに身を包み、地面を蹴った。僕は敵軍の中心へ、二人は外側に開いて進行を妨害することになっている。

 走っていると膝が情けなく揺れた。一眠りしたとはいえ、体力の限界を感じた。

 ああ、終わったらアシュタヤの隣で眠ろう。手を握って、日が昇りきってから起きるんだ。それくらいの怠惰はきっと許される。

 幸福な妄想を思い浮かべていると後方で壁が崩れる音がした。鬨の声があがる。しかし、ベルメイアのお願いが効果を奏したのか、全員が忠実なエニツィア兵だからか、魔法が飛んでくることはなかった。


 正面には数え切れないほどの大軍がいる。忘我からたち帰った彼らも進軍を開始していた。混乱が払われていないせいか、速度は遅く、攻撃も散発的なものだった。ぱらぱらと矢が飛んでくるが、魔術師による遠距離の魔法は鳴りを潜めている。

 エルヴィネが敵軍の魔法を封じ込めてくれているのだ。

 困惑の混じった怒りの臭いが漂ってきて、それを嗅いだ僕の意識は名も知らぬ誰かの肉体へと移動する。反乱軍の声が周囲で轟いた。


「どうなってる、『太陽』はどうした!」「どうして後ろは援護しない!」「前に何かいるぞ!」「構うな、突っ込め!」「いや、おい、金の髪だ、『化け物』レプリカだ!」「ギルデンスはどこへ行っている!」


 阿鼻叫喚に押し返され、僕の意識は自らの身体へと戻る。

 脳が揺れる中、〈腕〉を展開した。

 彼らには破れかぶれになってもらっては困る。存分に思考してもらう必要があるのだ。自分が何と戦おうとしているのか、その意味を。

 あと数十メートルというところで敵軍の最前線にいる兵から魔法が放たれた。エルヴィネの阻害魔法はそこにまでは届いていないらしい。

 だが、それはそれで好都合だった。

 僕は直進してくる火炎弾を弾き、水の球を掴んだ。そのまま握りつぶすと水の破片が飛沫となって宙を舞う。それから慎重に力を調節して、水が地面にこぼれないよう〈腕〉の上へと載せた。


 ――この世界で僕の〈腕〉を目にすることができるのはアシュタヤだけだった。

 だが、それも今日で終わりだ。

 世の中には見えないからこそ感じる恐怖もあるが、目に映るからこそ感じる恐怖もある。

 僕は速度を落とし、ゆっくりと一歩ずつ地面を踏みしめて進んでいった。『太陽』により水分を奪われた土が砂となり、風と振動に巻き上げられている。宙を浮遊する砂埃は風に攪拌され、居場所を求めているのかのように僕のもとへと流れてくる。


「なんだ、あれ……」


 誰かの呟きが耳に届いた。敵軍の動きが鈍る。

 彼らが目にしているのは禍々しく変形した僕の〈腕〉だった。砂が水分に付着し、次第に〈腕〉の全貌が明らかになっていく。

 砂で象られた十メートルにも及ぶ腕は敵の戦意を狩るには十分な威力を持っていた。反乱軍の波、その中央にいる兵士の足は完全に止まっている。

 戦場には僕を中心とした円が生まれていた。


「アシュタヤ!」


 言いきる前に僕の心が撫でられる。彼女の超能力、青い〈肌〉は僕を突き抜け、敵軍の中へと潜り込んでいった。可能な限り広げられたその力は変形し、一つの魔法陣を作り上げる。

 禁術――心情を吐露させるその魔法は例外なく敵兵たちに染みこんでいった。頃合いを見て、僕は〈腕〉を思い切り振るう。砂を含んだ水分が最前線にいる兵士たちに当たる。たったそれだけで強烈な悲鳴が空気を震わせた。

 砂混じりの水をかけられただけ。そう考える者もいれば、まったく的外れな恐怖に身を竦める者もいる。得体の知れない化け物が正体不明の攻撃をしてきたなどという荒唐無稽な恐怖――アシュタヤの禁術はそんな思考すら余すことなく声として浮かび上がらせた。


 耳を塞ぎたくなるような叫び声が乱れ飛び始める。

 人は無意識に最悪の事態を思い浮かべる。禁術により崩された感情の堤防は敵兵たちに様々な思いを吐き出させた。怒号、奮起、焦燥――しかし、それらすべての感情を足しても恐怖の音量に勝ることはない。

 動物が生きるためには自然なことなのだ。動物は身を守るために恐怖を抱く。命を維持するために、心は前向きな感情を黒く塗りつぶしていく。

 そのとき、どこかで武器が落ちる音が響いた。一瞬の空白に「殺される」という丸裸の怯えが染み渡る。「死にたくない」と誰かが叫んだ。

 明確な言葉を得て、恐怖は実体化し、伝染していく。

 恐慌を引き起こすには十分すぎるきっかけだった。


「ニール!」


 後ろから届いたアシュタヤの声に振り返る。エニツィア軍の中央から彼女とエニツィア国王が進み出てきている。

 どうやらあちらも成功したらしい、アシュタヤは右手を空へと伸ばしている。ぴん、と立てられた人差し指の先には宙を漂うレクシナと――鎖に繋がれた反乱の首謀者、エニツィア侯爵エゼル・オルウェダがいた。


     〇


 馬車の中でしたアシュタヤとの会話を反芻する。「まず」と言った彼女の顔つきはそれまで目にしたことのないほどに冷たいものだった。


「戦争を止める作戦だけど……まず、ディアルタさまがセイクさんとマーロゥさん、そしてヨムギを伴って敵陣に侵入してもらいます」

「……それは『まず』の範疇を越えている気がするけど」

「そんなことはないわ。敵陣にはギルデンスが帰還するための魔法陣があるはずじゃない。ディアルタさまもそれを認めたし」

「ああ、そうか……でも、そこでどうするの? この期に及んで暗殺なんてしないよね」


 そうだとしなければ止めなければならない。

 ギルデンスやオルウェダが転移魔法を使えるディータを擁していながら国王の暗殺を企まなかった理由と同じだ。暗殺には高潔さがない。国をまとめるにはその高潔さが何よりも必要なのだ。それは僕たちにも当てはまることで、アシュタヤもその意見自体には首肯を返した。


「もちろん暗殺なんてしません」

「だよね。じゃあ、四人は何しに?」

「誘拐」

「え」


 物騒な単語に僕は固まる。アシュタヤは意に介した様子もなく、淡々と続けた。


「敵陣に入ったらヨムギが霧で敵の視界を奪い、セイクさんとマーロゥさんにエゼル・オルウェダの身柄を拘束してもらう予定です。彼らの身のこなしの速度は群を抜いていますから」

 我に返った僕は「……随分簡単に言うね」と苦言を呈した。「いくら視界が悪かろうが敵も抵抗するでしょ。それなりの手練れだっているかもしれない」

「ええ、でも、だからこそなの。ニール、強い人は目が利かなければどうすると思う?」

「どうする、って」

「強い人に限って魔力の流れを見ようとするわ」


 あ、と声を上げそうになった。そうか、と合点もする。

 森の中でギルデンスが僕の位置を確かめられなかったもう一つの理由――ないものは見えないのだ。そして、セイクもマーロゥも魔力をほとんど持たない。深い霧の中では彼らと物見遊山で来た貴族たちとを見分ける方法はないと言っていい。


「ニールもあの二人の勘の良さは重々承知してるでしょ?」

「まあ、ね。生身であれだけ僕の〈腕〉を躱せるのはギルデンスとフェンを覗けばあの二人くらいだったし」

「……エゼル・オルウェダの身柄の確保が完了し次第、ディアルタさまにはすぐにこちらへと戻ってきてもらいます。そうしたらレクシナさんの鎖で拘束して、反乱軍の人間に状況を見せつけるんです。レクシナさんは風の魔法で浮き上がることができるから目立つでしょう? 自軍の将に攻撃する人はいないしね」

「その間、エルヴィネさんが阻害魔法で相手の攻撃を封じ、フェンとヤクバ、それとエニツィア軍が威嚇する、ってわけだ」


 実際はそこに僕も加わることになった。

 成功確率は決して高くないだろう。希望的観測の多い作戦は高く積み重ねられた積み木と同様、一つのブロックが揺れただけで大きな音を立てて瓦解する。

 アシュタヤも懸念を捨て切れてはいないようで、厳しい表情をしていた。


「で……そこまでして、どうするの? もう話し合いで決着はつかない。いくらオルウェダを連れ出したところでどれだけの意味があるか」

「……そうね。陛下にもその場に来てもらいますが、話し合いはしません」


 言葉が喉につかえた。最前線に両軍のトップを引きずり出すつもりだったことに驚きはある。だが、それ以上に、僕はアシュタヤの瞳に胸を締めつけられたのだ。

 そこには熱のない、硬質な覚悟があった。


「どちらか……あるいは両方に生け贄になってもらいます」


「生け贄」と僕はおうむ返しにすることしかできない。押し黙る僕へ向けて、アシュタヤは覚悟を露わにしていく。


「私はそこで禁術を盗み出したことを打ち明け、その上で二人に術をかけます。オルウェダがどす黒い魂胆を吐き出し、陛下が高潔な精神を示すことができれば……この戦争の意味のなさに誰もが気付くわ」

「ちょっ」その危うい賭けの裏側に潜む犠牲に、僕は声を荒らげた。「待ってくれ、アシュタヤ、きみは正気じゃない!」

「いいえ、ニール、私は正気よ。他人に命をかけさせて自分だけが高みの見物なんてするつもりはないの。足りないかもしれないけれど……私は人生を使わせてもらうわ」


 もし一生を牢屋で過ごすことになったら会いに来てね、とアシュタヤは冗談交じりに言った。彼女の決意を蔑ろにするのはもはや裏切りと同義で、「そうならないように何とかする」という言葉を口に出すことはできなかった。


     〇


 あ、と声を上げそうになった。

 僕の頭上まで来ていたレクシナがエゼル・オルウェダの拘束を解いたのだ。重力に従って落下する老人は無様に悲鳴を上げながら手足をばたばたと動かしている。慌ててすくい上げるとその軽さが〈腕〉に伝わった。

 ゆっくりと地面に降ろしながら、批難をこめてレクシナを睨んだが、彼女はウインクとともに宙返りしただけだった。反転するとそのまま自陣の方へと戻っていってしまった。

 彼女が描いた軌道の下にはアシュタヤとエニツィア国王が歩く姿がある。両脇に二人の護衛を連れているだけで、戦場に出る恰好はしていない。しかし、二人は真っ直ぐ僕のもとへと向かってきていた。


 エゼル・オルウェダは近づいてくる二人に歯ぎしりをしている。一拍置いて、隣に僕が立っていることに思い出したのか、勢いよく視線を向けてきた。それだけで心地悪い安心感に包まれたような気がした。

 目の前にいる老人は満面朱を注ぎ、僕を睨んでいる。肌は皺だらけにもかかわらず脂ぎっていて、目の光は澱んでいた。地面に尻をつけたまま、老人は何か叫んだ。僕への罵倒なのか、自軍への懇願なのか、勢いだけは強かったけれど響いてくるものは何もなかった。

 反応を返さずにいると、さらに語気は強まる。三分の憤りと七分の怯え、その強烈な悪臭は僕の意識をエゼル・オルウェダの中へと引きずり込んだ。

 彼の記憶にあったのは吐き気を催すような最悪の日々だった。他人を妬み、蹴落とし、玩具にする毎日。下卑た笑い声が耳元で響く。利用されていたことにも気付かず、永遠の栄光を信じる矮小な欲の権化――国の柱となるような高潔さはどこにもなかった。


 ……ギルデンス、お前はこの老人のことをどう思っていたんだ?


 エゼル・オルウェダはどこまでも己のことだけを考える小物だった。男をいたぶり、女を辱め、それが露見しないよう自分の手を汚すことなく処理する、最悪の屑。

 しかし、裏を返せば、確かにこの男は自分らしくあろうとしている。


 お前はこの生き方を美しいと思ったのか?


 返答などあるはずもない。だが、ギルデンスがその問いを肯定するわけがないことも分かっていた。目的はどうあれ、彼には気高さがあったからだ。

 歩み寄ってきた国王が僕のそばで立ち止まる。彼は寂しそうに哀れなオルウェダを睨んだ。どれだけ口汚く罵られようとも、国王は表情を崩さない。国王の隣にいるアシュタヤが反乱軍へと向かって頭を下げたのはその時だった。


「皆様――私はハルイスカを治める貴族、ラニア家の長女、アシュタヤと申します。エニツィア軍特別隊隊長と名乗った方が通りはいいかもしれません」


 彼女の声はとても澄んでいて、ざわめきを消し去るような透明感に満ちていた。反乱軍の兵士たちは状況を把握できていないのか、動けないでいる。彼女の持つ静謐な空気に飲み込まれ、誰一人言葉を発しなかった。

 いつの間にか、すべての戦闘は中断している。

 そして、万を超える聴衆のもと、アシュタヤは罪を告白した。


「今から禁術を使用させて頂きます。人の秘めたる思いを曝け出させる、もっとも汚らわしい魔法です」


 アシュタヤは宣言するなり、〈肌〉を反乱軍のもとへと伸ばした。魔法陣の先端に触れた幾人の男が同時に言葉を漏らす。「何が起こっているんだ」と全員が同時にそのようなことを口走り、それが自分の喉を通ったものだと気がつくと、目を見開いた。

 困惑の波が同心円状に広がっていく。すべての人間の注目を集め、彼女は続ける。


「戦うのはこの戦いが誰のために行われようとしているのか、お知りになってからでも遅くありません。……ただ、一つ申し上げておきますと、残念ながら皆さんのためのものではないのです」


 アシュタヤの〈肌〉が徐々に国王とオルウェダに近づいていく。僕も固唾を呑んで見守っていたが、ふと視線を感じて顔を上げた。


「ねえ、ニール」彼女は小首を傾げて、申し訳なさそうに囁いた。「何か質問してくれる? できれば心の中身を引き出させるような質問……思い浮かばなくて」


 急に言われても、と狼狽するが、拒否するのも恰好がつかず、僕は何かないかと記憶を探っていく。そうしている間にも〈肌〉は地面を這っていて急かされたような気分に陥ってしまった。

 記憶の穴を落ちていく僕の速度は言葉をつかみ取れないほどにはやい。手当たり次第に手を伸ばしていると、それらしきものに触れることができた。僕自身の言葉ではなかったが、掴んでしまったものはしかたない。僕は精一杯声を張って、その言葉を口にした。


「『民の声を聞け』!」


 喉から飛び出したのは三十年近く前、若かりし頃のウェンビアノが領主に就任したばかりのカンパルツォへ向けて放った言葉だった。

 質問だと言われたのに、と恥じる。しかし、口は止まらない。アシュタヤの禁術は僕の足下にまで伸びている。僕の口は、僕の心に沿って動いた。


「僕は……僕たちには戦わなきゃいけないときがあるんです。自分の歩く道がねじ曲げられようとしているなら、武器を持たなきゃいけないんです。そうしなきゃいろんなものを失ってしまうから」


 ああ、頭の中がごちゃごちゃしている。感情を吐露しているのは確かなのに、上手く思いを伝えられている気がせず、歯痒さが募っていく。


「でも、今がそのときとは思えないんです。僕には武器を持つことで道をねじ曲げられている気がしてならないんだ……」


 一瞬の沈黙のあと、僕の喉を通ったのは他の誰のためでもない、自分のためだけの疑問だった。


「どうして、どうして今、僕たちは戦おうとしてるんですか? ――僕は……あと何人殺せばいいんですか……?」


 言葉にすることで気持ちは増幅する。なんだか悲しくて堪らなくなった。自分で望んだ道だと分かっていても、心が締めつけられる。涙がこぼれているのを感じ、情けなくて情けなくて僕は俯く。


 そのとき「すまない」と穏やかで苦悶に満ちた声が耳朶を打った。

 国王は項垂れたまま謝罪を繰り返す。「すべて私の責任だ」と彼は拳を握りしめている。反乱軍の兵士たちに動揺が広がり――

 そして、エゼル・オルウェダが薄汚い本性を曝け出したのも同じタイミングだった。


「黙れ! つべこべ言わずにさっさと殺し合え!」


 彼の本性は確かな質量で放たれ、反乱軍の中心に落下する。誰もがその言葉に耳を疑い、オルウェダ自身ですら目を見開いた。彼は青ざめ、口を押さえる。

 だが、言葉を押さえるには老人の心はあまりにも醜すぎた。


「何で儂がこんな目に遭わなければならんのだ! こんな臭い場所に放り込まれて、挙げ句の果てに民の声を聞けだと? 貴様ら愚か者どもにそんな権利があるか!」


 怒りの臭いが爆発するように広がっていく。アシュタヤが〈肌〉を消すと同時に禁術が解ける。それに気付いたのか、オルウェダは「違う!」と叫んだ。


「今のは、違う、儂は、儂はそんなこと露ほども考えておらん! 言わされたのだ! あの薄汚い小娘に!」


 頭蓋の内部で熱が弾けた。視界が狭まる。無様に転げたまま、欲に狂った老いぼれが何か喚き続けている。内容が頭に入らない。ありがたくもある。

 これ以上オルウェダの声を聞いていたら内臓が腐り落ちていたに違いないからだ。

 目の前にいる老人に痛みを教え込まなければならない。先ほど潜り込んだ反吐の出る記憶が脳裏を過ぎる。苦悶の叫びを吐き出していた人々が僕に命令する。

 だが、〈腕〉を構えた瞬間、僕の口の中に空気ではないものが押し寄せてきた。大量の水が気管支に入り込み、あまりの苦しさに喘ぎ、咳とともに怒りが身体から出ていく。一拍遅れて自分が水の中にいることに気がついた。

 ヤクバの水龍が僕を飲み込んでいる。


「そうカリカリするな」といつの間にか僕たちのもとに来ていたヤクバが余裕綽々に肩を竦める。「怒りは酒をまずくするぞ」


 水龍の背から顔だけを出され、僕は身動きが取れなくなっている。

 何が起こったのか把握できず、周囲を見渡すと反乱軍との間に壁ができていた。土の壁を生み出したフェンは僕に窘めるような視線を送ってきている。壁の奥からは激しい怒号と金属が土を刺す音が絶え間なく響いていた。


「攻撃を停止せよ!」国王は叫ぶ。「エゼル・オルウェダを裁くのは諸君らではない! 攻撃を停止せよ! 全軍、武器を捨てるのだ!」


 威厳に満ちた国王の声は草原に強く、響き渡った。徐々に混乱と暴動が収まっていく。

 始まらなかった戦争が終わるのだ。その予感にずぶ濡れになって、僕はアシュタヤと顔を見合わせた。

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