126 巡る

 森の外へ出るとディータと視線がぶつかった。彼女は這々の体で歩く僕の姿を複雑な表情で見つめ、首もとに下げた笛を恐る恐る手に取った。

 震えた音色は空へと昇っていく。それが目に映るかのように、ディータはしばらく空を見上げていたが、彼女が待ち望んでいる何かはついぞ現れなかった。


「レプリカ」涙を堪えながら、彼女は訊ねてくる。「……終わったの?」

「……うん」


 答えると同時にディータの膝が折れた。崩れ落ちる彼女を咄嗟に支える。彼女はところどころが破れている僕の服を握りしめ、大声で泣きじゃくる。大粒の涙が地面に落ち、黒い染みとなった。


「いけないって分かってる……、あの人は、とても悪いことをしてたから。でも、でもね、レプリカ、わたし、ギルデンスさんのこと、好きだったの。あの人は、あの人だけはどこにも行かないって思ってたから……」


 僕は彼女を立ち上がらせる。

 謝るつもりはなかった。謝罪はときに侮辱ともなる。僕には彼女の覚悟を踏みにじることはできなかった。


「僕のことを恨んでくれてもいい。でも、ディータ、一つお願いを聞いてくれ」

「……なに……?」


 ディータは目を擦りながら僕を見上げる。その表情に胸が痛んだ。

 彼女は十五歳か十六歳だったはずだ。その若さで親を亡くし、信じていた人間まで失った。僕には彼女の苦しみを理解することはできても、共感し分かち合うことはできない。

 だから、少しでも気持ちが穏やかになる方法を提案することが僕に可能な精一杯だった。


「ラ・ウォルホルからハルイスカに向かう馬車の中での話、覚えてるかな……気がよくて馬鹿な三人組の話だ。きっと彼らならきみの背負った荷物を簡単に持ち上げられる。貴族に渾名をつけちゃうくらいでさ、追い払ったってどこにも行かないような人たちなんだ。……一度会いに行って欲しい」

「……考えておく」


 ディータは洟をすすり、炎に包まれた森を見つめる。小さな声で「さよなら」と言うのが聞こえた。


「……最後の約束、守らなきゃ。掴まって、レカルタに連れて行くから」


 ディータの歌声が周囲に漂う。もの悲しげな旋律は鎮魂歌のように響き、煙とともに空へと昇っていった。魔力が僕たちを包み込み、空間に穴を開ける。



 空間転移した先はレカルタの、ギルデンスと対峙した空き地だった。

 頭の中に地図を思い浮かべる。僕たちが「終わりの森」へと出発してから一時間も経っておらず、国王やカンパルツォはまだ出発していないかもしれない。

 まずは城へ向かおう。東側にあるこの地区から城まではそれなりの距離があったはずだ。自分の足で歩くのはやや辛い距離で、僕は仕方なく身体を〈腕〉で包んだ。

 しかし、足を踏み出したところで膝から力が抜けた。たたらを踏むと、ディータが心配そうに僕の身体を支える。彼女は心配そうに僕の顔を覗き込んできた。


「ちょっと、大丈夫?」

「大丈夫……とは言えないかな。怪我は全部治したけど、血を流しすぎたし、何より疲れた。支えてくれると助かる」

「でも……誰か人を呼んでくるから待ってて」


 そこでディータが駆け出そうとしたため、僕は慌てて彼女の手首を掴んだ。びん、と腕が伸び、彼女は不服そうに眉を顰める。


「何してるのよ、待っててってば」

「嫌だ」

「え」

「ディータ、きみさ、人を呼んだら戻ってこないつもりでしょ。分かるよ」


 僕の言葉に、ディータの身体が硬直した。予想は当たっていたのだろう、彼女は唇を噛みしめ、目を強く瞑った。小さな背中にのし掛かる重い罪悪感と迷いに押しつぶされまいとしているようでもあった。


「だって、わたし、わたし……!」

「……アシュタヤがさ、言ってたんだ。手を離してどれだけ後悔したか、って。今、きみの手を離したら僕はすごく後悔するし、アシュタヤやヨムギにどれだけ怒られるか想像もできない」

「でも!」

「ディータ、きみがいたら戦争はすぐに終わるかもしれない。転移魔法でどっちかの軍を別の場所に移動させるとか……まあ、これは無理な注文だろうけどさ。でもきみにもできることがきっとある。それをしなくて後悔しない?」

「でも、わたしにできることなんて……」


 俯くディータに微笑みかける。軍事的な知識もない僕に与えられる明快なアドバイスなど一つしかなかった。


「少なくとも一つあるよ」僕はできる限り軽々しくなるように、彼女へと告げた。「……肩を貸して欲しいんだ」

「……なにそれ」


 ディータは目尻から溢れた涙を拭い、呆れたように笑った。その仕草にはもうどこかに消えるような意志は見えず、僕は手を離した。「仕方ないわね」と彼女は一瞬の逡巡もせず、僕の左腕の下に潜り込んでくる。


「こんなの、気休めもいいとこよ」

「そうかな、だいぶ助かってるけど」本心からそう言い、僕はふとレカルタに訪れた夏の日の出来事を思い出した。「レクシナがさ、ああ、例の三人組の一人なんだけど、言ってたんだ……気休めは命を救うし、世界だって救っちゃうんだってさ」

「意味分かんない」


 僕はディータに体重を預けながら通りへと歩いていく。レカルタを東西に貫く通りは軍事施設が点在している。運がよければ荷馬車か何かに出会えるだろう。それを願いながら僕たちは進んだ。


「ねえ、レプリカ……わたし、こんな風に誰かに肩を貸したの初めてなのよ」

「ごめん、重いよね」

「ううん……重くない。重いけど、重くないの」


      〇


 運良く予備の武器を積んだ馬車に拾われ、城へはそれほど時間かけずに辿りつくことができた。門の前にいる衛兵はぼろぼろになった僕とディータの姿に言葉が出なかったようで間抜けに口をぱくぱくと動かした。

 城門の先にある庭園には多くの兵士たちがいて、喧噪があちこちでわだかまっている。僕もディータも有名人の一人として数えられるらしく、状況を把握できないのか、全員がいちように眉間に皺を寄せていた。

 立っているのも限界で、僕は近くにいた兵士にカンパルツォへの伝令を頼むと、その場に座り込んだ。芝の柔らかい感触が尻に広がり、ほっと息を吐く。


 今から戦争が始まるというのに場違いではあるが、緊張がほどけていった。周囲には勢い込んだ兵士の姿ばかりがあったが、城の中からは子どもたちのはしゃぎ声が響いてきている。まだ事態を把握できるほどの年齢ではないのだろう。もしかしたら、と思って耳を澄ませたけれどベルメイアの声は聞こえてこなかった。


「ニール!」


 その声に顔を上げると、思わず笑いが漏れた。

 いつでも頼もしい低い声をしているはずなのに、フェンの声は上擦っている。彼は僕の前まで駆け寄ってきて膝を突いた。よほど全力で走ってきたのか、胸が上下している。鼻先が触れ合うような距離でじっと見つめられると恥ずかしかったが、僕は視線を逸らさず、胸を張った。


「ただいま、フェン」

「……やったのか」

「うん」僕はディータを一瞥し、頷く。「ギルデンスは死んだよ」


 庭園を埋め尽くしていた喧噪が僕を中心に消え去っていく。誰もが驚愕に目を見開き、僕を凝視していた。


「フェン、僕、ちゃんと約束を果たし――」


 言葉が続かない。言いきる前に抱きしめられていた。フェンの腕は痛いほどに強く、僕の身体を締めつける。耐えきれずに身を捩ると、彼は謝罪して腕を放した。


「無事でなによりだ……」

「うん、だいぶひどい目に遭ったけどね」

「ニールちゃん!」


 上空から聞こえた声に顔が引き攣る。

 誰の声か、考えるまでもなかった。城の窓から飛び出してきたのはレクシナだ。彼女は風の魔法を用いて宙を滑り、あわや追突する、というところで地面に降り立った。「場所を考えろ」と叱責したフェンを突き飛ばし、レクシナは頭から飛び込むように僕へと抱きついてきた。


「危な――」


 い、まで言い切れず、僕はレクシナもろとも後ろへと倒れ込んだ。しかし、彼女は意に介した様子もなく、胸に顔を押し当てて来ている。漏れてきているのが涙声だったため、引き剥がすこともできない。


「よかったあ……帰ってきたあ……!」

「……レクシナ、ごめん、重い」

「うるさいなあ、もう!」


 レクシナは目尻を擦り、身体を起こす。笑っているのか泣いているのか判然としないほどに彼女の顔はくしゃくしゃに歪んでいて、どれだけ心配してくれていたのか手に取るように分かる。そのせいで「どけてくれよ」と頼むことも難しい。レクシナは馬乗りになったまま、隣で所在なさそうに立っているディータへと視線を向けていた。


「ねえ、ニールちゃん……この子が、その、転移魔術師の子?」

「ああ、うん、そうだよ」

「へえ」


 重みが消える。ぴょんと跳び上がったレクシナは初対面の緊張などおくびにも出さず、ディータを抱擁した。狼狽したのはディータの方だ。いきなり抱きしめられるなどとは考えていなかったのか、手をばたばたと動かし、慌てふためいている。


「えっと、あの」

「よくがんばりました」

「え」宙を叩いていたディータの手が止まる。「がんばった、って……?」

「事情はよく知らないけどさ、大変だったんだよね? いっぱい我慢したでしょ?」


 我慢、とディータは蚊の泣くような声で呟いた。まるでその単語を初めて聞いたかのように、彼女は何度も繰り返す。赤く腫らした目から再び涙がこぼれ落ちる。彼女は糸が切れたかのように、レクシナにしがみついたまま大声で泣き始めた。


「え、あれ、ねえ、あたし変なこと言った?」と困惑するレクシナを横目に、僕はフェンに腕を引かれて立ち上がる。

 やはりレクシナはすごいな、と感心せずにはいられない。僕に断ちきれなかった鎖を彼女はいとも簡単に切断してしまう。他の人にはない、特別な力のようにも思えた。


 にわかに騒然とした庭園に再び人が増える。ヤクバとセイクが駆け寄ってきていて、その後ろにはカンパルツォとウェンビアノがいた。

 ヤクバとセイクは僕の前に並び、無言で拳を突き出してくる。それが何を意味するか、悩むこともなかった。僕は掲げられた拳に、自分の拳を合わせる。骨がぶつかる硬い感触は生の実感をさらに深くさせた。


「ニール」彼らの後ろから抑揚のない声が飛んでくる。ウェンビアノは直立したまま、僕から目を離さない。「よく帰ってきた。今、治癒術士を呼んである。ゆっくり休め」

「大丈夫ですよ、傷は治ってます。血は抜けちゃってますけど」

「なら、レングさんを宥めたのは正解だったな。今のお前だと吹っ飛んでいたはずだ」


 ウェンビアノの頬が緩む。つられて僕も笑い、それから、隣で必死に自分を抑えているカンパルツォに視線を移した。

 熊のような体格をしている貴族は瞳に涙を滲ませ、唇を噛みしめている。


「……ニール、おれはお前を誇りに思う」

「カンパルツォさま、ありがとうございました。ようやく、ご恩を返せた気がします」

「馬鹿者」そう言って彼は笑みを浮かべた。「まだまだ足りん。もっと、もっとだ。おれが死ぬまでは付き合ってもらうぞ」


 カンパルツォの言葉からは嘘の気配しか感じず、僕もそれに付き合うことにした。大袈裟に諸手を挙げ、「そんなあ」と嘆いてみせる。満足げに目を細める彼の表情に、なんだか幸福な気分になった。


     〇


 振動に身体が揺れる。戦地へと向かう馬車は最近乗っていたものの中ではいちばん粗雑な作りで、地面の凹凸が直に伝わってくるようでもあった。

 カンパルツォや国王の出発に併せ、僕も一緒に城を発った。「任せろ」だとか「休め」だとか、皆は僕の体調を心配していたけれど、今さらのうのうとベッドで寝ていられるはずもなく、押しきる形でカンパルツォの馬車に同乗することに成功した。

 許可を出したのは他ならぬカンパルツォだ。苦渋の決断というような雰囲気がありありと醸し出されていたが、「アシュタヤに会いたい」と伝えると彼もそれ以上僕を押しとどめることはしなかった。


 とはいえ、疲労が限界に近づいているのも事実で、僕は狭い馬車の中、横になり、目を瞑っている。カンパルツォの他にもフェンとエルヴィネが乗っていたが、彼らは一度労ったあとは、眠るのを促すかのように何も言わなかった。

 併走する無数の馬車の中にはヤクバやセイク、レクシナが乗るものもある。そこにはディータも一緒だ。彼女はカンパルツォが何か言う前に戦場に赴くことを志願した。気持ちを汲んだのか他に考えがあるのか分からないが、カンパルツォは即座に許可を与え、ディータを城に残すことはしなかった。

 馬車は一定の速度を保ち、進んでいく。先に戦場予定地付近で準備をしているアシュタヤたちに追いつくには一時間ほどかかるらしい。その時間の長さに僕の疲労は痺れを切らし、意識を暖かな暗がりへと誘った。


     〇


 懐かしい温度が顔に触れているのを感じた。少しひんやりしていて、柔らかい感触。なんだか起き上がらなければいけない気がして、僕は薄く瞼を上げる。幌が日差しを遮っているおかげでまぶしさは感じられなかった。


「……おはよう」


 そばに座っているアシュタヤは優しく微笑みかけてくる。居ても立ってもいられず、僕は彼女の手を握った。


「ただいま」

「うん、おかえり」


 ぼんやりとしていた頭が次第に覚醒していく。馬車の外は賑やかさがあり、どうやらまだ戦争は始まっていないようだ。それに少し安心し、僕は身を起こした。「休んでなきゃだめ」と諭されたが、体調に問題がないことを強調する。アシュタヤは心配そうに眉間に皺を寄せたが、それほど間を置かず諦めたかのように嘆息を漏らした。

 幌の骨に背中を預け、深く息を吸い込む。誰が置いていったのか、そばに水筒があり、それに口をつけた。甘さとわずかな塩気のある液体は身体に吸い込まれていくようだった。


「そうだ」僕は大事な用事を思い出し、腰に手をやる。「アシュタヤ、手を出して」

「なに?」


 僕は彼女の掌の上にラニア家の宝剣を載せる。


「あのときの約束、ようやく守れたんだ……今度は血で濡らさずに返せる」

「……もう、馬鹿ね」

「ありがとう……この短剣がなかったらきっと帰ってこれなかったんだ、きみには感謝してもしきれない」


 どういうことかアシュタヤは聞きたそうにしていたが語るのも憚られ、僕は話題を変えた。


「皆は? それにきみはここにいて大丈夫なの?」

「ついさっきここに来たばかりだから平気。本当はすぐにでも来たかったけど……私にもやらなきゃいけないことがあって、他の人はそっちに行ってるの」

「そっか……敵は? まだ戦争は始まらないの?」

「敵なんていないわ、ニール。戦争は始まらないの」

「え」耳を疑い、開け放たれた幌の向こうを見つめる。「でも」


 光の中にいるのは大勢のエニツィア軍だ。彼らは剣を持ち、槍を持ち、その目には敵を待ち受けているような覚悟の強さがあった。戦場へと赴こうとしている戦士の目だ。

 敵がいないというのは何かの比喩だろうか?

 疑問は口にせずとも伝わっていたらしい。アシュタヤは強い眼差しを僕に向け、静かに言った。


「何よりも……ニール、あなたがこうして帰ってきてくれたのが嬉しい。その気持ちは紛れもなく本当で、それがいちばんなんだけど、邪な私もいるの」

「回りくどいよ、アシュタヤ」焦れに焦れ、僕は急かす。「結論から頼む」

「戦争を止めるのよ」

「……止める?」


 言葉の意味は理解できたが、頭には染みこまなかった。

 自軍だけでもかなりの人数が動いている。オルウェダの率いる反乱軍もそれなりの規模を投入してくるだろう。武器と鎧で武装した心の質量は一度動き出したら障害物を抉りきるまで止まらないのだ。既に話し合いで解決できる段階にはない。


「アシュタヤ、何を言って……?」

「知ってるでしょ、私はエニツィア軍でも特別な立場なの。作戦の立案権も持ってる……って言っても地位はお飾りみたいなものだし、任せられたのはもっとも不必要な作戦で、厳しい条件もつけられたわ」

「ごめん、ちょっと待って、理解が追いつかない。アシュタヤ、きみは今から何をしようとしてるんだ?」

「だから言ってるじゃない、戦争を止めるの。始まる前になくしちゃうのよ」


 無理だ、と否定の言葉が出かかった。ぱんぱんに膨らんだ風船はもう割れている。一度割れた風船は元に戻ることはない。

 だが、僕はその否定をぐっと飲み込み、アシュタヤの灰色の瞳を見つめた。彼女は頷き、紙に書かれた文を音読するように、作戦を語り始めた。

 戦争を止める――それがどれだけ難しい問題か知っているだけに、アシュタヤの作戦は僕にとって確実で革新的なものとは思えなかった。不確定要素が多すぎて、本来ならば即座に却下される類のものだろう。

 だが、彼女はそんな馬鹿げた行動を本気で実行し、成功させようとしている。真剣な表情で説明を続けるアシュタヤの声に耳を傾けていると一つの疑問が浮かんだ。


 ――彼女はいつからこんな作戦を考えていたのだろうか。

 アシュタヤは他人を壊す力を持たない。

 だから、幼い頃から模索し続けていたのだろう。戦場の中で血を浴びたその日から、アシュタヤはぶつかり合う二つの塊を引き留める光景を夢想していたのかもしれない。

 きっとその夢があったからこそ、彼女は軍人であり続けたのだ。誰よりも戦いが嫌いなのにもかかわらず、作戦立案権を獲得するために効率的な軍隊運用の勉強まで行い、頭の硬い軍上層部を納得させるところまで至った。

 作戦の概要を語り終えると、アシュタヤは申し訳なさそうに朧気な笑みを浮かべた。


「上の人に判子を押させるには本当に苦労したの。城に行って何度も何度も説明して、頭を下げて、改善しての繰り返しでね……でも、その努力はちゃんと実った。つけられた条件もこうしてほとんど揃えることができた」

「それで……その条件ってなに?」

「……怒らないでくれる?」

「どうして僕が怒るのさ」


 アシュタヤは顔を俯ける。後ろ暗さがあるのだろうか、彼女はしばらく言い淀んだあと、ぎゅっと拳を握った。罪を告白するような面持ちで、彼女は口を開く。


「条件は二つあって……一つはギルデンスの死、少なくとも隔離で、もう一つはディアルタさまの奪取だったの……私、あなたを利用したと思われても仕方ないことをしたわ……ごめんなさい、ニール」

「なんだ、そんなことか」

「え」


 アシュタヤは呆けた顔を上げる。罵倒を受ける準備をしていたのかもしれないが、かといって僕に罵倒する用意があるはずもなかった。


「それってつまり、僕を信じてくれてたってことでしょ……絶対に戻ってくるって」

「……そうだけど、でも」

「きみはいくらでも僕を止めることができたんだ。確かにあの状況下では僕を送り出すしかなかったし、僕もギルデンスと戦うつもりしかなかったけどさ……負けると思ってたらきみは利用するなんてことも思えなかったんだよ。きみが信じてくれた、それだけで僕には十分だ。ありがとう、アシュタヤ」

「ごめんね、ニール……ありがとう」

「でもさ、きみに言った作戦、本当に成功するの? 不安要素が多いよ。たとえば……そうだな、交戦が始まったらその作戦は自動的に破棄される。後方の魔法部隊は範囲内に入ったらすぐにでも撃ち合いを始めるからだめなんじゃない? 敵だけじゃなくてさ……味方が撃ってしまったらそれこそ相手は止まらない」

「うん」アシュタヤは認める。「それがとても不安で、専守防衛に徹してもらうように根回しとお願いはしてあったんだけど……」


 そんな行動じゃ人は止まらないよ。

 その言葉が喉元まで出かかったとき、アシュタヤは眉を上げた。困惑と喜びが半々の、複雑そうな表情だった。


「それで止まるものでもないからどうにかしないと、って思ってたんだけど……想定外の事故が起こっちゃって」


 アシュタヤは膝立ちになり、荷台の端へと手招きしてくる。

 そこにあった光景と聞き慣れた声に僕の思考回路は停止した。開いた口が塞がらない。血生臭い戦場にはまったく似つかわしくないドレスとウェーブした栗毛。

 木箱の壇上にいたのは、城に避難しているはずのベルメイアだった。


「え、ちょっ、なんで、ベルメイアさまが」

「馬車に紛れ込んでたらしいの。ほら……ニールが一度城に行ったとき、騒ぎになったんでしょ? その隙に忍び込んできちゃったみたい。誰に似たのかしら」


 小首を傾げるアシュタヤに僕は呆れる。覚えていないとは言わせない。


「言っておくけど間違いなくきみだよ。セムークでアシュタヤがそれを教えたんだ」

「……そんなこともあったかなあ」

「で、ベルメイアさまは何してるの? さっさと連れ出して尻を何十発か叩いた方がいいんじゃない?」

「ベルはね、説得してくれてるの。あの子、妙に顔が広いでしょ? どうしようかと思ったけど頼っちゃった」


 少し考え、僕は噴き出した。

 エルヴィネとの会話の中で想像したベルメイアの姿が思い浮かぶ。馬車の外にあるのは僕の滑稽な妄想、そのままの風景だった。指示を飛ばすベルメイアと彼女の指示に従って動く軍人たち。想像が現実となったようで、おかしくて堪らなかった。

 ――ベルメイアはこの三年半で大人に、もっと言えば美しくなった。それに加え、弁舌の才にも秀でている。レカルタの隅の隅まで届くほどに彼女の名前と顔は知られていて、男性の割合がほとんどの軍人たちの間ではなおさらだ。

 ベルメイアなら血気盛んな兵士たちを丸め込むこともできるかもしれない。


 全員が全員、終始、専守防衛に徹している必要はないのだ。一人が壁を広げればそれだけで魔法を撃つスペースはなくなる。二人いればさらに、だ。アシュタヤの作戦を開始するだけの時間を稼いでしまえばそれでいい。


 笑うしかなくなってしまった僕の耳元で、アシュタヤは囁いた。「『生は安全な牢の中ではなく、危険な草原にこそある』……。あの子、昔、そんなことを言ってたけれど……いつの間にそれを正しい意味で使うようになったのかしら」

「たぶん……それもきみを見ていたからだ。カンパルツォさまも、だろうけどさ」


 生は危険な草原にある。だから、エニツィアの貴族は誰よりも前に出て人々を守らなければならない。ベルメイアはその教えを実行し、役割を果たしている。

 僕も役割を果たさなければいけない。

 だから、とても言いづらいことを口にする決心を固めた。


「……でも、アシュタヤ、この作戦は失敗する」

「え」

「人がどうして戦うか、知ってる? 人は希望のために戦うんだ。どれだけ壁を作ろうが、その先に希望があると盲信する敵兵たちは前に進むしかないんだよ。そうしなければ生きられないと思い込んでるから」


 僕の通告にアシュタヤは固まり、小さく口を動かした。「どうしてそんなことを言うの」と反論するようでもあり、「じゃあどうすればいいの」と窺うようでもあった。揺さぶられた感情を抑えつけるのに精一杯なのだろう、声にはなっていない。

 構わず、僕は続ける。


「とは言っても、僕はきみの作戦を成功に導きたい。こう言うと自信過剰に聞こえるかもしれないけど……僕ならその要素を消し去ることができる」

「……ニール、何をするつもりなの?」

「アシュタヤ、僕は『盾』なんだ……盾は誰よりも人の前に出る、そうだろ?」


 希望を求めて突き進む人々を押し返すにはどうするか――簡単だ。僕の方に向かってきたら生きていけないと思わせればいい。恐怖は人を縛る。

 僕はいつだってそうしてきた。ギルデンスは人々にまやかしの希望を与えてきたが、僕は違う。僕が握りしめていたのは恐怖だ。それがまやかしであろうと本物であろうと、堪えきれないほどの恐怖を与えれば敵の足は止まる。


 そのために今一度『化け物』レプリカに戻ろう。

 多くの罪を犯し、人々を恐怖に陥れた『化け物』に――。

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