125 人という獣
弧が生まれる。
〈腕〉は僕を中心に仰角三十度を維持して滑らかな円を描いた。
半径は十メートル。その範囲内に立つ樹木はすべて、斜めの切断面に沿って滑り、中心へと向かって倒れてくる。ドミノのように規則的に押し寄せてくる質量を〈腕〉で防ぎ、僕はその中央で蹲った。折り重なった木々に身を潜め、息を殺す。
ギルデンスが僕を目視するための作っていた水鏡は小さなものだった。
察知されないように最低限のものに抑えたのだろう。その分視界も狭まり、こうして木々を一斉に動かしてしまえば僕の姿は幹や葉に遮られて追えなくなる。
移動を続けている、普通ならそう考えるはずだ。その方が自然だし、もしここにいると疑ったところで地面は木に覆い尽くされている。水弾を連発できないならば、命中するまでに時間がかかる。
ギルデンス、お前ならどうする?
お前はその鋭い感覚で僕がここに留まっていると看破するだろう。しかし、正確な位置は把握できないはずだ。そのとき、お前はどう動く?
僕にはギルデンスの行動が容易に予測できた。彼は運に頼ることも、時間をかけて虱潰しに水弾を放つこともしない。取る行動はただ一つ――膨大な量の水を放ち、積み重なった樹木を一掃することだ。
だが、その決断をどれだけ素早くできる? 瞬時に判断したとしても、お前は僕の反撃を警戒して同じ場所に留まっていた。そこからここまで水が到達するのにどれほどかかる?
五秒か? 十秒か?
それほどの時間があれば――
僕はあらん限りの力を炎の魔法陣へとこめる。文様の中を駆け巡ったそのエネルギーは巨大な炎となり、内部にいる僕ごと倒れた木を焼いていった。極限まで高まった温度は一切の木々を燃料へと変えていく。
肌が爛れようと構わない。僕は一度『太陽』を堪えたのだ。内臓すら燃やすあの熱量に比べたら、僕の炎などちっぽけなものだ。
生まれた炎の中、〈腕〉で自らの身体を浮き上がらせる。上空で現在地を確認し、火の花弁を咲かせた木を繰り返し投げていった。炎が描く弧は広場の方向、そのさらに奥へも落ちていく。
――森は燃え始めた。
僕の周囲でもぱちぱちと踊る炎が広がっていく。振動とともに襲ってくる水の塊をいなし、火を守った。立ち上る煙が治まる気配はない。
これで準備は整った。
臭いでおおよその位置を把握し、僕は〈腕〉を身に纏う。景色が矢のように過ぎ去っていく。熱い空気は水分が多く含まれていて、湯をかけられているような感覚がした。
ギルデンスを視界に入れるまで十秒もかからなかった。
小さな水弾が左肩を貫く。痛覚が爆ぜる。僕は止まらない。跳躍し、地面だけではなく、枝や幹を足場とした。かつて戦ったフーラァタのように、縦横無尽に動き、狙いを拡散させ、徐々に距離を狭めていく。
ギルデンスは顔を歪めている。攻撃が点から面へと移行する。押し寄せてくる水の壁はその質量で木々をなぎ倒して迫ってくる。舞い上がって壁を躱した僕は、すぐさま〈腕〉で身体を叩き落とした。水の弾丸が上空を貫く。水弾は燃えさかる火を反射して、赤い軌跡だけを残して消えていった。
着地の衝撃で泥がばしゃりと跳ね上がる。
空気が止まり、音が消える。
僕とギルデンスの間に根を張っていた樹木の群れはへし折られ、流されている。目前に広がっているのはどこまでも空虚な森のうろだった。
それは僕の間合い。大勢の人が倒れた、凄惨な十メートル。
この世でもっとも鋭利なもの――僕はそれを想像し、〈腕〉を細く細く尖らせる。放たれた水弾が右胸に風穴を開ける。しかし、痛みは脳まで届かない。
「ギルデンス!」
上昇した温度は靄を消し、空気を透明にしている。もうギルデンスは僕の〈腕〉を見ることはできない。お前の反応がどれほどのものか――
――躱せるものなら躱してみろ!
運動エネルギーの先端は空気を抉り、呆気なくギルデンスの皮膚へと接触した。極限まで小さくなった点に圧力が加わり、皮膚が弾ける。肉を掻き分け、内臓を貫いた僕の〈腕〉は背中まで到達したところで止まった。
――躱された。
僕の〈腕〉は確かにギルデンスの腹部を貫いている。だが、そこは狙った位置ではなかった。中央から右にずれた脇腹、そのぎりぎりの位置に突き刺さっている。
身体を捻って致命傷を回避したギルデンスの、鋭い眼光が僕を捉えている。
危機感が脳を串刺しにした。
横に薙げば胴体を引き裂ける、そう考える暇すらもなかった。ギルデンスは向かって左へ跳び、自ら腹の肉を切り裂いた。
水の槍が迫る。伸ばしきられた〈腕〉が戻ってくるより早く、僕の胸に穴が空いた。衝撃に引きずられ、体勢が崩れる。気道に紛れ込んだ血液が呼気とともに口から噴き出る。歯を食いしばって、窒息感を堪えた。
ここで決めるんだ。
だが、倒れ込みながら追撃を放とうとした瞬間、視界が揺らいだ。血液の臭いや燃える木々の臭いよりも強く、激昂を感じた。意識が引っ張られる。
ギルデンスの中に入り込んだのはほんの一瞬の出来事だった。隙にすらならない一瞬だ。しかし、僕の脳はたったそれだけの情報量を処理することができなかった。
舞い上がる木の葉、宙に舞う血液、僕の視界で見える〈腕〉はギルデンスの視界では存在しない。炎が揺れ、飛沫となった水がそれを反射している。
攪拌された視界は内臓を抉るよりも強く、脳を揺さぶった。激痛が頭蓋骨を粉砕し、鼻血が噴き出す。弾けた思考の中では槍を維持することができず、僕はせめてもの抵抗として〈拳〉を握って振り回した。のたうち回る蛇の頭がギルデンスの身体を吹き飛ばす。
同時に彼が放っていた攻撃が僕に直撃した。点ではなく面の攻撃。水の壁に弾き飛ばされた僕は木に衝突し、くずおれる。必死に瞼を開けたが、ギルデンスの姿は視界から消え失せていた。
どこにいる?
臭いを嗅ごうとしたが、僕の頭蓋はその痛みに耐えることができない。辛うじて分かったのは再び距離が空いてしまったことだった。
ギルデンスは上手く木との激突を避けたのだろうか。もしくは偶然か、距離と方向に鑑みると彼が行き着いたのはおそらくあの広場だと察しがついた。
立ち上がり、治癒魔法陣にエネルギーを送り込む。支障なく発動した魔法は負傷を癒やしていったが、締めつけられるような頭痛は治まらない。
火傷の影響で上昇する体温、修復を自覚しない傷、苦しみは皮膚の内側で乱反射する。肺が酸素の交換を放棄したかのように息苦しく、心臓が早鐘を打っている。流れすぎた血液の代わりに靄が入り込んだみたいに、視界に曖昧模糊とした白い煙が浮かんでいた。
それでも、僕の足は動く。本能とも言うべき衝動に突き動かされ、僕はギルデンスを追った。
辿りついた広場でギルデンスは僕を待つかのように直立していた。治療をしているのか、腹に右手を当てている。
ああ、そうだ。考えるまでもなかったじゃないか。彼は不死身ではない。痛みもあれば苦しむこともある。その引き攣った表情がすべてを物語っていた。
もし不死身なら僕の攻撃への対策などしてこなかったはずだ。力の差を見せつけるためだったとしてもこんな状況になるわけがない。
「……ギルデンス」
僕の言葉は声になっていただろうか、それすらも判然としなかったが、ギルデンスは笑みを作り、息を吐き出した。
「決着をつけよう……ニール」
彼は腹部から手をどける。僕は目を瞠る。
彼の腹は漏れ出した血液でぬらぬらと赤く光っていたが、そこに傷は存在しなかった。裂けた衣服だけがその痕跡となっている。僕の魔法陣よりも修復速度が速いかもしれない。その事実に唇を噛みしめる。
「化け物め……」
不死身ではないのだと自身に言い聞かせるが、深層心理は耳を塞いだ。確信は容易く揺らぎ、疑念へと変質していく。
ギルデンスは本当に人間なのだろうか。
人の皮を被って生まれた、戦いを食って生きる化け物なのではないか?
即座に塞がる傷、無限とも思える魔力、肉体は精密に動作し、感覚器官はあらゆるものをつぶさに感じ取る。狂人などではなく、まったく別種の生物に思えてならない。人でもなく、魔獣でもなく――
――待て。
足を止める。頭の中の霞が消える。世界は停止し、僕の意識は暗闇の中に放り出された。
僕は馬鹿か。今見た光景が何だと思っている。
ギルデンスは腹に手を当てていた。右手だ。治癒魔法陣が刻まれている、右手。血液の流出を止めるためか? それもあるだろう。だが、もっと単純で合理的な答えがある。
彼はその右手で治していたのだ。
どこを?
閃光が僕の全身を包む。記憶の小爆発が連鎖する。
僕の意識は三年以上前、初めてギルデンスと対峙した瞬間へと移動していた。
あらゆる彼の嘘――そこにあるただ一つの綻び。
バンザッタの堀で戦ったとき、僕は確かにギルデンスの左腕の骨を折った。だが、起き上がった彼は何事もなかったようにその腕でローブに付着した砂埃を払ったのだ。
そうだ、彼は負傷をほとんど一瞬で癒やすことができる。先ほど腕を治したときもそうしていたはずだ。
なのに、なぜ、腹の傷は僕がここに辿りつくまでに治っていなかった?
その時と今の違いは何だ?
あるいは――意識は伝え聞いた話の中で彷徨い始める。
ギルデンスが初めてエニツィアの歴史に出てきたのは十五年前の小規模な武力衝突のときだった。単独で敵軍の野営地を襲撃した彼は、無傷で全滅せしめたという。彼がその身に魔法陣を刻んだのはそのあとだ。
どうやって刻んだ? もし彼の身体がすべての傷をたちまち治すのだとしたら傷を刻むことなど出来はしない。つまり、彼は治す傷と治さない傷を区別し、自分の意志で修復すべきか否か選択していることになる。
もしその力が僕のあずかり知らぬところにある技術であるならばもう打つ手はない。だが、この現象はすべて魔法で説明することが可能なものだった。
魔法であるならば彼が駆使しているのは魔法陣だ。詠唱を省略し、意志のみで発動する奇跡。深い傷をほんの数秒で治癒するには複雑で大きな魔法陣が必要になる。
その面積を狭める方法が一つ、存在する。
立体魔法陣――立体で構成された魔法陣は平面に描かれた魔法陣よりも強い力を発揮するのだ。
そして――魔法陣は何から生まれた?
「魔獣の、身体……」
魔獣はその内臓配置により魔力を魔法へと変換する。
決して他人の目に触れることのない、生物の身体でもっとも広大な空間。もしギルデンスの内臓が魔法陣としての効果を発揮していたとしたら、すべてが繋がる。
今とバンザッタのときの違い――それは内臓を損傷しているかどうかだ。
「ほう」
ギルデンスの感嘆で我に返った。彼は嬉しそうに目を細めている。
「驚いたぞ、ニール。そこに辿りついた人間は初めてだ」
「お前は、人じゃ……ないのか」
「いいや」ギルデンスは首を振る。「私は人間だ。人と人との間に生まれ、人に育てられた……何の因果か、腹の中身が歪んでいただけだ。その証拠に血を分けた兄たちには私のような力はない」
ギルデンスは先天的に体内に魔法陣を宿していた。だから魔法陣を身体に刻んでも狂わなかったのだ。フェンや炎剣のように、高まる余地のある獣性など初めから存在してなかったから。
冷や汗が背中を流れる。
彼はその特別な身体に様々な魔法陣を重ねたとき、どんな思いだったのだろうか。治癒魔法陣という逃げ道があるにも関わらず、それを使わない心境など僕に推察することなどできやしなかった。
「何が……何が人間だ! お前は理性があるだけの獣じゃないか!」
「では訊くが……」ギルデンスは表情を変えず、静かに反駁した。「人としての身体を持って生まれなければ人ではないのか? ならお前も同じのはずだ。お前には他人には見えない腕がある。おそらくアシュタヤさまもそうなのだろう? あの力は魔法では説明がつかない」
僕は反論できない。
――ギルデンスが「似ている」と言った本当の意味。
僕もギルデンスも、そしてアシュタヤもこの世界の人間とはどこか異なっているのだ。超能力と魔法という違いはあれど、僕たちは生まれたときから他人とは違う力を宿して存在している。
それを人ではないと断言することはできなかった。彼を否定することは僕だけではない、アシュタヤをも否定することへと繋がるような気がしてならなかった。
「人間とは」
ギルデンスは続ける。
「人間とは精神だ。人であり続けようとする限り、我々は人間でいられる。人間だけではない、馬は馬であろうとし、猪は猪であろうとする。……国も同じだ。国は国であるために人間の精神をねじ曲げ、一つに統合する。なのになぜ、お前たちは国に迎合する? 獣ですら己の領分を理解しているのに、どうして人がそれをできない?」
人だけが自然の摂理に反しているのだ、ギルデンスは迷いなくそう言った。
天敵を慈しむ動物など人間だけだ、と。
「……私にはお前たちの考えが何一つ理解できない。どうして人間であろうとするお前がそれを阻害するエニツィアに与する? それはあまりに美しくないあり方だ……」
「違う!」
「何が違う」
「国は……エニツィアは」もはや理解も納得もしたくなくて、僕は力の限り叫んだ。「人の……善くあろうとする意志だ! ねじ曲げようとなんてしてない!」
「気がついていないだけだ。始まりの平原を発ったエニツィアが終わりの森で山呑みの蛇を殺したとき、この地のすべてはねじ曲げられ始めた。愚かな者どもは歓喜し、騙され、嘘の藁の上で眠り始めた。時代が流れる中、あらかじめ自己を消し去られた人間たちは己が人という獣であることも忘れてしまっている……私はそれを元に戻すだけだ」
「違う、ギルデンス、お前は間違ってる! 人だって獣だって寄り添い合うのが普通なんだ。お前が、お前だけがそこから外れている……違う生き方だってあったはずなのに!」
同情などなかった。怒りだけが間欠泉のように噴出する。
ギルデンス家の評判は耳にしている。長兄は領主としてこの地で、次兄はレカルタで、各々エニツィアに尽くしているのだ。きっとギルデンスもまた、貴族としての教育を受けてきたに違いない。
なのに、なぜ。僕は拳を握りしめ、彼を睨む。ギルデンスは薄ら笑いを浮かべるばかりで、一切の悔恨や寂寞を表さなかった。
「結局……我々は分かり合えないのだ。お前には私の言葉は意味をなさないし、私にはお前の言葉は響かない。語り合えるとしたら力のみだ」
ギルデンスの魔法陣が発光する。宙に生まれたのは水弾ではなかった。
巨大な腕。水で作られた腕は僕のものととてもよく似ていた。高いエネルギーが駆け巡っているのが分かる。表面に触れた泥は猛烈な水流に飲み込まれ、溶けていった。
近接戦闘のために隠し持っていた、最後の武器。
広場の周囲ではどんどん火が燃え広がっている。その光を映し出したギルデンスの腕は赤々と輝いていた。
僕も〈腕〉を展開する。若草色の光が爆散し、収束した。誕生した瞬間から僕とともにある〈腕〉。
「ディアルタからお前の力を聞いたときは感慨深く思った……我々は同じところに行き着いたらしい。お前は治癒魔法を獲得し、私は腕を作り出した。……さあ、ニール、これで終わりだ」
「……ああ」
「楽しい時間だった……今、私はかつてなく研ぎ澄まされている」
僕は構える。もうギルデンスとの間に壁は一つもない。治癒魔法陣が刻まれた右手を切り落とし、彼の心臓を突くだけ、それで決着がつくのだ。
〇
水の腕から分離した水弾が襲いかかる。それを弾き、ギルデンスへと接近する。だが、距離は簡単には縮まらなかった。
僕は一度離れ、広場の外周で火の花を咲かせている木を切り取った。地面に触れる前に掴み、ギルデンスへと投擲する。回転する樹木は火の粉を散らし、ギルデンスの水の腕に飲み込まれていった。
水流の中で踊るその木は勢いそのまま、僕へと返ってくる。走りながら幹を掴み、棍棒として右に浮遊していた水弾を押しつぶした。〈腕〉を戻し、左から迫ってきていた次の一撃を身体に触れる寸前で防御する。
一拍遅れて、振動が轟いた。〈腕〉に引き摺られた針葉樹が僕とギルデンスの間に落ち、低くバウンドしている。燃え損ねた葉でギルデンスの姿が覆い隠される。僕は彼の位置をサイコメトリーで確認し、跳び上がった。脳が揺れる中、〈腕〉を操作する。宙を走り、着地した地点は十メートル、放たれた水の弾丸を躱した。
感覚が閃く。〈腕〉を後ろに展開すると同時に衝撃が加わった。五発目の水弾だ。攻撃を防がれたことも厭わず、ギルデンスは水の腕を振り下ろした。
僕の〈腕〉と彼の水の腕が衝突する。エネルギーの余波が地面に生えた草を揺らす。
僕とギルデンスの力はほとんど互角で、どちらかの腕が弾き飛ばされることはなかった。押し切れない感覚に右へと跳びはね、すべてのエネルギーを炎の魔法陣へと送る。
視界の中央で巨大な炎が爆ぜた。
ギルデンスの姿は見えない。だが、彼が左へと移動しているのが分かった。その先に狙いをつけ、槍と化した〈腕〉を突き出す。
直撃だ――その確信は壁となった水の〈腕〉に阻まれ、僕の元に届くことはなかった。
水流が〈腕〉の運動エネルギーを削りとっている。ギルデンスの身体に触れることができない。
もっとだ、もっと強く!
僕はそう強く念じ、〈拳〉を握り込んだ。一撃にすべてをこめ、ギルデンスの水腕を破壊する必要がある。それができるだけの出力がいる。奥歯を噛みしめ、地面を蹴った。水弾を構成する余力すら惜しいのか、それとも意味がないと判断したのか、ギルデンスもまた僕のもとへ向かってきていた。
これで、終わる。
その不思議な予感に僕の心は静寂に取り込まれていった。
距離はあっという間につぶれていく。十メートルが五メートルになり、それに伴い、僕とギルデンスは同時に〈腕〉を圧縮させた。限界まで密度を高めた二つの〈腕〉が直進を始める。衝撃に備え、身体を強張らせる。
肉迫し、間隔が消えた。肉体の腕と同程度まで凝縮された僕たちの〈腕〉が衝突する。
――今だ。
全身を緊張させる。
赤い〈腕〉と若草色の〈腕〉は均衡し、動きを止めた。どちらかが弾き飛ばされたり、雲散することもなく、びりびりと空気を振るわせて拮抗したまま――
僕の身体に衝撃が走った。
〇
呻き声が漏れる。
視界の端に黒い物体が映っていた。それが何なのか、僕は知っている。黒鉄で作られた筒――武器にも防具にもなる、ギルデンスの「兵器」。
その衝撃に僕は膝を曲げる。
……いつ拾ったのだろう、とは考えなかった。僕が森へと逃げたあのときだ。今、ギルデンスの右手に握られている黒鉄は一度僕が奪い、手を離してしまったものに違いない。
追ってくる前に探す時間は十分にあったはずだ。
僕は体勢を低くしながらギルデンスの目を見つめる。
彼の目は驚愕に剥かれている。
その視線の先には黒鉄と――それを受け止めている短剣があった。ロディから貰った短剣は黒鉄の硬度と衝撃に耐えている。痺れる掌に内部で亀裂が生じた感覚が伝わったが、それでも、彼の短剣は折れずに持ちこたえてくれた。
低い体勢のまま、一歩、踏み出す。短剣は静止した筒の上を滑り、ギルデンスの親指を落とした。噴き出した血が顔にかかる。そのまま身体を沈め、刃先を彼の腹部へと当てた。
周囲で燃えさかる火炎、ナイフの煌めき。
柔らかな感触がナイフから僕の肌へと伝播する。思い切り体重を乗せると刀身がすべてギルデンスの中に埋まった。横に薙ぐ、短剣が折れる。置き去りにされた刀身と肉の隙間から血液が飛び散った。
水の腕が溶ける。
解放された僕の〈腕〉は空気に研がれ、刃となり、ギルデンスの右手を切り飛ばした。
倒れざまに放ってきた彼の蹴りが僕の腹にめり込む。僕は横に転げ、ギルデンスは後方へと倒れこむ。
だが、それだけだった。
不思議な静けさが広場の中に沈み込んでいた。
僕は身体を起こし、ギルデンスを見下ろす。彼の口からは血が漏れ、目の光は死の影に淀んでいた。
「……僕の勝ちだ、ギルデンス。お前の歪んだ夢も、今、終わる」
刃とした〈腕〉を掲げ、彼の心臓へと近づける。だが、その瞬間、笑い声が響き、僕の身体は硬直した。ギルデンスの哄笑が森の中に満ちる。
一瞬の油断――彼は自身の身体を水で弾き飛ばし、距離をとった。
十メートルほど離れた場所で彼は膝を突く。傷は治癒していない。手首からは絶えず赤い液体が滴り落ちている。
「……私の負けのようだな……、命が流れ出ているのが分かる……」
僕は一歩、ギルデンスへと歩み寄る。
最後の一撃――黒鉄製の筒での攻撃を防いだのは偶然ではなかった。
サイコメトリーで彼の内部に入り込んだ際、僕の意識は彼の背中に冷たい硬さを感じていたのだ。その正体に確信を抱いたのはサイコキネシスで彼の腹を貫いたときだ。
あれだけ苦しめられた黒鉄特有の感触を忘れるわけがない。彼の背中の皮を破ったところで掠めた黒鉄の手触りは、ギルデンスの嘘を僕に伝えていた。
「……もう動くな。とどめを刺してやる……お前に逃げ場はない」
「確かに、最悪の、状況だ」ギルデンスの口角は上がっている。彼はまるで死を楽しむかのように穏やかな息を吐き出した。「だが……死してなお、私の夢は終わらん」
「……終わらせるさ、なにもかも」
ぐらりとギルデンスの身体が揺れた。彼は立ち上がり、血を吐き出したが、その目は一点、僕から離れなかった。
「今はまだ分からんだろう……だが、いつか気付くときが来る。私が仕込んだ毒はいつかエニツィアの全身に巡る。その時を冥府で待つことにするぞ……」
彼の言葉に僕は笑った。おかしくて、笑みを堪えることができない。
「……ギルデンス、残念だけどそうはならないよ。お前の言った毒は僕のことだろう?」
ギルデンスの動きが止まる。それだけで予想が的中したことを悟った。
「『雷獣』と『呼び水』を殺した僕の名前はきっとエニツィアで轟く。炎剣が僕たちのもとに来たのもお前の差し金だったんじゃないか? フェンを排除する狙いもあったんだろうけど……本当の狙いは名のある人間を僕に殺させるためだった……違うか?」
それに僕には貴族を殺したという事実がある。ギルデンスがその確証を掴んでいるかどうかはわからないけれど、些末な問題だ。市民たちが姿のない化け物と僕を重ね合わせてしまうだけで種は芽吹き始める。その虚構はいつかより確かなものになって街道を闊歩するだろう。
人はよい噂よりも悪い噂を信じる。それが当たり前の反応だ。己の身と心を守るために人々は最悪を遮ろうとする。
しかし――。
「――ギルデンス、一つ教えてやる。僕はこの戦いが終わったら死刑台の上だよ。そうすればお前の毒はエニツィアには回らない。死によって僕の存在は許されるんだ」
僕の宣言に、ギルデンスは小さく身体を揺らした。腹の底から響く笑い声に滲んでいるのは諦めの色だろうか。彼は一頻り笑い終えると長く細い息を吐いた。それだけの動作ですら身体が耐えきれなかったのか、ぐにゃりと膝が折れ曲がった。
「なら」とギルデンスは呟く。「なら、なおさら、ここで、勝たねばならんな……」
弱々しい水の腕を広げたギルデンスは一歩踏み出してくる。
僕は構え、〈腕〉を槍に変える。
突き出された一撃はこれまででもっとも美しい直線で、水を飛沫と変え、彼の心臓を串刺しにした。
ギルデンスは前のめりに倒れていく。地面へと伏せようとした間際、低い声が聞こえた。幻聴かとも思えるほどの小さな声が空気に染みこんで、消えた。
「人間は……どこまでも、愚かだ……」
「……そうだよ、愚かで弱いから……みんなで生きてられるんじゃないか」
燃えさかる火炎に木々が崩れていく。
エニツィアで生まれた化け物、あるいは狂人、メイゼン・ギルデンスは炎の中に飲み込まれていった。
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