124 あらかじめ消え去りし自己

 頭の中に過ぎっていたのはカンパルツォや国王から下されていた指示ばかりだった。

 敗北を選ぶな、勝ち目がないのなら逃げろ。

 僕は彼らの優しさに縋って森の中を走った。本当に避けなければならないのは敗北ではない、エニツィアの灯を絶やすことなのだと自分の行動を正当化し続けた。

 きっとみんなも許してくれるはずだ。逃げてもいいって言ったんだから。

 ギルデンスからの攻撃はなかったが、追われている確信はあった。恐怖から来る幻影ではなく、今まで戦い続けてきた『化け物』の感覚として、彼の影をはっきりと感じた。


 ……『化け物』?

 何が化け物だ! 僕は超能力があるだけの人間じゃないか! ギルデンスこそが本物の化け物だ。人間である僕が、ギルデンスに敵う理由など何一つ思い浮かばなかった。


 足が重い。

 今さら「人間であること」を自己弁護に使う浅ましさに嫌悪感が湧きあがった。醜い感情から目を逸らすために、僕はあらゆる拙い弁明を思い浮かべる。


 傷が軋むから完全に治癒する時間を稼いでいるだけ。

 無策では勝てないから距離を取っているだけ。

 逃げろと言われたから逃げているだけ。


 一つ、言い訳を思い浮かべるたびに、一つ、僕は大事なものを失っていく。

 強さとか自信とか胸の中央にあったはずのかけがえのないものがこぼれ落ち、いつの間にか僕はこの世界に飛ばされる前の自分とほとんど変わらなくなっていた。

 あの世界は平穏だった。

 怒りが腹の底で渦巻いていても反抗しなければ暴力はやがて終わった。誰にも期待せず、誰からも期待されなければ、失望することもされることもなかった。十平方メートルに満たない簡素な寮の部屋で膝を抱えていればすべての嵐が過ぎ去っていったのだ。


 地面を蹴る振動は上塗りし続けた尊いメッキを剥がしていく。

 そのメッキこそが何よりもずっと価値のある美しいものだと知りながら、僕は足を止めることができなかった。

 轟音が鳴り響く。ギルデンスの放った水弾が直撃したのだろうか、前方左、二メートルほどの空間にある木々がへし折れ、目の前に倒れてきた。ひっ、と情けない、上擦った声が漏れる。足がもつれ、僕は無様に転倒した。

 右の腰に鈍い痛みが染み、呻き声が漏れた。舞い上がった木片が背中に降り注ぎ、何度も跳ねる。

 背後にある圧迫感は接近を続けていて、恐ろしさのあまり、這々の体でそばに生えている木にしがみついた。何とか身体を起こし、漂ってきた怒りの臭いに震える。今まで感じたことのないほどの悪臭が頭蓋の内部で滞留していた。


「……僕は、僕は全力で戦ったんだ、勝てないから逃げるのは当然じゃないか」


 ああ、誰に言い訳しているのだろう。情けなさに視界が歪む。身体は構わずに一歩踏み出している。

 そのとき、かすかで柔らかな音が鼓膜に突き刺さった。

 足下、朽ち葉の上に何かが転がっている。どこまでも白く、清浄な鞘――横たわっているのはアシュタヤの短剣だ。逃げるなら拾っている暇などない。逃げるなら……。


 それは、僕から滑り落ちた最後のメッキだった。

 身体が硬直している。すべてが停止した世界の中で白く美しい短剣は僕に「早く逃げて」と囁いている。生きていればやり直せるから、と。

 それは疑う余地のない事実だ。命さえあればいつか願いが叶う日も来るだろう。逃げるべき事態というものは存在する。それで何かを守ることができるならば恥じることも悔やむこともないはずなのだ。

 けれど、足は鉛のように重く、動かない。胸の中で弾けた小さな疑問が僕に問いかけてくる。


 逃げて得られるものは失うものより大切なものなのだろうか?


 すべてを放り投げた先で得られるものなど分かりきっていた。

 僕の命ではない。僕の命は目の前に転がっている短剣で、得られるものは何もかもを諦めていた頃のニール=レプリカ・オブライエンでしかないのだ。手に入れられるはずだったものに手を伸ばさず、失い続けていた頃の、僕。

 恐くて堪らなかった。

 ギルデンスも、死ぬことも、逃げることも、大事な人たちを見捨てることも、なにもかもが僕の心を食いちぎっていく。

 呼吸が荒くなり、胃が収縮する。遠くで水弾が弾ける。


 ――かつて、僕は空っぽだった。

 ニール=レプリカ・オブライエンなんて人間は風に吹かれれば飛ばされるほどに軽かった。内臓の代わりに身体の中に詰まっていたのは風船で、血管を流れていたのは水素よりも質量がない気体だったのだ。

 周囲から浴びせられる罵詈雑言の嵐は容易く僕を人の輪から浮き上がらせ、針のような視線は自尊心だとか夢だとか、そういったものを破裂させた。

 僕がいたところで世界の質量は増えない。

 じゃあ、どうして―― 


「――どうして、僕の足はこんなに重いんだろう……」


 考えるまでもない。答えはあまりにも単純な事実だった。

 身体が重いのは逃げてはならないことを知っているからだ。

 一粒の涙が目尻からこぼれ落ちる。僕は拳を握り、震える腕を押さえつけ、静かに息を吸った。身体の内側に清新たる空気が入り込み、脳の中で起きていた不完全燃焼が確かな炎へと変わっていく。

 みんなは僕に「逃げていい」と言った。だが、違うのだ。逃げて生き長らえたとしても、残されているのは死んだように生きる道だけだ。僕はその辛さを知っている。

 生きながらにして腐敗し続けていた十七年間の記憶は恐怖さえも腐食させていった。


 もう空っぽになるのはいやだった。

 僕はアシュタヤの短剣を拾い上げ、ギルデンスの怒りが漂う方向を睥睨する。

 敗北は罪ではない。全力を出したならばきっと敗北は罪悪という地平から解き放たれる。

 そして――僕はまだ全力を出し切っていない。ギルデンスの把握していない力がまだ残されているのだ。


     〇


「お前は、あらゆるものから自由だ」


 バンザッタでジオールから送られた言葉をふと思い出していた。

 あれから三年が経っている。僕は今になってようやく、その本当の意味が分かった気がした。あらゆるもの――それは物質的な意味合いも、他人に与えられた精神的な束縛という意味合いもあるのだろう。だが、それ以上に僕を縛り付けている存在がいたのだ。

 重要なのは自分自身、とジオールはそうも言った。

 僕を檻の中に閉じ込めていたのは僕自身だった。

 理想と現実、諦念、それらの小賢しい思い込みが超能力を阻害し続けていたのだ。一つしか力を使えない。超能力はサイコキネシスだけ、魔法は治癒魔法だけ。


 そんなルールなど初めから存在しなかった。

 幸福な自虐に身を委ねるために重ね続けていた嘘。それらしき決まりに縛られていると思い込んでいれば自分の弱さや努力不足を正当化できたから、僕は己を騙し続けていた。

 ――そんな程度の低い自嘲を繰り返すのはやめよう。

 僕は治癒魔法を使えるようになる前に火の魔法を手にしていた。そして、時折発動していた別の超能力――サイコメトリーに至ってはこの世界に来る以前から僕の身に宿っていたのだ。


 怒りの臭い。

 アシュタヤの言ったとおり、その嗅覚は僕の超能力によりもたらされたものなのだろう。〈腕〉や〈肌〉、あるいは〈目〉や〈耳〉という仮想器官が存在するのなら〈鼻〉があることに何の不都合もない。

 彼女は心に形があると言った。人の精神を別次元上にある物質として解釈すればそこには臭いのもととなる微粒子が存在する。だから、僕のサイコメトリーは三次元上の物質に触れる必要がない。初めから対象と接触を続けているからだ。

 もっと、もっと上手く扱ってやろう。僕の限界はまだ先にある。頼りない力だけど、反撃のきっかけにはなるかもしれない。

 目を瞑り、集中する。ゆっくりと呼吸し、木と土の香りを吸い込んだ。肉体の外にある嗅覚器官を意識し、怒りを探る。

 そして怒りの臭いを嗅ぎ取った瞬間、僕の視界が裏返った。


 遠く、木々の合間に立ち尽くしている自分の姿が見えた。逃げるでも立ち向かうでもなく、ただ俯いている。戦う意志など感じられない、隙だらけの姿だった。

 意志のはたらきの外で眼球が動く。左に浮かぶ水弾を、次いで右に浮かぶ水弾を確認し、確実な位置を探っている。――ギルデンスが目にしている景色だった。

 彼の視界はあまりにも鮮明で、脳の内側に鈍痛が走った。空気中に浮かぶ水の粒子、その一粒一粒が確認できるほどだ。


「見える……」


 僕の肉体が小さく呟く。その声はギルデンスの耳には届かない。最適な位置を見つけたのか、ギルデンスは作業のように水弾を放った。

 遠く離れた僕の身体が、その一撃を躱す。その事実に驚いたのか、ギルデンスは木の陰に身を潜めた。

 この位置から〈腕〉を動かせるだろうか。

 試しに〈腕〉を操作しようとしたが、上手く構成ができない。

 ――戻るしかないか。


 サイコメトリーが消失すると同時に僕の意識は肉体へと帰還した。慣性の法則に従った精神は停止しきれず、脳の内側がぐらりと揺れる。

 それが治まった瞬間、頭痛が弾けた。膨大な情報量を処理するのに手間取っているのだろうか、今度は視界が揺らぐ。眼球運動の激しさを感触として実感した。背中には不思議な空虚さが満ちている。

 だが、身体は、動く。

 僕は歯を食いしばり、地面を蹴った。ギルデンスのいる位置は把握している。僕の右前方十五メートル、その木の陰だ。


 地面に落ちた木の葉が振動で揺れ、跳ねる。湿った土に足を取られる。サイコメトリーの余波で切っ先が震える。それでも僕は前方へと真っ直ぐに攻撃を放った。

 木々の密集など関係ない。透過できないのならば貫くだけだ。

 硬い樹皮を破り、僕の〈腕〉は木の内部へと潜り込んだ。突き抜け、空気の冷たさに触れ、再度幹の中に突入する。その先にあるのはギルデンスの身体だ。

 ずぶ、と音がした。もはや聞き慣れてしまっている、肉が破れる音だった。血と肉の生々しい暖かさが〈腕〉に触れる。直進する〈腕〉をもはや止めるものはなく、その槍は骨ごとギルデンスの腕を貫いた。


 ――ずれた。

 頭痛で視界が霞む。サイコメトリーの影響は著しく、〈腕〉の切っ先が逸れてしまった。胸の中央を狙っていたのに、と僕は舌打ちを堪える。


「……次は、外さない」


 誤差は二十センチほどだった。ならば、単純計算で五メートルまで近づけばその半分だ。十センチほどのずれなら胸に命中するだろう。

 僕はさらに接近すべく、脚に力を込めた。

 追撃の〈腕〉を構える。

 しかし、その瞬間、目の前に水の壁が出現した。流動する壁は猛烈な勢いで僕を押し飛ばす。肉体の力では抵抗できず、僕の身体は流されるがまま滑っていった。手元に戻した〈腕〉を使い、木の上へと何とか脱出して、再び臭いを探る。


 移動したか。

 集中し、微粒子を掴まえることに意識を注ぐ。そばにギルデンスの気配はなかったが、色濃くなった激昂の臭気を感知するのは容易かった。僕の意識はこの次元に存在しない微粒子の間を跳躍し、〈腕〉とほぼ同等の速度でギルデンスへと迫っていく。

 ばちん、と音がした。

 急激な視界の変化は僕の精神を通し、肉体にダメージを与える。耳の奥が圧迫される肉体の感覚までもが微粒子を伝って僕に追いすがり、鼻の内部にくすぐったい流動を感じた。

 それでも代償としては安い。僕の意識はギルデンスとともに移動する。ゆっくりと流れる景色から歩いているのだと分かった。臭いの方向と強さから彼の位置を概測する――三十メートルほど離れているだろうか、彼は左から回り込むように動いていた。


 舌打ちが聞こえる。ギルデンスのものだ。彼は苛立たしげに左肩の辺りに目をやり、口元を歪めた。僕のサイコメトリーでは思考の詳細まで読むことはできない。可能なのは推測だけだ。

 ギルデンスが抱いているのは激しい怒りとそれ以上の喜びだった。渾然一体となった感情に、彼は小さく笑いを漏らす。


「方法は分からないが……何かやってるな」


 ギルデンスは小さく息を吐く。

 同時に僕は視界の端で恐ろしい光景を目にした。

 血液を噴き出していた左肩の穴がひとりでに塞がっていったのだ。映像を巻き戻したかのように骨が繋がり、肉が埋まり、肌が復元していく。治癒魔法陣の使用は確認できない。

 自己の負傷を許さない肉体――再び抱いた不安が強く意識を引く。留まろうとしがみついたが、抵抗虚しく僕は肉体へと帰って行った。

 その間際、ギルデンスは極々小さく、こう呟いた。


「まあ、いい……ここで戦うと決めたのは私だ……これくらい予期していたさ」


     〇


 どうすればいい?

 僕は周囲を警戒しながら思索を巡らせていた。木の上では身動きが取れないため、音を立てないように下へと降りる。泥濘に足を取られそうになったのを何とか堪える。水分が増えたせいか、森の中の靄はさらに深くなってきていた。

 攻撃を加えたところで彼の傷は常識の埒外の速度で癒えていく。僕の〈腕〉とほとんど変わらないが、彼のそれは自動とも思えるような滑らかさがあった。


 心臓を貫けばいいのだろうか、それとも首を落とせばいいのか?

 致命的な損傷なら修復できまいと思う反面、僕の脳裏に浮かんだのはそれでも立ち上がるギルデンスの姿だった。

 頭を振って嫌な予感を振り払う。

 まずはもう一撃、ギルデンスに当てなければ話にならない。今の攻防で彼は確実に警戒を強めているだろう。ただでさえ彼は僕の攻撃を感知できるのだ、おそらく先ほどのようなチャンスはもうない。


 考えろ。考えろ。僕は必死に思考する。今までのギルデンスの戦いすべてを思い出せ。

 完璧な生き物などいない。きっとどこかに綻びが存在するはずだ。

 僕は一縷の望みに賭けて、必死に記憶を呼び起こした。レカルタの草原、バンザッタの城内、ペルドールとの戦い、公認盗賊の森、僕とアシュタヤが監禁された館、堀の前での邂逅――


「――あれ……?」


 僕とギルデンスが直接顔を合わせたのは数えるほどしかなく、材料は足りない。

 しかし、違和感が身体を支配する。違和感は疑問となり、飽和する。

 なぜ、ギルデンスは水と風の魔法しか使っていないのだろう。

 治癒魔法を抜きにしても彼が使える魔法はそれだけではなかったはずだ。

 あの館でギルデンスは貴族ガズク・オルウェダに対して禁術と呼ばれる魔法を放っていた。アシュタヤも使っていた、真実を曝け出させるあの魔法だ。燃えさかる火の中でギルデンスが何らかの詠唱を行っていた記憶がある。

 だが、館を燃やす原因――火球を生み出す詠唱を耳にした覚えはなかった。


 単に聞こえなかっただけか? 僕はあのとき無我夢中で〈腕〉を振り回していたからその可能性もある。だが、ギルデンスとの距離は五メートルも離れていなかったのだ。当時、僕にとって魔法はまだ異質なもので、詠唱があったのならば耳に残っているはずだった。

 どくん、と心臓が高鳴る。

 詠唱がないということは魔法陣を刻んでいるということだ。道具を用いずに火を熾すことができる魔法は何時でも重宝する。しかし、それだけでわざわざ魔法陣として身体に刻むだろうか?


 それはない。炎もまた、彼にとって攻撃のための用途があって然るべきだ。

 では、なぜ炎の魔法を使っていない?

 もし森を燃やしていたならば僕の逃げ場は存在しなかった。手間にもならない手間をかけるだけで彼は勝利を手にしていたはずなのだ。だが、ギルデンスはそうしなかった。戦うための準備を欠かさない男とは思えない失敗だ。

 失敗でないのなら、その理由は何だ?


 先ほど聞こえたギルデンスの呟きが耳にこびりついている。「ここで戦うと決めた」。そうだ、場所の選択権は彼にあったのだ。

 思考はぐるぐると螺旋を描き、その終着点で仮説は一つの結論に帰結した。

 目的はともかく、ギルデンスは合理的な人間である。森で戦うと決めたからにはそれなりの理由があるはずだ。エニツィアと山呑みの蛇との決戦があった場所だからか? そんな感傷的な理由もあるのかもしれない。あるいは単に邪魔の入らない、また、レカルタから離れた場所として選んだ可能性もある。


 その上で――僕は〈腕〉で深くなった靄に触れる。目を凝らすと細かい水の粒子が〈腕〉の動きに合わせて動いているのが分かる。

 森の空気は他の地形と比べて水分含有量が多く、また、この森は周囲を山に囲われている。ということは標高も高く、風の吹き抜けも悪いだろう。ましてやギルデンスには水の魔法があるから靄の原因となる水分に困ることはない。

 気化した水分は木々に阻まれ、そこに留まる。発生の条件も保持の条件も揃っている。第六感と視覚情報が組み合わされば僕の攻撃の種類を判別し、それに応じた防御法を取ることも容易いはずだ。

 そして、彼はその化け物じみた行動を可能にする人間離れした『目』を持っている。


 ギルデンスがこの森を選んだ最大の理由――。

 それは僕の〈腕〉が持つ「不可視」という優位性を奪うために違いなかった。

 相手は馬鹿正直に決闘に応じた僕だ。あの広場こそが決戦の場所というように振る舞えば森の中に入ることもなくなる。よしんば木々の中に逃げ込んだとしても彼には水と風の魔法を組み合わせた攻撃方法がある。すぐさま不利な状況になるとは言えない。

 二重三重に張り巡らされた策略に恐れを抱き――同時に歓喜が全身を覆った。

 僕は一つ目の壁に到達したのだ。

 二つ目の壁、彼の不死性の謎を解くのは一つ目の壁を越えてからでも遅くない。

 そして、その方法は既に僕の〈腕〉の中にある。


 僕が最初に手に入れた魔法陣――ギルデンスが優位な状況を作り出すために行わなかったこと。

 この森を燃やしてしまえばいい。

 温度が上昇すれば飽和水蒸気量は上がり、靄も消える。燃えさかる火の中で戦うとしたらあの広場だけだ。燃える木がないあそこなら煙の量も激減するだろう。

 迷っている暇などなかった。

 やるならギルデンスが警戒し、離れている今しかない。

 僕は〈腕〉を展開し、炎の魔法陣を広げる。魔法陣の限界が大きさで規定されているといっても単に大きくしただけでは何も変わらない。あるべき密度がなければ効力は同程度のままだ。


 付け加えるべき傷――僕は記録を甦らせる。

 本で学んだ魔法陣、フェンと戦った炎剣、それらは記憶としてではなく、画像という記録として脳内ストレージに保存されていた。

〈腕〉の先を尖らせ、折り曲げる。

 僕は息を殺し、視界に浮かぶ画像に沿って傷を広げていった。痛みはない。くすぐったさだけが痺れるように表面を走っていった。


 幾何学的な図形とエニツィアの古い言葉で構成された文様は脳内の画像とぴったり一致する。軽くエネルギーを送ると〈腕〉の先で小規模な爆発が起こった。

 成功だ。

 あとは森を燃やし、中央の広場へと誘導すればいい。幸いなことにギルデンスには僕以上に逃げられない理由があった。

 プライドという鋼鉄の檻――ギルデンスが有している唯一の不合理。

 きっと彼は僕から逃げるなどという選択肢を取らない。


     〇


 息を吸い込み、〈腕〉に刻まれた新たな魔法陣にエネルギーを送る。超能力を源となる力は魔法陣へと流れ込み、変質する。

 その瞬間、目映い光が熱を伴って眼球に突き刺さった。じりじりと侵蝕してくる熱によろめく。左手で顔を覆い、何とか目を開けると空気の中でもがく巨大な炎が実体化していた。

 一定の形状を保つことができず、僕は炎を眺めることしかできない。直径二メートルにも及ぶ炎はそばにある木の枝を燃やし、開ききっていない蕾を焼き落とした。じりじりと空気が焼け、浮かんでいた靄が消えていく。

 そっと〈腕〉を下へと降ろすと水の蒸発音が勢いよく響いた。ギルデンスの魔法によって水浸しになった地面から水分が奪われていく。一瞬にして乾ききった木の葉が弾け、木の根はひび割れるような音を立てる。


 背中を貫かれたのはその時だった。


 目前の炎に小さな穴が穿たれる。燃えさかる火炎は些細な傷などものともせず、すぐにその穴は埋まった。だが、僕の激痛は消えない。腹部の中央に、のこぎりを揺さぶられているような痛みが充満した。

〈腕〉を盾に変え、その場から飛び退く。追撃の二弾目が地面に突き刺さる。親指の爪ほどに押しつぶされた水に抉られ、飛び散った土が盾に当たった。

 どこから撃たれた?


 臭いを嗅ごうとしたが、〈腕〉を使っている最中はそれも分からない。一度に使えるのは一つだけ、それは厳然たるルールであるようだ。いつの間にか炎も消え失せていた。

 そばにギルデンスの姿はなかったが、だからといってその場に留まることはできない。周囲を警戒しながら僕は走り始める。足を前に出すたびに背中と腹で激痛が弾けた。傷は小さいが、血液が止めどなく流れ出る感触がして、木の陰に飛び込んだ。

 治癒を開始すると同時に振動が背中を伝わる。破裂音が左の耳元で轟く。三発目の水弾が放たれたのだ。あまりの音の大きさに僕は耳を塞ぐ。


 その瞬間、指の先に歪な感触が生まれた。ぬるりと熱い液体が指を濡らす。痛みが肉を引っ掻く。

 耳殻が、半分、吹き飛ばされていることに気がつく。

 その認識に脳が暴れ、生理的な涙が滲んだ。腹部の治癒を終わらせ、〈腕〉を耳に当てる。大した傷ではない。負傷は即座に修復され、痛みはすぐに消え去った。だが、違和感は残り続ける。耳の形状を忘れた肉体は諦めたかのように断面を塞ぐだけでもとには戻ることはなかった。


「どこから撃たれたんだ……?」


 軽く臭いを嗅ぐ。正確な位置は分からない。少なくとも三十メートルは離れているだろう。恐る恐る木の陰から顔を出したが、密集する木々に阻まれ、彼の姿は見えなかった。

 どうやって僕の位置を認識した? あの正確さだ、第六感という超感覚だけで説明をつけたくはなかった。

 森を燃やすよりも僕の位置を把握した方法を知る方が先決だ。

 僕は動き回りながらサイコメトリーを開始する。空気中を漂う点はジグザグに繋がっていき、経路を作り出す。その先端がギルデンスの肉体に到達すると同時に僕の意識はその中へと飛び込んだ。


 しかし、ギルデンスの視界からも僕の姿を確認することはできなかった。木々の動きはなく、立ち止まっていることが分かる。

 身体だけではない。ギルデンスの眼球すら一点を見つめたまま、微動だにしていなかった。不気味さに喉が詰まり、焦燥が背中に爪を立てる。何かしているのは間違いがないのに、その何かが見当もつかない。


 次の瞬間、痛覚の蛇が右の太腿を噛みちぎった。

 水弾に抉られた身体が痛みに叫ぶ。痛覚は強烈な引力で意識を手繰り寄せる。

 ――しがみつけ。

 次は頭を撃たれるかもしれない。そうなったら終わりだ。情報を集めるならまだ動ける今しかない。

 直撃しなかったのが不本意だったのか、ギルデンスは舌打ちをして、詠唱を開始した。歌が途切れると同時に目前に親指の爪ほどの水弾が生まれる。水の弾丸は宙を滑るような速度で僕の肉体がある方向へと進んでいった。


 ……どうして連発しない? 筒を失ってからでも弾の数は減っていなかったはずだ。どうしていちいち一発ずつなのだ?

 その疑問はほどなくして氷解した。ギルデンスの視界が再び一点に留まる。その中央にある物体を確認した瞬間、僕は精神の手を離した。意識は猛烈な速度で肉体へと帰って行く。帰還を果たした僕はすぐさま足の傷を塞ぎ、できる限りジグザグな軌道を描いて走り回った。


 ギルデンスが僕の位置を把握していた方法――それは水の鏡だった。小さく朧気で、ギルデンスの視力をもってしても不鮮明だったが、それでも十分なのだろう。何発か放ったうちの一発でも致命傷になればいいのだから。

 次から次へと面倒なことをしてくるものだ。苛立ちはあったが、何も問題はない。

 対抗する術は、ある。

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