123 嘘の藁で眠れ

「考えるな!」


 そうしなければ何かが崩れてしまいそうで、僕は思いきり叫んだ。声は朝靄に包まれた静寂の森に響き渡る。居場所が露見するよりも精神が綱の上で揺れる方が恐ろしかった。

 たかが〈腕〉が見えているかもしれない、というだけだ。

 僕は「たかが」と事実を矮小化させ、自分を騙そうと試みる。

 攻撃を当てにくくなったのは認めよう。だが、威力という点だけならば僕の方が勝っている。一撃当てればすべてがひっくり返るのだ。


「逃げるなら――」


 ギルデンスの声が聞こえる。背筋を舐りあげられるような感覚がぞわりと皮膚の上を伝播した。恐る恐る振り向くが、木々に阻まれ姿を確認できない。低い声だけが這うように響いてきていた。


「――先に言え。その程度の器だったと私も誤りを認めよう」


 逃げられるはずがあろうか。

 ここは国の中央部だ。逃げた時点で僕は皆を見捨てたことになる。たとえディータのもとへと向かっても――ああ、彼女は笛を持っていた。おそらく、僕が戦いの途中で逃げたときはその笛で確かめさせるつもりだったのだろう。

 だが、逃走など頭の中にはない。僕は小さく息を吐き、声の方向へと進んでいった。左腕の骨はくっついている。痛みの残滓はあるが、動作に支障はない。

 木々の群れを抜けると、再び広場が視界に入った。薄い白の靄、その中央にギルデンスが立っている。彼はまるで待っていたかのような態度で僕を迎えた。


「……腕を治したか。その治癒力は賞賛に値するな。魔力のないお前がどうして魔法としか思えない技術を持っているかは理解できないが」

「聞きたいか?」平静を装うために僕はおどける。「……エニツィアの加護だよ」

「面白い冗談だ」


 僕は跳躍し、広場を縁取る樹木を蹴った。〈腕〉で姿勢を制御し、空中を走る。足の下を水弾が通り過ぎ、森へと突き刺さる。浮き上がった僕の姿にギルデンスは目を見開き、すぐさま第二撃を放ってきた。足場を消し、屈む。頭の上を二つの水弾が通過する。


「素晴らしい!」

「褒められても嬉しくないね」


 サイコキネシスを身体に覆い、距離を詰める。最後の水弾を皮一枚のところで躱し、じっと狙いを定める。

 ギルデンスの持つ黒鉄の筒は確かに脅威だ。水弾の発射台としてだけではない、防具としても近接武器としても機能している。

 だが、だからこそ、その脅威こそが弱点となり得るのだ。

 黒鉄の筒を奪ってしまえばいい。

 対策がない、などと楽観視はできないがそれでも防御の術はなくなるし、攻撃のパターンも激減するだろう。

 将を射んと欲すれば、だ。

 僕はすべての光を吸い込むような黒を睨み据える。


     〇


 僕はギルデンスに為す術もなく負けた。


 かつて、まだサイコキネシスの操作が覚束なかった頃の話だ。その後も彼の逸話を耳にしたが、それを聞くたびに絶望的な力量の差を感じた。


 だが――

 僕は奥歯を食いしばって〈腕〉を振るう。若草色の〈腕〉は刃となり、彼の左腕の皮を裂いた。追撃しようとすると水の奔流が僕を襲う。〈腕〉を盾に変じて受け止め、反撃を試みた。

 が、届かない。大きく後退したギルデンスまであと数センチのところで虚しい感覚が肩へと伝わった。

 ――当時のような力量の差は存在しない。


 その確信は僕に勇気と推進力を与えた。呼吸を整え、直進を開始する。

 エニツィアで最強と名高いギルデンスでさえも僕の全力の攻撃を躱せないのだ。〈腕〉に残る感触がそう教えてくれる。攻撃を見切られていたとしても関係のない速度で〈腕〉を振るえば、いつかは直撃する。

 地面すれすれに薙いだ〈腕〉をギルデンスは跳び上がって躱した。間髪入れず〈腕〉を突き出す。が、再びいなされる。その隙間を縫って襲いかかる水弾を弾き、あるいは身を投げ出して躱す。


 何度も何度も繰り返すうちに〈腕〉が掴んだ空虚な感触は実体を獲得するようになった。皮をそぎ取るざらついた感覚が伝わる。そのたびにギルデンスは右手に刻まれた治癒魔法陣で傷を修復していった。

 だが、その行動は僕に逆説的な安堵をもたらした。

 ギルデンスは決して無敵ではないのだ、と。刃で擦れば傷が生まれる。槍で突けば肉が抉れる。いかに彼の強さが桁外れのものであろうと、治癒魔法は有限性を示す証左でしかなかった。


 攻防は続く。

 距離を詰めようとすればギルデンスは飛び退き、水弾を放つか、斬撃を放ってきた。筒の先端から押し出されるウォーターカッターは〈腕〉の膜を強く揺さぶり、隙間をこじ開けようとしてくる。

 彼が無敵でないように、僕もまた、無敵ではない。

 攻撃への意識は防御を疎かにする。それは僕の人としての限界であり、超能力者としての限界でもあった。

 濁った音が皮膚の上を張っていく。

 前進している最中、何度も肩の肉を飛ばされ、太腿を抉られた。

 飛び散った血液は剥き出しになった肉と見えない糸で繋がり、痛覚を引きずり出す。呻き声を噛み砕き、追撃を防ぐ。距離を取り、最低限の治癒を施す。

 その姿に、ギルデンスは高らかに哄笑した。


「ああ! ニール、やはりお前は私の敵だった! お前こそが!」


 僕は応じない。

 胸の中に渦巻いているのは屈辱だけだった。攻撃など意に介さないように喚くギルデンスの態度に脳細胞が捻れ、焦燥を帯びた怒りが生まれた。

 薙ぎ払った〈腕〉が水の壁に衝突する。すぐさま水の斬撃が胸元を突き刺そうとしてくる。すんでの所で受け止め、勢いそのまま〈腕〉を突き出した。

 が、ギルデンスはその動きを目で追い、攻撃を避ける。


「お前は、やはり私と似ている」


 それが幻聴だったのか、激しい攻撃の中に滑り込んだ現実の振動だったのか、僕には分からない。だが、否定することはできなくなっていた。

 戦闘という面において、僕とギルデンスの間には認めざるを得ない共通点があったからだ。

 水と単純な運動エネルギー――質の違いはあるが、その実体には相似性がある。圧力を高めてぶつける水弾は僕の〈拳〉だ。〈槍〉や〈剣〉はウォーターカッターとさして変わりないのだろう。壁を作り上げる防御方法も、僕たちは一緒だった。


「ギルデンス」声に出したつもりはない。「お前が『呼び水』と称された理由がようやく分かったよ……まるでお前の言葉が現実を連れてくるみたいだ」


 声なき声は繋がる。彼の唇は動いていなかったが、確かな意志は空気か攻防を伝達し、僕まで届いた。


「何を今さら……お前はエニツィアであり、私だ」

「一歩間違えばお前みたいになっていたと思うとぞっとするよ」

「間違えば? 見当違いだ、ニール。既に私たちはほとんど同一だ」


 突き出した〈拳〉が水の壁に阻まれる。衝撃で水面が揺れ、ギルデンスの姿が歪んだ。一辺が二メートルほどの正方形、ぼやけた景色の向こうで黒鉄が動く。僕が横に飛び退くと予想したのか、彼は筒の先端を壁の外側へと向けた。


 違うよ、ギルデンス。僕たちは同一ではなくてただ似ているだけに過ぎないんだ。

 ――ただ、同じだと考えてくれるならばありがたい。

 僕は体重を右に移動させ、同時に〈腕〉を左へと曲げた。若草色の光は壁を這い、蔦のようにギルデンスが構えている筒を絡め取った。

 ギルデンスの身体がびくりと震える。


 お前は、僕の〈腕〉をまだ知らない。

 サイコキネシスは突き出すだけじゃない、引き寄せることも可能なんだ。

 その瞬間、時間が停止した。

 脳細胞が時を微塵に切り刻み、一瞬にしてすべてを処理する。ギルデンスの動きが把握できる。筋肉の細動すべてを感じ取り、僕は思いきり〈腕〉を引いた。

 マイナスの移動を予期していなかったのか、黒鉄は呆気なくギルデンスの右手から離れた。抵抗はあったが、まるで問題にならない強さだった。

 僕は奪い取った筒を投げ捨て、左へと跳ねる。


 もはやそこに障害はない。

 槍状の〈腕〉を構える。

 左手の黒鉄が胴体を守るべく動いている。

 それは、僕が待っていた人としての防衛反応だった。

〈腕〉は空気を裂き、ギルデンスの右手へと滑り込む。千分の一秒にも満たない時と時の隙間、刃となった〈腕〉は皮膚にめり込み、肉を掻き分け、骨を分断した。


「――な……」


 血液が飛沫を上げる。人の身体を切る感触が肩口を覆う。空白が僕たちの間を支配する。そして、どさっ、という柔らかな音が不思議なほど明瞭に広場の中に響き渡った。親指だけを残して切り落とされた彼の右手は草に迎えられ、ほとんど弾むことなく停止する。

 もう彼が回復する術はない。

 僕は狙いを定め、〈腕〉を研ぎ澄ませる。振りかぶり、心臓目がけて突き出す。


「終わりだ、ギルデンス!」


 なんて呆気ないのだろう、何を血迷ったのか、ギルデンスは右手を拾おうと屈み込んでいる。ようやく生まれたこれ以上ない隙――


 ――彼がそれを逃すはずなどなかった。


〈腕〉が上滑りする。意志を断絶された僕の〈槍〉はギルデンスのいない空間に突き刺さり、揺らいだ。思考は酸を浴びたように爛れ、無数の穴が生じている。

 痛みはなかった。ただ空虚さだけを感じた。

 滴り落ちる血液が下着に染み、太腿を濡らす。嗅ぎ慣れた血の臭いが鼻孔をなぞる。身体のバランスを保つことができない。上体がくの字に曲がり、視界が下に、内側にずれる。そこで僕は左の脇腹に生まれた空虚さが錯覚でないことを悟った。


 肉が吹き飛ばされている。

 ジグソーパズルのピースのように、半円状に欠けた断面からは血液が流れ出て赤々と染まっていた。力が入らない。剥き出しになった神経が徐々に異変を悟っていく。空気が柔らかく肉をなぞるごとに激痛が走り、全身が収縮した。

 胸骨を握りつぶされるような圧迫感に呻くことすらままならない。


 顔を上げろ。

 初めて受けた傷ではない。ラ・ウォルホルでは槍で貫かれたこともある。

 僕は歯を食いしばり、体勢を立て直す。顎を上げた瞬間、脳の裏側で恐怖が爆発した。地面に伏せたギルデンスがこちらを覗いているのだ。残った左手にある黒鉄の先端が僕に向かっている。

 防御か退避か――僕はそのどちらも選ばなかった。

 咄嗟に〈腕〉を伸ばし、その黒鉄の方向を無理矢理変える。上空へと向けられた先端から水が迸り、宙へと水弾が放たれた。


 抵抗が加わる。武器を離すまいというギルデンスの意志を感じた。だが、人の腕がサイコキネシスに敵うはずもない。僕は思いきり筒を捻り、接着を引きちぎるようにして黒鉄の筒を奪い取った。

 痛覚と歓喜、焦燥、ごちゃまぜになった感情が喉の絞りを引き裂き、叫びとなって口から飛び出す。興奮した本能はパニックの中、的確で厳然たる命令を僕へと下した。


 早く殺せ。

 ギルデンスには武器も防具もない。逃げられるような体勢ではないのだ。

 暴れる〈腕〉を押さえ込み、もう一度、突き出す。彼の背中に刺さった運動エネルギーの集積体は肉をこじ開け、心臓へと進む。

 だが、次の瞬間、その感覚は煙のように消失した。

 冷たさの塊が横殴りに僕の身体を弾き飛ばしたのだ。視界が引き延ばされ、内臓が揺れる。脇腹の痛みが爪を立てて骨を掻きむしる。草の上を滑り、停止したところで大量の水が僕の全身を濡らしていることに気がついた。


 本能が思考を押さえつけ、叫ぶ。

 立て。傷を癒やせ。次の攻撃が来る。躱さなければ死ぬぞ。

 僕はサイコキネシスで無理矢理に身体を起こした。だが、肉体の力だけでは体重を支え切れず、膝が崩れる。

 咄嗟に〈腕〉を前方に広げ、盾を形作ると一瞬の間もなく、四発の衝撃が目と鼻の先で爆散した。ぼろぼろに崩れた思考は追撃への恐怖だけを訴える。サイコキネシスで作られた僕の〈腕〉は一切の逡巡もなく肉体を投げ飛ばした。

 地面を転がり、何とか身体を起こす。


 ギルデンスは膝を突いたまま、動く気配はなかった。

 どうにか立ち上がった僕は木に体重を預け、治癒魔法陣にエネルギーを送り込んで腹に当てる。脇腹を苛む空虚さと痛みがじんわりとした暖かさに変わっていく。欠損した内臓や筋肉、血管、神経群を修復するのに五秒もかからなかった。ギルデンスはこちらを睨んでいたものの、余裕の表れなのか、ふと頬を緩めた。粘着質な視線は観察しているようでもあり、その不気味さに僕は一歩も動けない。

 足が震えている。奪い取った黒鉄の筒を杖にしようと思ったが、攻撃を食らった拍子に手から離してしまったようで周囲には見当たらない。


 同時に僕はある事実に気がついた。

 ――四発の衝撃。

 視線をギルデンスへと向ける。彼の手には砲台となる黒鉄の筒は存在しない。では、なぜ、水の弾丸が放てるのだ?


「確実に」


 そう呟きながらギルデンスはゆっくりと立ち上がった。苦笑か喜悦か判然としない笑いを浮かべ、彼は続ける。


「確実に仕留めたと思ったがな」


 ――僕は馬鹿だ。

 冷や汗が流れる。緊張した筋肉に引っ張られ、肌が張り詰めていく。

 騙されるはずがない、その思いはただの願望に過ぎなかったのだ。

 僕は初めから――ギルデンスと出会ったあの日からずっと、騙され続けていたことを悟る。

 おおよそ二十メートル先にいるギルデンスの皮膚、そこに刻まれた魔法陣が血のように赤い光を発していた。発動した魔法は彼の詠唱に導かれ、宙に水の弾丸を浮かべていく。


 今にも発射されそうな弾丸に唾を飲み込んだ。

 何が弱点、だ。

 僕はあの筒がなければ貫通力のある攻撃は放てない、と思い込んでいた。だが、違う。目の前に広がる光景に唇を噛みしめずにはいられなかった。

 かつて、ギルデンスは風の魔法を用いて攻撃を行ってきた。『呼び水』と称される水の魔法の使い手であるのにもかかわらず、だ。彼のような合理的人間がわざわざ手加減をするためだけに魔法陣を刻む理由などあるはずがない。

 彼にとって風の魔法が何のためにあるのか、その正体に震えが湧いた。


 ギルデンスの長い髪は揺らぎ、地面に生えた草が震えるように動いている。風は縦横無尽に吹きすさび、宙に浮かぶ水を押しつぶしている。

 そこに生まれていたのは確かな強度で収束した水の弾丸だった。

 ――来る。その予感に〈腕〉へと力を送る。

 風の筒に装填された水弾はそれまでとまったく変わりのない威力で僕の盾に激突した。まるで示威行動だ。僕の行動など意味がなかったのだと思い知らせるように、水弾は防御の上から散弾のように襲いかかる。

 傷が癒えたにもかかわらず、足は根が張ったように動かない。

 ギルデンスが徐々に近づいてきていたが、僕はその様を見つめることしかできなかった。


「どうした? 近づかなければお前は攻撃ができないのではなかったか?」


 操作や制御は魔法陣で行っているのか、彼が口を開いても水弾は散乱しない。詠唱は魔法陣をつなぎ合わせるための鍵に過ぎないのかもしれない。新たに水弾を作るときにだけ、彼はごく短い詠唱を行った。

 水弾は四つにまで増える。ギルデンスと僕を結ぶ直線上に一つ、残りの三つは取り囲むように徐々に間隔を広げている。

 どうすればいい?

 やるべきことは思い浮かんでいる。走り、包囲から抜ければ水弾の着弾箇所は一つに絞り込まれるだろう。その上で接近すればいい。黒鉄の筒がない今、僕の攻撃を防ぐことは容易ではないはずだ。


 ――だが、ああ……ああ!

「だろう」とか「はずだ」とか、そういった希望的観測はすぐさま黒い塗料で塗りつぶされていった。「近づけばいい」という帰結すらも罠の一つなのではないか? 彼の用心深さはいやというほど理解している。接近されたときの対策など存在しない、と胸を張れるほど僕は楽天家ではなかった。

 拭い去れない恐怖に、僕はちらりと後方を覗く。

 一旦森の中に入るべきではないか?

 水弾の軌道はあくまで直線だ。密生する木々があればその効力の大部分は失われるだろう。追ってくるならそれでもいい、追って来なければその間に対応策を考えればいいだけだ。

 唾を飲み込み、足を横に一歩動かす。彼の動向を見逃さぬよう、視線を戻す。


「え」


 その瞬間、緊迫した状況にまったく相応しくない素っ頓狂な声が喉の奥から漏れた。

 再び生じた思考の虫喰い穴、その隙を狙ったのか、四つの方向から水弾が放たれる。僕は飛び退くこともできず、不格好に尻餅をついた。


 攻撃は当たらない。

 水弾の角度は僕を包囲するには不十分で、面積を増した盾はすべての攻撃を防いだ。が、薄らいだ確信は困惑となり、〈腕〉に伝わっている。認識がぼやけ、上手く盾を形成できない。

 詠唱が必要になったおかげで追撃は来なかったが、それを幸いと思うこともままならなかった。

 辛うじて立ち上がり、同時に、僕は自分が後退りしていることに気がついた。

 前進しなければ勝てる見込みはない。そう十分に承知しているはずなのに、身体は後ろへと下がる。理解の範疇を超えた現実は黒くざらついた恐怖をもたらしていた。


「――どう、して」


 彼の右腕の先――そこには僕が切り落としたはずの手があった。

 服の下に別の治癒魔法陣が刻まれていてもおかしくはない。というよりギルデンスならそうするだろう。

 しかし、速度の説明がつかないのだ。

 魔法陣は込められた魔力に比例して強さを増す。だが、その限界を決定するのは魔法陣そのものの大きさや複雑性だ。どれだけ多くの魔力を注ぎ込んだとしても、魔法陣が単純で小さなものであれば見合う効果は得られない。

 それが魔法という現象のルールなのだ。


 なのに――僕はギルデンスから目を離すことができない。

 彼の身体にある魔法陣は絶えず発光している。現在使用しているのは水弾を制御しているための陣、おそらくは風を生み出すものだろう。その光は左腕のほぼすべてに絡みついていた。

 つまり、彼の左手には治癒魔法陣は存在しない。また、もっとも面積が取れる胴体部分には水の魔法陣があるはずだ。


 どう考えても辻褄が合わない。

 ギルデンスはどうやって手をつなぎ合わせたのだ?

 完全に切断された部位をこの短時間で修復するような魔法陣となるとかなりの、それこそ全身を使ったとしても足りないかもしれない。だが、彼の身体にはそのような規模の魔法陣を刻み込む余地など残されていないのだ。

 だが、確かにギルデンスの右手はあるべき場所にある。

 彼は感触を確かめるように拳を握り込み、その動作はゆっくりと僕の心を握りつぶしていった。圧力を加えられた心はひしゃげ、液体の入ったチューブのように、あっさりと疑問を吐き出した。


「何をした……?」

「何の話だ?」

「どうして右手があるんだ!」これではまるで僕の攻撃が意味をなしていないみたいじゃないか!「答えろ!」

「答えるはずがないだろう? だが、あえて言うなら――」ギルデンスの顔が愉悦に歪む。「エニツィアに殺された山呑みの蛇、その加護ではないか?」


 熱が後頭部に集まる。意趣返しにされたその言葉は屈辱感よりも絶望感を色濃くさせた。不死身、というちゃちな言葉が脳裏に浮かぶ。ギルデンスの輪郭がぼやける。彼の肌を食い破ったどす黒い悪意がじくじくと空気に染み出しているようにも見える。

 途端に地面が頼りなく感じた。雲を踏みしめているような危うさだ。唾を飲み込もうとするが、上手くいかない。


 ――勝てるのか?

 垂らされた一滴の疑念は全身を巡り、血管を凍りつかせる。

 ……ああ、アシュタヤ、きみが隣にいたらどれだけいいのだろう。きみの暖かな温度に触れたい。どうすればいいのか、わからないんだ。

 僕はとても愚かな行いをしたのではないか?

 その思いは身体を後方へと引く。僕は無様に逃げ出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る