第四章 第四節

121 始まりの平原、終わりの森

 レカルタでは一年で最後の日没の際、鐘の音が響き渡る。城の最上部に設置された大鐘楼を、エニツィアが五日ほどの眠りに就くのを知らせるように、何度も打ち鳴らすのだ。それを耳にした市民たちは互いに労い、翌年を迎える準備を始める。

 法律に近い慣習によりほとんどすべての店は休業となり、営業しているのは木材や金物を扱う店、あとは靴の職人くらいになるそうだ。すべての人が互助の元、建国祭へ向けて動き始める。


 そんな本来の景色は訪れなかった。

 カンパルツォ邸に朝が訪れたのは日が昇るよりも前のことだった。僕が目を覚まし、玄関ホールに降りたときには既にカンパルツォとウェンビアノ、フェンの姿があり、ほどなくしてアシュタヤも現れた。

 短い挨拶を交わしたもののどんな会話をするべきか分からず、口の中に綿を詰め込まれたような気分になる。不自然な態度をごまかして階段に腰を下ろすとアシュタヤが隣に座った。台所から朝食の支度をしていたマイラが姿を見せたが、普段なら「階段に座るな」と注意するはずの彼女も僕たちを咎めることはなかった。

 隔てた壁の向こうで薪が弾ける。その余韻が消えるか消えないか、その間際でアシュタヤが「本当はね」と悲しそうに呟いた。


「本当はね、この時期のレカルタは夜通し騒がしいの……皆楽しそうにそれまで進めてきた計画のお話をしたり、どんな催しがあるのか確認し合ったり」


 レカルタでは当たり前の幸福を僕は知らない。想像だけで賄い、心痛と義憤を獲得すると同時にカンパルツォが「心配するな」といつもと変わらぬ態度で胸を叩いた。


「大丈夫だ、アシュタヤ嬢。『日付のない日』を過ぎればまた一年が、同じように始まる」

「……そうですね、そう信じています」


 アシュタヤの言葉は冷えた朝の空気に溶け、それきり会話は途絶えてしまった。

 一人また一人と仲間たちが階段を降りてくる。ベルメイア、ヨムギ、ヤクバ、エルヴィネ、それから少し間を置いて、マーロゥとセイクが来て、レクシナを最後に全員が揃った。マイラがパンと暖かいスープを配り、それを朝食とする。変哲のない態度をしているのはヤクバたち三人だけで、他の人たちは静かに食事を胃の中へと収めた。

 ベルメイアが明るい声を上げたのは食器を片付けてすぐのことだった。彼女は貼りつけたような笑みでアシュタヤのもとへと駆け寄り、腕を背中へと回した。


「エイシャ、またあとでね」

「ええ、お利口にね」

「もう、そんな子どもじゃないんだから」


 ほとんど同じ身長になった二人は抱擁し、離れて手を振り合う。それからベルメイアはカンパルツォへと歩み寄る道すがら、鼓舞するようにヨムギとマーロゥの背中を叩いた。「痛いな」とヨムギが抗議したが、ベルメイアは素知らぬ顔をするだけだ。

 随分仲良くなったものだと微笑ましく思う反面、不公平さも感じて僕は訊ねた。


「ベルメイアさま、僕には何かないんですか?」

「ないわ」彼女はにべもなく否定する。「ニールのことは別に心配してないもの。だって、ニールはエニツィアで二番目に強いんでしょ? 全然そうは見えないけど」

「二番って、それじゃまずいですよ」

「どこがまずいの? 一番はフェンよ?」


 彼女は悪戯っぽく笑いながらマイラに別れを告げ、カンパルツォの腕を引いた。ウェンビアノとフェン、エルヴィネが立ち上がる。ヤクバたちが腰を上げたのはフェンに急かされてからだった。

 これからカンパルツォたちは城へと戻るそうだ。家族のいる貴族は一時帰宅を許されただけで、戦争の最中は城か前線の司令部で過ごすことになるらしい。


 残った僕たちは別行動することになっていたが、見送りに出るために彼らの後に続いた。屋敷の外には馬車が二台停まっていて、八人は順にその中へ乗り込んでいく。日の出を迎えていないせいで周囲はまだ薄暗く、ヤクバたちの明るさはどうにも光量に相応しくない。レクシナに至ってはピクニックに赴くかのように「行ってきまあす」と語尾を伸ばしていた。

 七人が乗り込み、一つの馬車の扉が閉められる。

 最後まで残っていたのはフェンだった。彼は乗り込もうと上げた足を降ろし、その場で立ち尽くしていた。五秒ほどもそうしていただろうか、僕が「どうかした?」と訊ねる前にフェンは踵を返した。

 彼の視線は僕へと定まっている。


「ニール」


 フェンが口にしたのはそれだけだった。

 伝えたい思いが多すぎて、喉元でつかえている。黙ったまま佇む彼にはそんな雰囲気が漂っていて、僕も続きを促さなかった。


 いいよ、何も言わなくて。


 そう心の中で呟き、手袋に覆われた右腕を差し出した。フェンは小さく自嘲気味に笑い、僕の手を握りしめてくる。それだけで何もかもが伝わってきたようにも思えた。

 フェンが馬車に乗り込むと御者たちが手綱を振るう。四頭の馬が荒い鼻息を吐き出して勢いよく駆けていく。蹄鉄の音は次第に遠ざかり、ついには朝靄の中に溶けてしまった。


「行ったか」


 マーロゥは馬車が消えていった方角を見つめ、「それにしても」と視線を戻した。


「それにしてもマイラさんは残るんすね。俺はてっきり城に避難するのかと」

「待たされるのは慣れてるの。それにあなたたちがいないと掃除も捗るでしょう? 今のうちにやっておかなくちゃ」

「余裕っすね……」

「余裕ぶってるだけですよ。戦えないおばさんが騒いだってみっともないでしょう。……ああ、そうだ、早速もう始めちゃおうかしら」


 マイラは伸びをして、僕を一瞥する。数日前にウェンビアノから聞かされた養子の話を思い出して頭を下げると、彼女は微笑みだけをぎこちなく返して屋敷の中へと入っていってしまった。


「なんだ、こんなときにマイラは呑気だな」ヨムギは大きな溜息を吐く。「見送りくらいしたっていいだろう」


 僕は応えない。マイラの受け答えが嘘だと知っていたからだ。

 前庭に出る前からずっと、彼女からはとても悲しい怒りのにおいが漂っていた。どうすることもできない自分の不甲斐なさを悔いているのか、それとももっと別の大きなものへの怒りなのか、彼女の瞳は涙で潤んでいた。

 耳を澄ませば洟を啜る音が届いてくる予感があり、僕はそれを聞かないように意識を外へと向ける。


 しばらくすると蹄の音が遠くから響いてきた。今度は僕たちを迎えに来る馬車だろう。徐々に近づいてくる小気味いい音にアシュタヤと顔を見合わせる。

 彼女たちは城を経由せず、直接レカルタの西門へと向かう予定になっている。エニツィア軍は西門の外で一度集合し、それから一団となって交戦予定地域へ出発するらしい。アシュタヤは指揮本部で別命があるまで待機し、マーロゥとヨムギは護衛としてそのそばにいるそうだ。


「俺たちも出発だな」とマーロゥが深く息を吸い、天を仰ぐ。

「そうだね……きっと長い一日になる」

「ニール」


 意を決して放たれたようなヨムギの声は、しかし、僕の名を呼びきる前に沈んでいる。彼女は俯き、思考を整理するように黙っていたが、やがて静かに顔を上げた。


「ディータは、その……」


 ヨムギもマーロゥも、そして当然アシュタヤも、僕がこれから何をするか、知っている。この二日間で僕は飽きるほどの叱咤を受けていたし、彼女たちもまた怒りをぶつけるのに飽きてしまったようだった。


「約束は守るよ。ディータを傷つけるな……だろ? 精神的な意味は無理かもしれないけどさ」

「それは、そうなんだが」

「あと、できるなら連れ帰るよ。そっちの方がヨムギは嬉しいでしょ」

「私からもお願いする」アシュタヤは僕の左手を握って言った。「彼女をあちらの陣営に戻らせたらまずいもの」

「期待はほどほどにして欲しいけど……馬車が来た。乗ろう」


     〇


 ペルドール帝国との戦争の際、ギルデンスは使いを寄越す、と言った。

 いつ、どこに?

 彼はその確たる情報を語らなかったが、その時と場所を予測することはできていた。ギルデンスにとって僕との戦いには特別な意味がある。王国軍と反乱軍の衝突などおまけに過ぎない。だから時は朝――戦争が始まる前だ。

 場所に至っては決める必要などない。

 以前ギルデンスはわざわざディータを伴って目の前に現れた。僕たちがレカルタの外に出た理由を得るだけならば他の方法があったにも関わらず、だ。


 そこには無言のメッセージが隠されている。少なくとも僕にはそう思えた。

 重要なのは僕とギルデンスが、アシュタヤとディータの力を知っていること、そして、互いが戦わなければいけないと考えていることだ。

 アシュタヤの力でレカルタにいるディータを探せ。

 きっと彼はそう伝えたに違いない。決闘の舞台を作り上げるためにアシュタヤとディータを装置として利用しろ、と。

 狂人の思考をなぞり、それが整合性らしきものを獲得していくたびに僕はどうしようもない屈辱を覚えた。僕と彼の間に否定することのできない共通点があるのだと教え込まれているような気がした。


 外れればいいのに。

 かすかにそんな期待を抱いたものの、その思いはすぐに裏切られることになった。

 貴族地区を抜け、東西を貫く大通りまで南下したとき、アシュタヤが「いた」と痛ましい表情で囁いて来たのだ。僕は御者に停まるようお願いする。緩やかに速度を落とした馬車は道の端で停止した。


「広場、ね……ディアルタさまはそこにいるみたい」

「なるほど、待ち合わせには最適だ」やはり、僕のジョークに誰も笑わなかった。「……じゃあ行ってくるよ。鞄、ちょっと預かっててくれ。大事なものが入ってるからさ」

「私もついていく」

「いいよ、時間に余裕があるとは言えさ、早く到着するに越したことはないよ」

「ニール」アシュタヤは震える声を抑えるようにして、言った。「お願い、行かせて。見送るだけだから」


 ぎゅうっと僕の袖が握られている。アシュタヤが言い出したら聞かないことなど十分に承知していて、少し悩んだが、僕は彼女の手を取った。


「分かったよ、しょうがないな」

「ありがとう……じゃあ、マーロゥさん、ヨムギ、ちょっと待っててください。すぐに戻りますから」

「だめだよ、帰り一人になる」

「大丈夫よ、距離もそうないし、感覚を広げてたら逃げられるもの。それに……」


 アシュタヤはちらりとヨムギを一瞥する。ヨムギは拳を握りしめ、噛みきりそうなほどに強く唇を噛んでいた。全身が震えている。ディータを一目見た瞬間、どんな行動に出るか自覚があるのだろう、彼女は自分を抑えるように床板を睨んでいた。


「待ってますよ」マーロゥは肩を竦めて言う。「何かあったら声を上げてください。すぐに駆けつけるんで」

「ありがとうございます」


 僕とアシュタヤは一緒に馬車から飛び降りた。御者に頭を下げ、広場へと歩を進めようとする。マーロゥに呼び止められたのは間もなくのことだった。


「ニール!」


 扉から乗り出したマーロゥは馬車のステップに足をかけている。視線がぶつかり、わずかな間を取ったあと、マーロゥは腰に刷いている剣を抜いた。

 よく磨かれた銀色の直剣は外壁の縁から滑り込んでくる陽光を反射して煌めく。鋭い光が眼球を貫くような強さで飛び込んできて、彼が何を求めているのか気付いた。僕は引き返し、腰に提げていたナイフを手に取った。

 ロディからもらった武骨で幅広のナイフはよく手に馴染む。黒鉄といかないまでもかなり剛性の高い金属を使っているらしく、ちょっとやそっとでは折れそうにもない。そのナイフを掲げるとマーロゥはにやりと笑みを溢した。

 高い金属音が鳴る。

 刃と刃が奏でた音は澄んでいて、高らかに天へと突き抜けていった。


「絶対負けるなよ。俺だってお前に借りを返さなきゃいけねえんだからよ」

「……行ってくるよ」


 僕はナイフを鞘に戻し、アシュタヤに手を差し伸べる。掌に載った彼女の温度をぎゅっと握りしめ、二人で広場を目指した。意識せずとも歩く速度が揃う。たったそれだけのことで恐れることなど何もないように感じた。


「ねえ、ニール……」アシュタヤは遠くを見つめ、ぽつりと漏らす。「私ね、このまま逃げたらどうなるのかなって思ったりしてるの。どこか遠い土地に行って二人で暮らして……なんて」

「でも、きみはそうしない……でしょ?」

「……うん。だから私にできることは信じることだけ。また、こうして当たり前にあなたの手に触れられるんだって、信じてる。本当は離したくないけどね。それで何度も後悔したから」

「……バンザッタにいるときさ」アシュタヤと再会した夏の日を思い出す。「カクロさまに言われたんだ」

「なんて?」

「僕の〈腕〉はせっかく遠くまで届くんだから、もう二度と離すなって」

「……私の〈肌〉も遠くまで届く。そう考えると素敵ね、どこにいたってたぶん私たちはこの世界の誰よりも近い場所にいる」

「そうだよ。きっと僕たちは……これまで一度も離ればなれになったことなんてなかった。これからもだ」

「……ねえ、ニール」


 アシュタヤは立ち止まり、空いた左手で自分の腰の後ろに手をやった。ぱちんと弾けるような音がして、彼女は手を僕の方へと差し出してくる。そこには白く美しい短剣が握られていた。

 柄の部分に美しい装飾が為されているラニア家の宝剣――かつて僕を守るためにアシュタヤが汚したナイフだ。そこには武器としての雄々しさはなく、厄除けとして作られたかのような静けさがあった。


「もう血で汚すななんて言わない。どれだけ血で濡れてもいい。だから、必ず返しに来て」

「……受け取っておくよ」


 僕は彼女から渡された短剣を腰のベルトに差し込む。茶色の鞘と白い鞘が十字になるようにし、しっかりと留めた。

 もう広場はすぐそこだ。僕は一度強くアシュタヤを抱擁し、唇でありがとうと伝えた。彼女は名残惜しそうに頬を緩め、手を握る力をいっそう強くする。僕たちは同時に足を踏み出し、開けた空間へと進んでいく。

 朝の広場は静謐な空気に覆われている。数日前に載せられていた断頭台は保管場所にでも戻されたのだろうか、舞台の上にも何もなかった。

 そこで、僕はディータの姿を発見した。探すまでもない、彼女は壇上へと昇る木製の階段、そのいちばん下に腰を落としていた。膝を抱え、その中に顔を埋めている。

 ディータの様子は迷子になって途方に暮れる子どもを彷彿とさせた。寒々しいほどの静寂の底に、すすり泣くような声が、薄く、辛うじて聞き取れるほどのかすかさで這っている。


 足音に気がついたのか、ディータは顔を上げた。その拍子に、笛だろうか、首元に下がった銀飾りが揺れる。「……レプリカ。アシュタヤさまも」

「ごめん、ディータ。待たせたかな」

「ううん、待ってない……できれば来て欲しくないって思ってた」

「ディアルタさま、ニールをよろしくお願いします」アシュタヤは深々と一礼し、それから静かに告げる。「時間もないのでいきなりになってしまいますが……もし、あなたがよければこちらでは受け入れる準備はできています。きっとヨムギも喜びますよ」

「ありがとう……でも、たぶん、それはできないと思う。気持ちだけ……」

「……考える時間はあります。どうか後悔のない選択を」


 ディータは泣き笑いのような表情を見せ、それから屈んで舞台の下から金属の輪を引きずり出した。直径一メートルほどの円の内部にはいくつもの線と歪んだ文字が、これも薄く細くのばされた金属で象られている。彼女は金属製の魔法陣を地面に置き、「乗って」と僕を促した。


「じゃあ、アシュタヤ、またね」

「……うん」


 短い別れを交わすとディータが隣に立ち、詠唱を始めた。静寂の広場に歌声が流れていく。アシュタヤの見守るような視線がぶつかり――

 ――次の瞬間、目の前には鬱蒼と茂る森が広がっていた。


     〇


「ここは……」


 僕がいたのは森の入り口だった。

 人の気配はしない。あらゆる音が木々に吸い込まれているかのように音もなかった。

 遠く、四方はほとんど山に囲まれていて、唯一背後にだけ隙間が空いている。そこから道らしきものが僕の足下まで伸びてきていた。土魔法で舗装したのだろうか、ところどころにはっきりとした縁が垣間見えたが、草に侵蝕されている部分も多く、丁重な管理がなされているようには見えない。

 視線を森の方へと戻す。そこには二つの看板が立てられていた。

 一つは立ち入り禁止を示すもの、もう一つは森の名前と思しきものだった。


「……『終わりの森』、知ってるよね?」


 僕は頷く。

 建国譚に出てくる地名だ。

 かつてエニツィア・イクサクロ・レカルタはレカルタの西、始まりの草原を出発し、国々をまとめて山呑みの蛇と戦った。その決着の場が「終わりの森」である。

 ただ、詳細な場所が判明しているわけではなく、エニツィア中央部には「終わりの森」と名付けられている森が乱立といっていいほどいくつも存在していた。


「ここはギルデンス領の『終わりの森』なの。ギルデンス家はここを神聖な土地と看做して他の領地みたいに観光地にはしなかったんだって」


 しなかったのか、それともできなかったのか。

 付近の地形は、天然の要塞と言うべきか、来る者を拒んでいるようで観光地として成り立つとも思えなかった。だが、それだけに神聖な土地というのには不思議な説得力があり、僕は唾を飲み込んだ。


「……ギルデンスさんはこの中で待ってるわ。道沿いに行けば開けた場所があるらしいからたぶん迷わない」

「ありがとう。ディータはどうするの?」

「わたしはここにいる。戻ってきた方をレカルタに連れて行けってあの人と約束してるから」

「……そっか」


 僕は森と正対し、心を落ち着かせる。

 雌雄を決するときだ。三年以上前に始まった僕とギルデンスの因縁が、いや、それよりずっと以前から続いていたエニツィアとギルデンスの戦いが、ここで終わる。一つの国の行く末がこんな決闘に左右されるなんて、と一笑に付したくなる反面、ここが分水嶺であると信じる自分もいた。

 歴史は往々にしてある一人、ある一瞬が起点となって変化する。エニツィアという国然り、かつての世界然り、だ。僕が立っているのはまさに歴史の転換点に違いない。


「ねえ、レプリカ」


 暗く沈んだ声に振り向く。ディータは立ったまま俯いていて、その弱々しい姿は今にも崩れ落ちてしまいそうでもあった。彼女の頬を涙が伝い、こぼれ落ちて土に染みこんでいった。


「これ……戦争だよね……? 今、戦争が起きてるんだよね」

「……うん」

「ねえ、レプリカ、わたし、なんでここにいるの……? だってさ、ギルデンスさんは『戦争をなくす』って言ってたの! 真偽判別まで使って嘘じゃないって証明してみせて、そのためにわたし、小さい頃からすごいがんばって役に立とうとしてたの! 小さな戦いから大きな戦いが起きるんだってあの人は言ってて、本当は戦って欲しくなんてなかったけど、そうしなきゃだめなんだって言われて、好きでもない貴族の言うことに従って……なのに、どうして? ……なんで戦争が起こってるの?」


 目を逸らしそうになるのを堪える。

 ギルデンス、お前は嘘を吐いたつもりなど毛ほどもないのだろう?

 お前の目的が達成し、この国がまっさらになったら確かに戦争はなくなる。そこで起きる小競り合いはきっと戦争の定義からは外れるからだ。

 あるいはそんな小細工を労せずとも、己でかけた真偽判別などかいくぐれて当然だ。


「わたし」とディータは首元の笛を両手で握りしめ、大粒の涙を流した。「間違ってたのかなあ……レプリカ、わたし、恐い……とてつもなく大きな過ちを犯したんじゃないかって……。でもね、心のどこかでまだあの人のこと、信じてるの。心が、ぐちゃぐちゃで、どうすればいいのか、わかんない」


 ディータは蹲り、両方の掌で顔を押さえる。子どものように泣きじゃくる彼女はアノゴヨで歓声を上げていた活発な少女とはかけ離れていて、胸が痛くなった。

 かけるべき言葉がすぐには見つからない。僕はしばらく立ち尽くしたあと、できる限り優しく彼女の肩に手を添えた。たったそれだけの動作でディータは怯えるように身体を揺らした。


「ディータ、僕はこの夏、アシュタヤの父親と会ったんだ。きみと出会う少し前だ。そのとき、ラニア卿は僕にこう訊ねた」


 人間の本性は善と悪、どちらだと思う?

 彼の問いに僕は善だと答えた。善だからこそ、人はその柱を頼りに生きるのだと。

 だが、ラニアは悪だと言った。悪だからこそ、人は善を知ろうと努力するのだと。


「それでラニア卿は笑ったんだ。人は弱くて罪を犯してしまうかもしれない。でも、それで終わりじゃないんだ。善を目指す限り人のままなんだって」

「でも……でも、レプリカ、わたしのしたことは」

「取り返しがつかないかもしれない。でも、きみは多くの人が抱いている善と同じものを持ってそれをやってたんだ。きみは誰かに正されるかもしれないけれど、誰からも責められるべきじゃない」


 ディータが欲しているのは慰めや許しなどというものではない。それを理解していながら僕が与えられるのは他になかった。ベルメイアのときのように罰を与えることもできず、歯痒い思いに喉の内側が疼いた。


「わたし、分からない……ねえ、善とか正義って何? それがあるからって人を傷つけていいわけじゃないでしょ……?」


 善とは、正義とは何か。それを明確に表せるならば人が迷うことはない。

 僕もはっきりとした定義を持っているわけではなかった。あの日、もぐらとの会話のときも答えられなかったのだ。しかし、それが契機となったおかげで僕は一つの答えらしきものに辿りついていた。


「……僕が生まれ育った国にはね、エニツィアよりもずっと進んだ技術があったんだ。そこには僕よりもずっとすごい力を持った人たちが大勢いて、だから、僕たちは宗教とか法律で自分たちの下にある地面に固めた。その中で『自分』とは何かって議論が生まれたんだ」

「『自分』……?」ディータは理解できないと言いたそうに顔を歪める。「自分なんて決まってるじゃない、それが何だって言うの?」


 その『自分』という基準は様々な道徳的装置の基準となった。

 たとえば、僕の脳につけられ、ワームホールの通過とともに破損した刑罰装置。刑罰装置の作動条件は秘匿とされていたが、そこには『自分』という基準が用いられていたことは想像に難くない。

 僕はかつてカンパルツォにも同じことを語った。


「僕の生きていた世界では『自分』って言うのはこの身体の内側に留まるものじゃなかったんだ。僕という『自分』は僕だけじゃなくて、アシュタヤやヨムギ、もちろんきみも含んでいる。……僕はね、ディータ、善って言うのはそういうものを指すんじゃないかなって思う。つまり、その、誰かと一緒になろうって考えることだ。もちろんそこには守らなければいけない決まりがあって、すべてが正当化されるわけじゃないけど」


 だから――僕は立ち上がる。


「ディータ、こんなことは言うべきじゃないけれど、謝っておく。ギルデンスは僕の『自分』の中にいない。あいつは僕とエニツィアの外側にいて、その中に入ることを拒んだんだ。だから、ギルデンスは僕の敵で……許すつもりもない」


 足を踏み出す。森の中へと続く道はところどころが草に覆われていて柔らかかった。

 ギルデンス、お前は自身と僕とを同一視した。それが真実なのだとしたら、鏡のような関係性なのだろう。他者を凌駕する力を手にして、対立している。

 だが、ギルデンス、鏡の中の像には決して触れることはできないのだ。たとえ同一に見えたとしてもそこには確かな隔たりがある。

 道を進み、しばらくすると僕は決戦の場へと辿りついた。

 開けた空間の中央にギルデンスが立っている。魔法陣の刻まれた顔は喜悦に歪んでいて、エニツィアを食らおうとしている何よりもおぞましい化け物に思えた。


 さあ、もう終わりにしよう。ここはそのための場所だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る