120 絶え間ない乾杯/刃は許す

 十二月二十八日は良く晴れていた。

 日差しはすっかり春めいて、風は干したての毛布のような風合いに満ちている。前庭というにはいささか小さいもののカンパルツォの屋敷にはちょっとした芝生があり、僕はそこで寝転んで日光浴に勤しんでいた。


 アシュタヤは朝からカンパルツォたちとともに城へと赴いている。貴族としての用事と軍人としての用事の二つがあるらしかった。帯同を断られたのは彼女なりの気遣いだったのだろう。労ってくれているのは明らかだったが、寂しい気持ちがないと言うと嘘になる。

 ならば、と考えてマーロゥに目をつけたが、彼はヨムギを誘って外出すると言外に主張して譲らなかった。僕がそこに参加しなかった理由は改めて語るまでもない、拒否されたからである。


「暇だし、遊ぶとするかな」という枕詞をつけていたくせに、マーロゥは僕がついていこうとすると射竦めるような視線で睨み据えてきた。彼の眉間には渓谷のごとき深い皺が生まれていて、「ふざけるな」と今にも喚きそうなほど力強い眼力を目の前に僕は思わず言葉を飲み込んでしまった。

 飲み込んだ言葉を反芻し、口の中で噛み砕いて何とか別の言葉――「あ、今日やることあるんだった」という情けないもの――に変換する。すると、マーロゥは途端に上機嫌になり、ヨムギを誘ってさっさと出て行っていった。

 彼の感情を理解できないほど鈍感なつもりもなく、何も言わずに送り出したが、手持ち無沙汰であるのは変わりない。時間を持て余すのも憚られ、本でも読もうかとしていたとき、ベルメイアに声をかけられた。


「ニール、ちょっと付き合いなさいよ」


 誘われ、ついて行った居間のテーブルには表裏を別の色で着色された木の板とサイコロ、駒が転がっていた。どうやら貴族の子女の間で流行しているゲームらしい。特にやることもなかったため興ずることになったが、僕にはどうも向いておらず、ベルメイア、エルヴィネ、マイラと立て続けに敗北したところで自主的に退散することにした。

 それからは芝生の上、だ。屋敷の中からは彼女たちの声が、エルヴィネが一、マイラが一、ベルメイアが八くらいの割合で聞こえてきていた。


 とはいえ、ぼんやりと雲を眺めているのも悪くはない。じっくりと日光を浴びていると身体の中が消毒されていくような気さえする。目を瞑ると血の赤さを感じ、寝返りを打つと筋肉の柔軟性を感じた。

 そのうちに睡魔が風に乗って僕の胸の上へと降り立った。睡魔は暖かな陽光を手と変えて身体を撫で、柔らかな春風を子守歌に変えて僕を心地よい微睡みへと鎮めていく。

 そんな安らかな時間が引き裂かれたのは太陽の傾きがはっきりとし始めた時間帯である。


     〇


 突如として降ってきた「ただいまあ!」という底抜けに明るい声に僕の身体は強く震えた。

 目を開けるよりも早く身を起こす。すると、その瞬間、額に硬い感触と激痛が走った。「いったあ!」と涙声が目と鼻の先で弾け、誰かに覆い被さられていたことに気がついた。


「ちょっと、ニールちゃん、ひどおい! 頭突きしないでよ、こぶになるじゃない!」


 涙目で喚き立てるレクシナは必死になって額を擦っている。その様子を眺めながらセイクとヤクバが愉快そうに笑っていた。


「治してもらえばいいじゃねえか」

「いや、こぶがあったほうが美人かもしれないぞ」

「え、そーお?」

 現実感がどろりと溶けていく。必死に状況を整理しても散らかった思考は片付きそうにもなく、僕は考えることを諦める。「……三人とも、何してるの? 護衛は?」

「やることないから帰ってきちゃった」

「は?」

「とりあえずさ、あたしのおでこ撫でてくれない? ちょっと本当に痛い」


 僕は地面に尻をついたまま、手袋を脱ぎ、唇を尖らせるレクシナの額に〈腕〉を当てる。治癒魔法陣に少しばかりのエネルギーを送ると彼女の額の赤さは見る間に消えていった。

 一応、自分の額も治しておいて僕は訊ねる。


「それで……どうしたのさ? くび?」

「ここで馘になったら俺がエニツィアを滅ぼすな」

 セイクは鼻で笑ったが、冗談にしては不謹慎だ。「時と場合を考えようよ」

「馘になったわけでも逃げ出してきたわけでもないぞ」ヤクバは勢いよく地面に座る。その拍子に背中に背負った逆三角形の盾が地面に刺さる音がした。「カンパルツォ伯やアシュタヤちゃんはやることが多いらしくてな、そのくせ俺たちにはやるべきことがない」

「そしたら、ウェンビアノくんが帰っていいって」


 レクシナが喜色満面にそう補足する。示し合わせたように頷き合う彼らの表情に心配が湧きあがった。

 すなわち、今夜は何時にベッドに入れるか、という心配である。それが杞憂に終わるわけもなく、セイクが顎で促してきた。


「ってことでよ、座ってねえで立てよ。飲みに行こうぜ」

「そう言うと思ったよ。でもさ、今、酒場なんてやってるの?」


 僕の消極的な反対にも彼らは動じない。「どこにでも商魂たくましいやつはいるんだ」とヤクバが笑い、レクシナが「やってなかったらいろんな家回ってお酒集めればいいじゃん」と提案する。渋ってはみたものの、はいそうですか、と諦めてくれるはずもなく、僕はセイクに腕を掴まれ、無理矢理に立ち上がらされた。


「マーロゥとヨムギも連れてくぞ。どうせ中にいるんだろ」

「あ、いや、二人は出かけてる。逢い引きだよ」


 それに対する反応は三者三様だった。レクシナは「へえ」とにやけ、セイクは「何だと」と声を荒げ、ヤクバだけは考え込むような素振りで黙ったのち、こう口にした。


「あいびき、か、洒落てるな。最後には肉が混じると」

「うるせえよ、色ボケハゲ」

「針と糸あったよね、口縫い合わせようよ……あ、そうだ」


 何か思いついたのか、レクシナは屋敷の中へと駆けていく。「本当に持ってくるんじゃないだろうな」とヤクバは戦々恐々としていたが、しばらくして戻ってきたレクシナの手には針も糸もなかったため、彼はほっと溜息を吐いた。

 一方で言葉をなくしたのが、僕だ。

 自分の顔が引き攣っているのが分かる。僕は思い直させようと何とか声を出した。


「ちょっと、レクシナ、冗談がきついけど」

「冗談?」と彼女は首を傾げる。しらばっくれているような雰囲気はまるでない。「あたし、今面白いこと言った?」

「いや、あのさ、後ろにベルメイアさまがいるんだけど」

「ちょっと、ニール、あんたが呼んだんでしょ?」

「ベルメイアさま、騙されてますよ」

「はあ? なに言ってるの?」


 用件は何だ、とベルメイアはさらに僕の元へと近づいてくる。レクシナは逃がすまい、とその背中を押していて、いつの間にか僕の両脇にはヤクバとセイクがついていた。口を塞がれ、「逃げろ」と叫ぶこともできない。〈腕〉で振り払うべき事案ではないのかと思案したが、少し考えるとすべてが面倒になった。

 状況を把握できていないベルメイアと諦念に項垂れた僕をよそに三人は勝手に盛り上がり始めていたからだ。


「さすがレクシナ、いいつまみを持ってきたな」

「でしょお? この日を楽しみにしてたんだあ。マイラちゃんとエルヴィネちゃんが来ないのは残念だけど」

「あの二人連れてきたらウェンビアノとフェンに大目玉くらうっつの」


 大丈夫、と僕は心の中で呟く。

 どちらにしろ僕の密告により大目玉はくらうことになるから。


     〇


 酒場までの道中で胸がざわつくものを目にした。

 広場を歩いていたときのことだ。その頃にはベルメイアは自分がどこに連れて行かれるのか理解していたようで、大きな嘆息を繰り返していた。だが、その吐息には初めての経験に興奮する冒険心が滲んでいて、もはや僕は口にすべき忠言を失ってしまった。

 前を歩く四人の足取りは軽い。最後尾を歩く僕は言い訳を考えつつ、小さな違和感を覚えていた。


 何かが足りない。その正体が分からず、辺りを見回すと見慣れないものが広場の北側に鎮座しているのに気がついた。

 大きな舞台だ。

 高さは人の胸元ほどもあり、横幅も二十メートルはあるだろうか。いつできたのだ、と記憶の中を探り、そこで、ああ、と唸った。金槌の音がないのだ。もぐらと会ったときやアシュタヤと出かけたときにあった高らかな金属音が消えている。


「あのさ」

「どうしたのお?」

「気になってたんだけど」舞台を指さして訊ねる。「あれ、なに?」

「あれ……ああ、そっか、ニールちゃん、建国祭来たことなかったっけ。そのときに使うの。すごいよー、この広場、ぎゅうぎゅう詰めになるんだから」

「へえ、陛下が演説したりだとかそういうの?」


 セイクとベルメイアは何か盛り上がりながら先に進んでしまっていて、僕の質問に答えたのはヤクバだった。彼は少しだけ意地の悪い顔をして、ぴんと人差し指を立てた。


「それもあるが、いちばん盛り上がるのは『死刑』だな」

「え」


 脳裏に野蛮な光景が浮かんだ。

 罪を纏って重量を増したギロチンと拘束された罪人。ストッパーが外され、巨大な刃が首を刎ね飛ばし、広場を埋め尽くす市民たちが喝采する。

 自分で作り出した幻に、立ちくらみしそうになった。

 しかし、どこかで聞いたことがある。

 公開処刑とは比類なき防犯装置であると同時に究極的な娯楽なのだ、と。

 罪に対する罰の存在を知らしめ、明瞭な視覚的刺激を提供する。僕がかつていた国ではずっと昔に廃止された制度だが、エニツィアではまだその議論がなされるほど文化や人権が熟成されていないのだ。無理もないが、胸が締めつけられた。


「毎年、何人かがあそこに昇るんだ」そうヤクバは続けた。「人数は決められてないが、最低でも一人は」

「ねえ、いいからさ、早く行こ。セイクたち見えなくなっちゃうよ」

「おいおい、気の利かない奴らだな」


 歩き始める二人の姿に視線が戻らない。僕は木材で作られた死刑台を凝視する。

 その脇には大勢の男たちがいた。彼らはせえの、という掛け声とともに巨大な断頭台を舞台へと乗せている。一つが終わると、もう一つ、合わせて二つの執行装置がざりざりと不快な音を立てて舞台の中央に運ばれていった。

 運搬に関わらない者は舞台の下で集まり、馬の後ろにくくりつけられた荷台を覗き込んでいる。一人がその中に手を突っ込み、中の荷物を引っ張り出した。出てきたのはてるてる坊主を思わせる、白い人形だった。試験にでも使うのかもしれない、雑な作りではあるが、そこには首があった。

 断ち切られるための、首が。


 僕は最後まで見ていることができず、ヤクバたちを追いかけることにした。深く考えても仕方がない。恐くないと言うのは嘘だ。けれど、その感情を忘れることはできる。

 走りながら喉の渇きを意識して、酒の味を想像する。甘い果実の味を思い浮かべ、舌を夢想の中につけ込む。そうしなければ得体の知れないものに飲み込まれてしまいそうだった。


     〇


 ベルメイアは果実酒を口に含むと眉根を寄せて長く唸った。


「年上の男の子がよくお酒の話をするんだけど、これ、そんなにいいものなの?」

「飲んでるうちに分かる」酒の権威たるヤクバは木のジョッキを傾け、それから慇懃に語り始めた。「よろしいですか、ベルメイアさま。酒は友であり、家族でありますが、同時に我らの主君であるのです」

「ねえ、レクシナ、ヤクバはなにを言ってるの?」

「無視した方がいいよー。意味ないから」

「ベルメイアちゃん、いいから聞くんだ。セイク、ニール、お前たちからも言ってやれ」

「何食う? 俺、腹減ってんだよ」


 軽やかにヤクバを無視するセイクの横で、ベルメイアは自分の味わったものの正体を確かめるように再びグラスを傾け、今度は首肯を繰り返した。旨いとは断言しないが、まずいわけでもないようで、彼女は「不思議な味ね」と色づいた液体を興味深そうに覗き込んだ。差し込んできた斜陽があぶり出すようにその色味を濃くしていた。

 こぢんまりとした酒場はテーブルがほとんど埋まっていてほどほどに騒がしかった。脳天気なのか、それとも脳天気であろうと振る舞っているのか、笑い声があちこちで上がり、絶えそうにもない。


 客たちは時折ちらちらとこちらを覗いて、そのたびに頬を緩めた。視線の先にいるのはベルメイアだ。

 何で子どもが? という疑問は込められていない。彼らの瞳にあったのは有名人を目にしたことへの喜びだった。

 国王の名は知らなくてもベルメイアの名を知らない者はいない――とまではいかないが、彼女の名前と顔は僕が考えているよりもずっと知れ渡っていた。


 貴族も平民も関係ない。

 ベルメイアはカンパルツォやアシュタヤからの教えを忠実に守っていたそうだ。平民と一緒になって遊ぶ貴族というのはあまりに珍しく、彼女はあっという間に有名になったそうだ。レカルタの職業斡旋所を開設したのがカンパルツォであることも知られていて、今では一種のマスコットガールと看做されているらしい。

 いざとなれば魔法を使って身を守ることができ、かといって傍若無人というわけではない。弁も立つし、容姿も美しい。

 いつしかベルメイアは同世代からは憧れられ、大人たちからは愛でられる存在となっていた。軍人たちの間にはファンクラブめいたものすらあるという。なんだか浮き世離れした話ではあるが、事実には違いない。僕たちがなかなか酒場に辿り着けなかった理由に鑑みれば疑問に思う余地はなかった。


「それにしても」とベルメイアは紅潮した顔を僕へと向ける。「まさか、ニールとお酒を飲むなんて考えたこともなかったわ」

「ベルちゃん、あたしは?」

「レクシナにはいつか飲ませられると思ってた」

「僕はベルメイアさまがお酒を飲もうとするなんて思いもしませんでした……気をつけてくださいね、飲み過ぎると身体に悪いですから」


 もっと大人になってから、と言うには相手が悪すぎる。そう忠告したが最後、目の前にいる三人はくだらない説教を始め、ハイペースの飲酒を強要するだろう――僕に。今日だけは確実に防波堤とならなければならないため、それ以上の勧告を取りやめた。


 やがて料理が到着し、それにつれ酒の量も増えていった。三人は考えていないようで考えているのか、僕の時のようにベルメイアの前へと酒を運ぼうとはしなかった。心配をしているというよりかはいやな記憶にしないための配慮に思えてならない。蜘蛛のように獲物を絡め取り、仲間を増やす算段なのだろう。

 そのうちにベルメイアは用を足しに席を離れた。レクシナがだらしない顔つきで彼女のあとを追う。護衛としての意識はあるのだな、と感心していたところでヤクバが僕の名を呼んだ。

 酒気を感じさせない、低い声だった。


「……ニール、ギルデンスとやるんだってな」

 僕は一瞬固まり、手に持っていたジョッキをゆっくりと机の上に置いた。「聞いたんだ? ……まあ、そうだよね」

「カンパルツォ伯もウェンビアノさんも大事なことは隠さない。俺たちはお前よりも付き合いが長いしな」

「だから、今日、帰ってきたの? 励まそうと」

「馬鹿言うなよ」セイクは肉を咀嚼しながら鼻を鳴らした。「俺は不満なんだよ。貧弱ニール坊やがまたなんかやらかそうとしてるからよ」


 あまりの罵倒に僕は思わず噴き出す。だが、笑ったのは僕だけで、二人は表情を変えていなかった。


「まあ、話は詳しく聞いたんだ、お前が一人で行かなきゃいけない理由ってのとかよ。だから別に止めるつもりもねえ。だからって期待してるわけでもねえけどな」

「少しくらいはしてくれてもいいけど」

「言っておくけどよ、お前がおれたちの命運を握ってるとか、間違っても思い上がるなよ? お前が負けても俺たちがギルデンスを殺すし、戦争も勝つから問題ねえ」

「ひどいなあ」

「何にせよ」ヤクバは微笑みながら僕の肩を叩いた。「お前が気負う必要はない。負けると思ったら逃げろ。そう言われているだろう?」


 逃げるという選択肢。

 それは今の僕には現実感のあるものではなかった。逃げ切れるか、という点は別にして、逃げることで何か得られるなどとは――

 ――そこまで考えたとき、僕の口から笑いが漏れた。


「なに笑ってんだよ」

「……いや、何でもないよ」


 脳裏に去来していたのはバンザッタでの記憶だ。

 逃げることと守ることは相反するものではない。思い返せばあの頃からカンパルツォはそう諭してきていた。

 たとえ生き長らえたとしても恥じることだけはやめよう。

 僕が逃げることで何かを守れるのなら、逃げてもいい。そう考えると胸の中に居座っていた重いものが消えていく気がした。


「じゃあ、いざというときは逃げることにするよ」

「いや、いざというときは逃げるなよ」セイクが頬を緩める。「逃げるのはやばいときだ」

「ニール、俺たちにできるのはここまでだ。だから、さくっと勝って浴びるほど酒を飲むぞ」


 ヤクバがジョッキを掲げ、僕たちは杯をぶつけ合う。帰ってきたレクシナが「あたしもやるう」と駆け寄ってきて机の上のグラスを二つ手に取り、一つをベルメイアへと渡した。五つの杯がぶつかり、音を立てる。

 何度でも僕たちは友達になれる。それがとても幸福だった。

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