122 どうか愚かな者どもに喝采を

 木々の隙間から漏れてくる太陽の光は空気を暖めるには弱く、薄い朝靄が広がっていた。目の前にある直径三十メートルほどの空間、そこには一切の木がない。横たわる静謐さには神聖性とともに不気味さが混じっている。化け物がねぐらとしていたかのような不穏な気配を感じた。

 中央に立つギルデンスも僕の姿を認めたようだ、深く被ったフードで表情が隠されていたが、緩んだ口元が垣間見えた。


 彼は静かにその黒いローブを脱ぎ去る。

 裾の縛られた土埃色のズボンと袖のない黒いシャツ。露わになった両腕は赤黒い魔法陣が覆われていて、細身の印象とは裏腹に筋肉には確かな隆起がある。手に握られているのは黒鉄製の筒だ。片手に各々一本ずつ、長さ一メートルほどの黒い金属は武器と呼ぶにはあまりに素朴な作りではあるが、その先端からは暴力的な気配が溢れていた。


「初めて会ったのはバンザッタだったな……」


 ギルデンスの静かな声は不思議なほどに明瞭とした輪郭を保って僕のもとへと届く。その穏やかさは聞く者によっては魅力があるのかもしれない。超人間的な資質を感じさせる揺るぎなさは彼の言動が毒であるとを気付かせないほどに、甘く、強い。


「あのときから予感はあったのだ。ニール、お前は魔法とはかけ離れた力を持ち、そして、この世のものとは思えないほど空虚だった」

「……認めるよ。でも、今は満ちている」

「だろうな」ギルデンスはそれが喜ばしいことのように肯定する。「お前が詰め込んだのはこの国の魂だ。お前は一歩この地を歩くたびにエニツィアという化け物の魂を吸収していった。……私は嬉しかった。お前が傭兵として戦い、成長し、名前が轟いていくことで名実ともに化け物をその身に宿していくように思えたのだ」


 ギルデンスの顔は歪んでいる。それが笑みと呼べるものなのか、僕にはもはや判別すらできない。


「随分……随分、身勝手だな。その論理で言えば僕よりもそこらにいる人のほうがよっぽどエニツィアと触れ合ってきただろ」

「生きた時間など問題ではない。決定的な違いはお前がこの世界の外からやってきたということだ」


 心臓が跳ねた。

 驚愕が湧き、口から漏れそうになるのを必死に留める。ギルデンスの目には人の内側を透かすような歪な輝きが満ちている。僕はその圧迫感を堪え、睨み据えた。


「……いきなり何を言ってるんだ?」

「三年前の秋――バンザッタに現れるまでお前はどこにもいなかった。エニツィアで金の髪の人間など数えるほどしかいない。だが、どれだけ調べてもお前を知る者にいきあたることはなかった」


 僕がどこから来たのか、はっきりとした確信を持っているようではない。当然だ。この世界には二つの世界を繋ぐ主導権はない。別の世界が存在するなど誰が考えると言うのだろう。

 かすかな安堵を見咎められないよう、軽く息を吐く。

 初めからそんな些細な反応を見るつもりがなかったのか、ギルデンスは構わず続ける。


「しかし、だからこそお前の存在が何なのか……私は確信を抱いた。ニール、お前はエニツィアが生み出した器だ。それだけですべての説明がつく。形のない化け物が、人という器を獲得して目の前に現れたのだ……これほどの興奮は存在しない!」

「……僕にとってはお前こそが化け物だよ。お前の中では筋道が立っているかもしれないけど、理解できない。ただの戯れ言だ」


 彼の身体には隙間がないほどの魔法陣がある。身体に刻まれた魔法陣は獣性を高める。獣性に焼かれた精神は戦いを求める。

 きっとギルデンスは遠い昔にもう取り返しのつかない身体になってしまっていたのだろう。戦わなければいけないという錯覚が染みこんでもう離れない。

 しかし、同情などなかった。

 ギルデンスが僕のことを調べたように、傭兵に身を窶しているとき僕もギルデンスのことを調べたからだ。知れば知るほど、彼がどんな存在か分かっていった。

 その内側にあるのは生来の獣性だ。

 ギルデンスは身体に魔法陣を刻んだから狂ったのではない。狂っていたから身体に魔法陣を刻んだのだ。

 先天的な悪意――彼はなんら良心の呵責なく生きてきた悪意の塊でしかなかった。


「ギルデンス、最後に一つ、聞いておく」僕は静かに息を吐く。「……お前の目的はそれだけなんだな? たとえば……ディータに語ったように『この世から戦いをなくす』などとは一匙ほども考えていないんだな?」

「……くだらないことを口にするな。人は身を守るために寄り添う。それが既に戦いの始まりだ。人の中には生まれついて戦う意志がある。『戦いをなくす』だと? 人は往々にしてそう言うが、なんと愚かなことか。そうして己に牙を立てる化け物を育んでいる……」


 ギルデンスの瞳は透き通っている。その黒さは夜の闇よりも深い。


「私はすべての戦いを食らうために生まれた。生きることが戦うことだと知っている、この世でもっとも人間らしい人間だ」

「……安心したよ」

「今さら何に安心するというのだ? お前も私と同じだ。『守る』などと言葉遊びに興じたところで意味がない。お前は私を殺すためにここにきた。私を殺さねばエニツィアを守れない。戦場に戻れたとしてもやはり戦うしかない。お前も私も、すべての人間は同じだ。戦うことを――暴力を手に取ることを義務づけられた生き物。それを私たちは他の誰よりも知っている」


 僕はゆっくりと首を振り、右腕を顔の前に掲げた。祈るように左手を右手の指先へと近づける。柔らかな布地を摘まみ、引き抜いていく。

 露わになった若草色の〈腕〉が僕の感情に呼応して暴れる。足下に漂う靄が払われ、かすかに冷たい感触がした。


「ギルデンス、お前がすべて間違っているとは思わない。この世から戦いはなくならないし、人には生まれついて戦う意志がある……それは僕も同意見だ。でも、『戦いをなくす』って考えることはくだらなくなんてないんだ」


 僕の戦う意志にギルデンスが反応する。彼の腕に刻まれた魔法陣が薄く発光する。

 ――ギルデンス、僕とお前は違う。

 それを確信できただけで僕の内側に喜びが流れていた。


     〇


 地面を蹴ると同時に四発、衝撃が走った。前方に展開した〈腕〉の盾にギルデンスの放った水弾が衝突したのだ。直撃すれば肉を根こそぎ弾き飛ばすような水圧が〈腕〉を揺らす。飛び散った水飛沫が陽光を取り込み、水の粒子が光となって煌めいた。

 まずは間合いの中に入らなければならない。十メートル、そこまで接近しなければまともな攻撃はできないのだ。


 おおよそ十五メートルの距離。僕は追い、ギルデンスは逃げる。

 その間も彼の腕に刻まれた傷は発光を続けている。遠いどこかから呼び寄せられた水は黒鉄の内部に流れ込み、極限まで水圧を高められた上で解放される。黒々とした穴、水弾は再び四発、僕が展開している〈盾〉にぶつかり、弾けて消えた。

 ギルデンスの放つ水弾は一発が重く、強かった。これまで経験してきた攻撃の中でも飛び抜けた威力だ。しかし、狼狽するほどではない。僕の〈腕〉にはまだ十分な余力があった。


 問題は距離だ。

 単純な脚力では僕はギルデンスに劣っている。どれだけ接近しようとしても、彼との距離はボルトで締めつけられたかのように一定を保ったままだった。

 舌打ちをする。

 僕のことを調べたというのは出自などに留まらないのだろう。ギルデンスは完全に僕の間合いを把握していて、その攻撃には十メートル圏内に足を踏み入れさせまいという意志を感じた。


 一対一と一対多では根本的に戦い方が異なる。

 前者の経験が数えるほどしかない僕と違い、ギルデンスの戦い方には慣れと統制が存在していた。どの距離でどの魔法を放つか、追ってくる相手からどのように遠ざかるか、それらの一切に厳然たるルールが敷かれているのが歴然としている。

〈腕〉を振るうが、ほとんどが機械的にいなされ、効果を及ぼさない。

 繰り返し発射される水弾は尽きる気配もなく、撒き散らされる飛沫の影響か朝靄がより深くなり始めていた。

 どれだけ追走を続けても彼は涼しい表情を崩さない。背走し、横に跳び、間断的に攻撃を仕掛け続けてくる。四発、間を置いて、四発。僕が攻撃に転じようとするたびに角度を変えて、隙間と呼べないような隙間を狙ってきていた。


 苛立ちが募る。

 近づけない不甲斐なさに、ではない。見くびられていることに対して、怒りを覚えた。

 ――罠のつもりだろうか。

 彼の攻撃は決まって四発、まるで一度に放てる水弾がそれだけだと誇張するような規則性を、徹底的に維持していた。

 騙されるはずがない。

 騙されるはずはないが、しかし、このままでは埒が明かないのも事実で、僕は嘆息とともに立ち止まった。それに合わせてギルデンスも足を止める。彼は余裕の態度のまま、手の中で黒鉄の筒を回転させた。


「さて、準備運動は終わりか?」

「ああ……そろそろ身体が暖まってきた」

「安心したぞ、これ以上お遊びに付き合わされていたなら失望するところだった」

「謝るよ、ギルデンス……もうやめだ」


 これからが本番だ。

 僕は〈腕〉を薄く広げ、身体に纏う。全身を覆う若草色の膜は視界までをも染め上げていく。

 サイコキネシスによる運動補助――それは僕の到達点の一つだった。

 この世界に来てから僕の超能力は大きく変化した。成長というべき側面もあれば劣化としか言えない部分もあり、また、どれだけ努力しても変わらなかったものも存在する。

 サイコキネシスの分化――僕は今なお特定のベクトルかあるいは特定の物質に対してしか働きかけることができない。操作技術の向上で擬似的な解決が可能になったものの、しかし、それは集中力と洞察力という不確かな要素に左右される危ういものだった。


 超能力養成課程の同級生たちはサイコキネシスを身に纏うことを『鎧』と称した。外部からの攻撃を弾き、運動能力を向上させる。だが、僕の力では『鎧』を纏えない。

 これは諸刃の剣だ。防御を捨て、ただ速く動くためだけの、単純な等価交換。

 それでも、僕は躊躇しなかった。


 合図など、いらない。

 膝を曲げる。靴を通して地面の確かさが伝わる。太腿の筋肉が隆起し、それに伴い、身体を覆うサイコキネシスの力強さが増す。

 ――攻撃の間合いに到達する。

 僕の一歩は五メートルを超え、一瞬で距離をつぶしていた。ギルデンスの顔色が変わり、筒の照準が僕の顔面へと合わせられる。同時に無理矢理に身体を捻った。

 右の耳元で空気が削られる。二発目が頬の横を走って行く。次に発射された水弾は左耳を掠め、皮を数ミリちぎり取った。


 痛覚など、忘れろ。

 加速中の相対速度ではもはや彼の攻撃を目で捉えることはできない。だが、移動と体勢の変化は可能だ。僕は身体を横倒しにし、四発目を躱し、右足で地面を蹴った。

 圧縮された距離は五メートル――身体から〈腕〉を引き剥がし、〈拳〉を形成した。

 奥歯を噛みしめる。全身が緊張する。

 ギルデンスの胴体目がけて放った渾身の一撃は、確かな手応えを僕に与えた。硬い感触が右肩にまで突き抜ける。


 だが、それだけだった。

〈腕〉が触れているのは交差した黒鉄の筒――人間の腕で止められるわけがない、そう考えると同時にその正体を認識する。

 黒十字とギルデンスの胸との間には水の輪が浮かんでいた。耳の先から溢れた血が〈腕〉の運動エネルギーに乗り、水の輪の中へと飛び込む。一滴の血液は即座に攪拌され、消えた。


 水流だ。

 垂直に立てられた輪は黒鉄に接する点で僕の〈腕〉を押し返していた。押し戻された水は外周を通り、勢いを保ったまま再度対抗するエネルギーとなっている。

 押し切れるか、判断がつかない。

 その一瞬の迷いは僕とギルデンスの間に十五メートルの空間を与えた。咄嗟に〈腕〉を突き出すが、容易く躱される。水流を自分へと当てて飛び退いた彼は待ち望んだプレゼントを与えられた子どものように歪んだ笑みを浮かべていた。


「そうでなくては……」


 脳を刺した危機感に咄嗟に横へと跳ねる。同時に足下の草が鈍い音を立てて土もろともに弾けた。

 ――〈拳〉ではだめだ。

 一発当てて動きを止めようなどと考えたのが間違いだった。

 おそらくギルデンスは僕以上に対策をしてきているだろう。それが今の防御法だ。好機を生かし切れなかったことに、強く歯噛みする。

 もっとだ。もっと接近しなければならない。人の速度には限界がある。だが、サイコキネシスの速度には理論的限界はないのだ。

 人間である以上躱せない速度まで高めればいい。

 攻撃を読まれるならば防御できない角度で攻撃すればいい。

 僕がしなければいけないことなどあまりに単純な動作だった。


 動き始めた一瞬、ほぼ間断なく水弾が三発、発射される。僕は跳び上がり、〈腕〉を前に突き出す。四発目を弾き飛ばし、着地と同時に再び身に纏う。後方で木々が折れる轟音がこだました。

 動く方向を予測させないよう、僕はできる限り不規則に地面を蹴る。右から回り込み、左へ跳ね、直進し、もう一度左へ、そこで一歩後退し、気勢を削ぎ、再び突進する。ギルデンスが逃げながら放つ水弾は時折僕の肌を掠めたが、直撃はしなかった。

 じりじりと距離が詰まっていく。

 十メートル圏内に入り、さらにもう半歩近づこうとした瞬間、突如としてギルデンスの動きが止まった。

 黒鉄が交差していない――チャンスだ。〈腕〉を掲げ、槍へと変える。


 一撃で決めてやる――

 そう考え、貫こうとした矢先、心臓を鷲づかみにされた。

 全身の皮膚が粟立ち、冷たい予感が背筋を伝う。ギルデンスの鋭い眼光が胸の中央に突き刺さっている。

 遅れて、いつの間にか距離を詰められていることに気がついた。

 本能が「逃げろ」と叫ぶ。理性が「攻撃しろ」と喚く。

 恐慌状態に陥った身体は理性の命令に従って動いた。槍となった〈腕〉が視認できるはずのない速度で空間を貫く。


「――な」


 声がぽかりと宙に浮かぶ。脳が感覚を処理できない。目の前の光景に、僕の思考は断ち切られていた。

 見当違いの方向に逸れた〈腕〉を呆然と眺める。その瞬間、視界の隅に恐怖が過ぎり、僕は咄嗟に左腕で身体を守った。

 衝撃と痛覚が弾ける。肉のつぶれる感触と骨が折れる音が伝播し、激痛に喉が締め上げられる。

 勢いそのまま身体が倒れかけたとき、世界が停止した。

 黒い穴が僕の顔面に向けられている。


 翻った危機感は意識よりも素早く、〈腕〉を自分の身体へと叩き付けた。車に激突されたかのように僕は宙を滑り、何度か跳ねたあと、木にぶつかって動きが止まった。ギルデンスとの距離は二十メートル以上離れている。慌てて〈腕〉を展開したが、水弾が放たれることはなかった。

 何が起きた?

 脳裏にはその疑問だけが駆け巡っている。


「どうした?」ギルデンスの声はざらついて、心をやすり上げるかのようでもあった。「攻撃が命中しなかった経験くらい、あるだろう?」


 違う。

 胸がざわつく。今のは「命中しなかった」などという消極的な事態ではない。ギルデンスがしたのは明らかな防御だった。

 まさかと思い、確認するが、当然にギルデンスには幽界との繋がりを示す紐帯などない。

 思考が囚われかけた瞬間、前方で靴の音が鳴った。僕は我に返り、森の中へと飛び込んだ。走るたびに完全に折れた腕の内部で肉と骨が擦れ、激痛が弾ける。治癒魔法陣にエネルギーを送り込む。


 落ち着け……落ち着け! 思うだけでは不安を取り除くことができず、口に出して反復する。「落ち着け!」

 必死に今し方起きたことを整理する。

 僕の〈槍〉を受け流したのはギルデンスの持つ黒鉄だった。直線的な攻撃は横のエネルギーに弱い。それは理解できる。戦争の最中、槍に対してそういった防御をしていた兵士は何人も見てきた。ギルデンスほどの人間ならどれだけ速い攻撃でも対応できる可能性はあるだろう。


 先端が接触した瞬間に筒を回転させ、切っ先をずらす。

 僕の〈腕〉が物質を透過できない以上、不可能ではない動作だ。

 だが、どうやって?

 この世界で僕の〈腕〉が見えるのはアシュタヤだけだ。それに槍へと変えた〈腕〉の先端はマイクロメートルの世界で、完璧に受け流すには予測などという曖昧な感覚では為し得ない。ましてやギルデンスには――動きを感知できたとしても――〈腕〉の形は見えていないのだ。

 打撃と斬撃の区別などつくはずがないのに。

 僕は木の陰で息を殺し、左腕の治療を続ける。痛覚の針は徐々に折れ、溶けていく。だが、心を刺す鋭利な感覚は消えない。


「僕の〈腕〉が……見えているのか?」

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