118 平坦な世界/雨粒は決める

 十二月二十四日、この日は明け方から雨が降っていた。雨粒は小さく、風もなかったが、その分いつまでも降り続くような執念深さを感じた。上空の暗雲はだらしなく伸び、天に寝そべったまま動く気配はなかった。

 一方で激しく降り注いだのがエニツィア軍人への辞令である。その対象はレカルタの内外に駐屯する軍人はもちろん、貴族の護衛についている者にまで拡充されていて、貴族地区に出入りする人口は日に日に減っていった。


 もちろんそれは軍人への辞令だから僕たちに対しては別段大きな影響力はない。

 影響を及ぼしたのは今節になってすぐ公布・施行された様々な戦時特別条例の方である。その条例には私的に雇っている護衛に関する規則が盛り込まれており、護衛体制の再編が促されることになった。


『五人以上の者からなる私兵は軍団と看做し、王国軍がこれを四人となるまで預かるものとする』


 つまり、戦力となる者は四人しかそばに置けないという条文である。

 カンパルツォが抱える護衛は数の面ではかなり小規模ではあったが、軍人である僕とアシュタヤを含めると八人になってしまう。そのため、ウェンビアノの提案で護衛団は名目的な分割がなされた。

 カンパルツォの護衛にはフェンとヤクバ、セイク、レクシナが残り、マーロゥとヨムギはベルメイアの護衛だ。当然、ウェンビアノも守るべき対象であるため、フェンたち四人は彼の護衛も兼ねている。

 しかしながら、水の形が器に左右されるように、名目が変わったことで僕たちの生活にも変化は生じた。その代表的なものの一つが音である。


「まったく、あいつらがいないと静かでいいわね」


 雨の音が響くようになったホール、正面の大階段の脇にあるソファに座ったエルヴィネは伸びをしながらそう言った。

 外出を許されていない彼女は朝起きて、昼まで本を読んだあと、室内でできる運動をし、再び本を読む、という生活を送っている。近く始まる戦争で大きな役目を任せられているとはいえ、彼女の時間の使い方は誰よりも貴族然としていてふてぶてしい。不満を言うつもりはなかったが、ずぶ濡れで帰ってきた僕たちには「優雅ですね」と皮肉を投げつける権利くらいはある気がした。


「伝えておきますよ、エルヴィネさんが寂しがってたって」

「やめてくれる? たぶんあいつら本気にするから」


 出迎えてくれたマイラからタオルを受け取り、身体を拭う。吸湿性の悪い布地ではいくら拭いても意味がなく、それをいち早く察したヨムギは雨除けの上着をマイラへと預け、エルヴィネを睨んだ後、さっさと浴室へと向かっていった。


「アシュタヤさまも入られたほうがいいですよ」マイラは慣れた手つきでヨムギの上着を桶の中に入れる。「湯を沸かしておきました。お着替えも用意してあります」

「ええ、ありがとうございます、そうしますね」

「俺もそうするか。身体を冷やすといけないしな」


 マーロゥは至って真面目な顔つきだ。僕は濡れてへばりついた手袋を剥がすように脱ぎ、火の魔法陣へエネルギーを送り込んだ。マーロゥの尻の辺りで火が爆ぜる。彼は珍妙な奇声を発して飛び上がり、僕へと恨みがましい視線を送ってきた。


「おい、何してんだよ」

「逆の立場なら関節極めるでしょ」

「馬鹿野郎、一緒に行くに決まってるだろ」

「随分余裕ね、あんたたち」エルヴィネは読んでいた本を閉じ、溜息を吐き出す。「本当に戦争あるのか不安になるんだけど」

「あるから今まで雨に濡れてたんじゃないですか」


 僕たちがわざわざ朝から外出していたのは戦争の準備に勤しんでいたからである。

 人手はどれだけあっても足りないし、貴族地区には変わらず警備が置かれているため屋敷の中でベルメイアの護衛を全うする必要もない。自由に動けるアシュタヤの立場を存分に利用して、軍馬の準備や兵糧の管理を行っていたのだ。


「エニツィアの人間全員がグルになって」マーロゥは上着を脱ぎながら気障ったらしく言う。「エルヴィネさん、あんたを騙しているとでも?」

「それなら今すぐにでもここから出て行くわね」

「外は雨ですよ、クラオクラリさん」


 マイラは柔らかくそう言って、濡れた上着を渡すようにと僕とマーロゥへ催促してくる。その様はやはり戦争とはかけ離れた安穏さに満ちていて、エルヴィネは大きく肩を竦めた。


「なーんか、本当に平和……」

「いいじゃないですか、平和なら。ほら、ニールくんもマーロゥくんもそのままじゃ風邪をひきますよ」


 マイラの忠告に身体の奥にある冷えが刺激され、ぶるりと身体が震える。僕とマーロゥは水を吸って重くなった上半身の服をすべて脱ぎ、彼女へと渡す。そのとき、居間の方から薪が弾ける音が聞こえた。

 さっさと着替えて火に当たることにしよう――

 ――と足を踏み出したとき、上階から甲高い声が響いた。


「おかえりなさい!」


 顔を上げるとベルメイアが二回の手摺りから身を乗り出していた。彼女は回廊を走り、一段飛ばしに階段を駆け下りてくる。僕たちの元まで来ると「雨、大丈夫だった?」と跳ねるような声色で訊ねてきた。よほど静寂が好きなのか、エルヴィネが顔を顰めている。


「あいつらは波状攻撃してくるけど、このお姫様は一発がでかいのよね」

「エイシャとヨムギは?」ベルメイアは気にした様子もなく、周囲に視線を彷徨かせ、それから上半身を露わにしている僕たちに眉根を寄せた。「あのね、目の前に淑女がいるの……いつまでも裸でいないでくれる? それともなに、レカルタで温泉でも湧いたの?」

 僕は頷く。「ええ、冷たいやつが空から」

「くだらないこと言ってないで着替えてくれば?」


 雨よりも冷たいベルメイアの反応にマーロゥは大きく笑った。「下手な冗談は数を撃っても当たらない」と皮肉り、ベルメイアもそれに同意して、眉を上げた。


「ほら、毛布くらいなら準備してあげる!」

「分かりましたよ」


 階段を駆け上がっていくベルメイアを、マーロゥが追う。マイラは若干の憐憫を残して桶を運んでいったのでホールには僕とエルヴィネだけが残された。一瞥すると目を逸らされ、愕然とする。科学技術と違ってジョークは洗練されていないのか、と批難したくなったが、原因が他ならぬ僕であるのは確かで何も言えなくなった。

 肩を落として溜息を吐くと、それが滑稽だったのか、エルヴィネが鼻で笑った。


「なんですか」八つ当たりで声色を尖らせる。「笑うなら冗談を言ったときにしてくれません?」

「べつに何も……、しかし、それにしてもあのお姫様は本当に声が大きいわね」

「バンザッタにいたときからあんな感じでしたよ」

「軍で行進の指揮を執ったほうがいいんじゃない?」


 エルヴィネの軽口に、規律正しく進む軍人たちを操っているベルメイアの姿が脳裏を過ぎる。軍人たちはベルメイアが「止まれ」と言えば止まるし、「右向け右」と言えば一斉に右を向く。その光景はあながち単なる妄想とも思えず、僕も「いいかもしれませんね」と認めた。

 だが、返ってきたのはまったく別の話題だった。


「ねえ、今日、伯爵さんたち帰ってくるんでしょ」

 突然の方向転換に何とかついて行く。「え、あ、ああ、確か」


 カンパルツォたちは会議などで城に泊まることが増えている。この三日間、帰ってきていないのもそれが理由だ。


「オブライエン……あんたさ、分かってるでしょ、もう時間ないって」

「……ええ」

「約束を取り付けたことまでは褒めてあげる。でも、本当に彼が大事ならしっかり守らせなさいよ。このまま戦争始まったらあの人戦うでしょ」

「そうですね……たぶん、ですけど」

「絶対よ」とエルヴィネは断言する。断言する一方で、そう判断しなければいけないことへの悲哀、みたいなものを表情に滲ませていた。「あの人がしている目、今まで何度も見てきたもの。戦いに出ること自体は止められなくても、魔法陣だけは消さなきゃだめ」


 分かっている。そして、エルヴィネの言うとおりだ。

 フェンは腕の魔法陣の有無にかかわらず戦いに出るだろう。ならば、その力を削ることになっても彼の身体を蝕む要因は取り除かなければならないのだ。

 彼は――それでも十分に強い。少なくとも僕はそう信じていた。

 あの魔法陣がなかった三年半前、僕はフェンに何度も稽古をつけてもらった。〈腕〉の操作が覚束なかったとは言え、触れることすらままならなかったことを思い出す。

 不安要素はある。だが、きっと心配はいらない。

 だから、僕は「それにしても」と思い切りおどけてみせた。


「それにしても……エルヴィネさんはやけにフェンの心配をしますね。好きなんですか?」

「……急になに言ってんの? あんた、あのお嬢さんといい感じだからって頭の中に花でも咲いた?」

「そんなに捲し立てなくても」


 大袈裟に怯えるふりをする。必要以上の演技をする僕の姿にエルヴィネは苛立たしそうに舌打ちをした。


「あんたって時々憎たらしいわね、本当に」

「たまに言われます」イルマも初めて会ったとき、そんなことを言っていた。「まあ、どっちでもいいですけどね。なんで僕じゃないんだろうとは思いますけど」

「なに、あんた、私に好かれたいの? 恋人いるのに?」

「好かれたところで気持ちは揺らがないから問題ないですよ」

「ちょっと、なんで私があんたに振られてるのよ」


 エルヴィネは踵で床を踏みつけ、大きな音を鳴らした。だが、そこには不思議と怒りの臭いはなかった。


「じゃあ、僕は着替えるとします」

「はいはい、はやく行っちゃって」


 手をひらひらと動かすエルヴィネの仕草に苦笑し、正面にある大きな階段に足をかける。そのとき、「オブライエン」と彼女に呼び止められた。そっぽを向いたまま発せられた声は壁に当たり、柔らかな放物線を描いて僕の前に落ちる。


「どうしました?」

「あんたさ、私の仲間を殺したのよ、結構な数。実際私も殺されそうだったし……思い出すだけで心臓が止まりそうになるわ」

「……そうですね」

「まあ、それで言ったら私も、私の仲間も結構な数を殺してるんだけどさ」


 否定すべき言葉はない。元々エルヴィネはエニツィアの敵だった。そこで戦争が起こったのなら殺すこともあるだろうし、殺されることもあるだろう。誰かが「解決した」と叫んでも誰かの心の中では火が燻っていることもある。

 その火に焼かれるのは避けたいが、消えろと命じても消えるものではない。

 しかし、それでもなお、エルヴィネの横顔には穏やかな微笑みがある気がした。


「でもさ、私、あんたのこと、そんなに嫌いじゃないのよね」

「……そうですか」

「転がるみたいに生きてきたけど、世界ってのは平坦なのかもしれないわね。どこにでも行けるようにも思えるわ。そう考えられるようになったことは感謝してるのよ……それだけ。風邪引く前に行きなさいよ」

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