117 暖かな予言/名前は祈る

「名前、書いてくれる?」


 アシュタヤがそう言ったのは十二月二十日、玄関ホールに置かれているソファでのことだった。

 もぐらから得た情報により戦争の準備は本格化していて、レカルタに漂う空気はもうすぐ新年という時期にはそぐわないほど剣呑としている。僕たちも例外ではなくて、「名前を書け」というのも何かの手続きだと思い込んでいたため、彼女が差し出してきた紙を受け取って肩すかしを食らってしまった。 

 紙の上には何も記されていないのだ。長い間日光に晒されていたのか、白紙と言うには黄ばみが強く、公式的な文書を作成するにはあまりにも古ぼけている。


「えっと、アシュタヤ、これに僕の名前を書けばいいの?」

「うん、大きくはっきりと、できれば一字ごとに間隔を空けてくれる?」

「分かったけど……これは何かの儀式? おまじないとか、そういう」

「ううん、私、ニールの名前書けないから――はい」


 渡されたペンを手に取ると同時に喉から「え」と素っ頓狂な声が漏れた。

 いったい何を言っているのだろう。僕の名前の綴りはアシュタヤもよく知っているはずだ。彼女は両親と手紙のやりとりを頻繁に行っていて、そこには僕の名前は何度も登場している。冗談にしてはあまりに突拍子もなく、固まっていると彼女は悪戯っぽく笑い、軽やかな口調で付け足した。


「エニツィアの言葉じゃなくて、ニールの……昔使ってた言葉で書いて欲しいの」

「英語で?」

「そう、その、いんぐりっしゅ?」辿々しい言い方だった。「どの文字がどの文字に対応するか、線で繋げてくれるともっとありがたい、かな」

「どうしてまたそんなのを」

「いいから、お願い……ね?」


「だめ?」と言うように小首を傾げられては僕も堪らない。拒否できるわけもなく、僕はアシュタヤが両手で持つインク壺にペンをつけ、一字一字、ブロック体で名前を記していった。

 Neil = Replica O'brien――英語を使うのは久しぶりで改めて眺めると違和感とかすかな郷愁を覚えた。僕はその上にエニツィアの言語で自分の名前を書き足す。

「へえ」とアシュタヤは心底興味深そうに感嘆の声を上げた。そこで、僕は彼女が語った夢を思い出す。


 外交官になりたい――

 だから、なのだろうか。

 紙を返し、代わりにインク壺を引き取ると、彼女は僕の名前を掲げて、物珍しそうに視線を動かし始めた。英語圏の人間が漢字を目にしてオリエンタルな気分になるのと似たようなものだろうか、彼女は紙の上で踊るアルファベットに顔を綻ばせていた。


「恰好いいのもあるし、かわいいのもあるのね」

「どれが恰好良くてどれがかわいいのか、僕には分からないよ」

 彼女は紙を僕に見える位置に置き、NとOを指さす。「これが恰好良くて、これとこれが、あ、これもかわいい」指はRからe、pに動く。

「……それでさ」慣れ親しんだ文字への突飛な感想を理解できるわけもなく、僕は話題を戻す。「どうして、知りたかったの?」

「あ、うん」


 アシュタヤは小さく咳払いをして、再び紙を、今度は僕に見せつけるようにして掲げた。

 あれ、と声を上げそうになる。

 彼女の顔は気のせいではないほど赤面していた。白い首筋から耳まですっかり紅潮し、それでもなお僕を真っ直ぐ見つめてきている。

 そして、紙の向こう、アシュタヤは少しだけ震えた声で宣言した。


「この名前は私が取り上げます」

「……え?」

「ニール、昔言ってたでしょ? ほら、メイトリンに向かうとき、御者台の上で」


 メイトリンへの道中、御者台の上……、朧気な記憶が過去と結びついた瞬間、僕とアシュタヤの声が重なる。「クリスマス」僕は驚きを、彼女は微笑みを顔に浮かべた。


「……覚えてたんだ、僕は忘れてたのに」

「くりすますには贈り物をするんでしょう? ニール、あなたは名前が欲しいって言ってた。あのときからずっと、それが私の胸の中に張りついてて」


 ああ――堪らない嬉しさと、それ以上の罪悪感がのし掛かる。僕は笑顔を繕い、ともすれば叫びだしてしまいそうになる感情を必死に押さえた。

 遮る暇もなく、彼女は囁く。


「ニール、私の名字をあげる」


 膝から力が抜ける――堪えろ。涙が出そうになる――堪えろ。自分のした選択を投げ出しそうになる――堪えろ!

 まだ雪が降っていた頃にした誓いを思い出す。

 すべての決着がついたとき、僕は己を断罪する。そうするだけで皆が必死に守ろうとしているエニツィアから不安要素が一つ消えるのだ。

 その決意はこの数ヶ月で変わることはなかったし、変えるつもりもまたなかった。

 生きて償うなど、僕には到底できそうもない。その図太さがあれば初めからこんな決断をすることもなかっただろう。僕はそういうふうに生きてきたし、また、それは特別な人間を減らそうとしているアシュタヤやカンパルツォの理想とはほど遠いのだ。

 僕自身が悪しき前例になってはならない。


 俯く僕にアシュタヤは「ごめんなさい」と声をかけてくる。広範囲精神感応を使っている気配はなかった。「こんなときに……不謹慎よね」

 ごまかそうと目頭を押さえる。「いや、そんなことない、そんなことないよ。驚いたのと嬉しかったのと……そういう話は僕からしたかったな、って思ってさ」

「……ごめんね、堪えきれなくて」

「謝らないでよ」僕は顔を上げ、笑みを作り、おどけた。「それにしても、ニール・ラニア、か……ちょっと短くて落ち着かないかな」

「大丈夫、ちゃんと祈り名も考えてきたから」


 祈り名――ミドルネームのことだ。

 聞けば未練が残る、と思いながら、彼女が次に発する言葉を期待している自分がいる。結局、僕は耳を塞ぐことも制止することもその場から離れることもしなかった。もったいぶるように間を空けたアシュタヤの唇が動く。優しい匂いがする。怒りからもっともかけ離れた暖かな匂いだった。


「――


 その、彼女が発した言葉を聞いた瞬間、僕の精神は矢よりもずっとはやい速度で時を遡り始めた。

 夏、第二次ラ・ウォルホル戦役前夜の遠い喧噪を過ぎ去り、自分の作り出した檻の中で過ごした三年間が逆回転し、セムーク、メイトリンを通り過ぎても逆行は続く。やがてバンザッタへと辿りついた僕は収穫祭で賑わう人の中へと落ちた。

 三年半ほども前、僕に戯曲的な怒りをぶつけたアシュタヤがそこにいる。僕の視界はアシュタヤの視界と重なる。目の前には戸惑う僕がいた。まだ右腕があり、こうして見ると幼さが残っている。


 あのとき僕は――ああ、そうだ、僕が初めて彼女の名前を呼んだ日だ。「二人で歩かないか?」と誘い、立ち止まったアシュタヤに怒りと面倒くささと、焦燥を覚えさせられた、あの日。

 穴の空いた人の流れ、僕をじっと見つめる彼女は現在とまったく同じ言葉を発する。そのときは単なる音の連なりでしかなかった、人の名前。


『イクサクロ』


 そこで僕の意識は三年以上の期間を時計回りに飛び越えた。目の前にいるのは腰に届くほど長い髪だったアシュタヤではなく、肩を少し過ぎた辺りほどしかない今のアシュタヤだ。


「……きみだったのか」

「え?」

「僕が初めてエニツィア・イクサクロ・レカルタっていう名前を聞いたとき、どこかで耳にしたことがあるなと思ってたんだ! きみの口から聞いてたなんて!」

「そ、それが」アシュタヤが僕の感激の理由を知るはずもない。「どうかしたの?」

「っていうことは、ああ、きみは英雄譚の真似をしたって言ってたけどエニツィア・イクサクロ・レカルタの話だったのか」

「ちょっと、どうしたの、ニール?」


 まるで予言だ。

 エニツィアの建国譚、彼――イクサクロが最初に訪れたのは海と屈強な戦士の国メイトリンだった。メイトリンの長は心も身体も鋼鉄の柱のような男で、単身外国からやってきたイクサクロを歓迎しようとはしなかったという。

 しかし、イクサクロは諦めることはなかった。何度も頭を下げ、頼み込み、ついに開かれた会談の場でメイトリン王もイクサクロが本気であることを認め、承諾の意を固めた。だが、頑固なメイトリン王にとって意見を曲げることは恥ずかしいことだったらしい。彼が照れ隠しで口にした言葉が「もう一声」だった。


「それに従ったら」と僕は笑いを堪える。「きみがメイトリンか。屈強でも男でもないけど、頑固ではあるかな」

「……ニールの方が頑固ではないですか?」


 ああ、そうだ。僕は認める。イクサクロもメイトリン王に輪をかけて頑固だったのだ。

 きっとあの瞬間から、僕はイクサクロだった。イクサクロはエニツィアという国を生み出し、そして僕を導いた。彼となった僕はこの国を回り、今、災いをもたらす蛇を打ち倒そうとしている。

 蛇はどこにいた? 国の中央だ。国の中央部は小さな領土が密集している。ギルデンスが生まれた領土もその中にある。

 暗い気持ちなど吹き飛んでいた。

 これが予言通りならどうなる? イクサクロと三人の王たちは悲願を達成した。ならばきっと、僕も、僕たちもそうなる。たぶんどこにも不安になる意味などないのだ。

 腹を抱えて笑っているとアシュタヤが心配そうに僕の顔を覗き込んできた。小さく謝り、一度息を深く吸って、そばにある三人掛けのソファに彼女を誘った。膝が触れそうな距離に腰を下ろし、僕は再び謝罪する。


「いや、ごめんごめん、一人で楽しくなっちゃって……でも、イクサクロって名前は畏れ多いね、嬉しいけど」

「そんなに畏まらなくて大丈夫……珍しい名前じゃないもの。むしろ、祈り名としてはありふれてるかも」

「ありふれてる方がありがたいよ、ちゃんとこの国の人間になったみたいだから」

「……イクサクロって名前の由来は古語なんだけど……意味は知らないよね」

「うん」首を縦に振る。「なんて意味?」


 アシュタヤは静かに僕の左手を握り、穏やかな、胸に染み渡るような声で言った。


「『真実』……あなたは『模造品』なんかじゃない。たった一人の、私の『真実』」


 鼻先にアシュタヤの顔がある。それがどうにも照れくさくて、僕はそっぽを向く。熱が耳元まで迫ってきているのを感じた。アシュタヤは身を乗り出し、悪戯っぽく「顔が真っ赤」とからかってくる。そのせいで僕の中の熱は温度を増していく。「ありがとう」と口にするのが精一杯だった。


「気に入ってくれたならよかった」

「すごく嬉しいよ」あまりに面映ゆく、自分がどれだけだらしない顔をしているか予想がついた。このままではいつまでもからかわれかねない、と僕は含羞をごまかすために話題を変える。「……そういえばさ、アシュタヤの祈り名はなんていうの? 初めて会ったとき、長いから省略するって言ってたけど」

「……私のはいいじゃない」


 そこで僕の心を炙り続けていたアシュタヤの勢いが明らかに弱くなった。恥ずかしそうに身を離した彼女の表情にはつけいる隙があることを雄弁に語っており、僕は一転攻勢へと出る。


「聞かせてよ。僕もきみのことをもっと知りたい」


 アシュタヤは少しの間渋っていたが、僕を頑固と言ったのは彼女自身だ。諦めないことが明らかだったのか、観念したかのように肩を落とした。


「……アシュタヤ・ムーイェン・カロス・ラ・ムルファン・ラニア」

 聞こえるかどうかぎりぎりの囁きではあったが、彼女の声は確かに届き、僕はそれを胸の中に刻みつける。「どういう意味?」

「『暖かな月光の帳』っていうんだけど――ね、この話、もうやめましょ? 仰々しくて恥ずかしいの」

「……アシュタヤ、偶然ってすごいよ」

「え」

「『ニール』ってのは昔の偉人からつけられたんだって。ジオールがそう言ってたんだ。……何をした人だと思う?」


 彼女は考える素振りを見せたが、この世界とあの世界の常識や文明の歩みは大きく違う。それを承知しているアシュタヤはゆっくりと首を振り、答えを促すかのように澄んだ目をじっと向けてきた。

 僕はそっと指を天井、そのずっと上にある空を指さしてその視線を誘導する。彼女は顎を上げ、僕の指先を追った。


「月、あるでしょ……きみの名前の」

 アシュタヤはふくれっ面で頷く。「ええ、私の名前の」

「『ニール』っていうのは人類で初めて月に降り立った人の名前なんだ」

 アシュタヤの身体が固まる。「えっと、ちょっと待って、どういうこと?」

「言葉の通りだよ。その人は空を飛んで月まで旅をしたんだ」


 すぐに理解できないのも無理はない。この国にも天文学はあるが、月や太陽、星々はあくまで遠くから眺めるものだ。文明の発達したあの世界の月とこの世界の月の認識には大きな違いがある。

 決して手の届かないもの――夜を照らす奇跡。

 僕は宇宙にも等しい隔たりを越え、月へと辿りついていた。そう考えると感慨深く、居ても立ってもいられなかった。

 腰を上げ、床にインク壺とペンを置く。「信じられない」と戸惑っているアシュタヤを無理矢理立ち上がらせて、手を引いた。


「アシュタヤ、ちょっと行きたい場所があるんだ」


     〇


 金槌の音が舞い上がる通りを抜け、エニツィアでもっとも賑やかな道、レカルタのメインストリートを進んでいく。王による開戦準備の号令が発布されていて、その影響か緊縮した雰囲気はあったものの、それでも市民たちの多くは未だ薄ぼんやりした日常の中を歩いていた。

 平時と比較すると人は少ないが、それでも手に余るほどの賑やかさがあり、その話題のほとんどは戦争についての噂で占められていた。


 逃げた方がいいのか、それともただの杞憂に過ぎないのか、戦争を体験したことがない彼らは未来を判断する材料すら持たない。国王も対外的な戦争ならば国も川の流れに乗って西へと向かうように勧告を出すのかもしれないが、今回はそうもいかない理由がある。

 川が行き着く先はオルウェダ領、敵の領地であるからだ。

 自己の行動を決定する条件すら与えられない市民たちは、ぎこちなさを感じながらも日常を過ごすしかないようだった。店を営む人々の呼び込みには張りが足りず、どうにも違和感が絡みついている。不安に駆られた人間が買い占めを行ったのか、食料品を扱う店は軒並み開店休業状態になっていて、それに伴い食堂の類にも揃って活気がなかった。


「この先に」そんな淀んだ日常であっても、僕にとっては最後の日常だ。満喫するために声のトーンを一つ上げる。「装身具を売ってる店があったんだ。レクシナと来たときに入ったんだけど」

「そこが行きたい場所? 何を買うつもりなの?」

「僕がいた世界ではさ、愛する人に指輪を贈る習慣があったんだよ」

「愛する、って」ぎこちない口調で繰り返したアシュタヤは視線を足下に落とす。「……ねえ、ニール、段階を踏んで言って欲しいわ。不意打ちばかりで心臓に悪いもの」


 ごめんとは言わない。そういったロマンチックな駆け引きをするほど、僕は色恋沙汰に熟練していないからだ。

 僕たちは連れ添って歩きながら、様々な話をした。僕もアシュタヤも戦争に関する話題は避けた。「これが最後になるかもしれない」と彼女が考えるはずもないけれど、それでも今だけはすべてを忘れて過ごしたいと考える僕の気持ちを察したのだろう。


「最近さ、変なサイコメトリーが使えるようになったんだ」


 その中で僕は話題の一つとして、自分に起こった異変を打ち明けておくことにした。超能力に関しては彼女にもある程度の知識を授けてあるため、それほど不可解そうな表情はない。

 彼女は「サイコメトリー」と呟き、かつて僕がした説明を思い出すかのように言う。


「それって手で触れた物質の記憶を読めるって力よね。変ってどういうこと?」

「まだ操り切れてないから僕もよく分からないんだけど、触らなくても記憶が読める……っていうか、その人の記憶に入れるんだ。『現在の記憶』にも」

「人?」アシュタヤは首を傾げる。「教えてもらったときは物質って聞いてたけど」

「だから変なんだよ。まあ超能力には分類の法則はあっても現象の法則はないから悩むほどのことじゃないんだけど、言っておかなきゃまずいと思って」

「何か問題でもあるの?」

「僕の意志と関係なく発動しちゃうからさ……もしかしたらきみの記憶を覗き見るかもしれない」


 その一言で会話が止まる。

 アシュタヤはバンザッタで再会して以来僕の心を知るためだけに力を使うまいとしている節があり、僕が打ち明けたのもその後ろめたさが理由だった。彼女に対してサイコメトリーが発現したのは今日が初めてだったし、目にしたのはさほど問題のある光景ではなかったが、それでも僕が彼女の秘密を知り得る状況にある、というのはあまり好ましくない。

 人には隠しておきたいことや知られてはいけないことがあるものだ。秘密は裏切りには直結しないし、信頼している人にはすべてを打ち明けるべきだとするのなら真っ先に謗りを受けるのは僕自身である。

 アシュタヤも似たような意見だったのだろうか、不満そうな表情こそしなかったものの「由々しき事態ね」と苦笑した。そうなんだよ、と僕も頷く。


「まさか今になってサイコキネシス以外の超能力が出てくるとは思わなかった。それもまるで才能がないって言われてたESPで」

「制御できないのは別として……いいことじゃないの? ニールもまだまだ成長できる、ってことじゃない」

「良い方向に考えるとそうだね。けど、御しきれない力ならないほうがましとも言える」


 先日の『双子の塔』での戦いで身に染みていている。サイコメトリーの発現時、僕のサイコキネシスの出力は明らかに低下し、閾値は上昇してしまっていた。自分の意志の外でサイコメトリーが発現してしまうのならば、それは一種の時限爆弾みたいなものだ。

 もしギルデンスと戦っている最中に発動し、僕の隙を生み出してしまったら――。

 重い枷をつけられたようで恐ろしくなる。

 その感情が表に出ていたのだろうか、アシュタヤは僕の顔を下から覗き込んできた。彼女は励ますかのように柔らかく微笑み、ぎゅっと手を握った。


「大丈夫、私だって昔は自分の力を制御できなかったのよ? ニールだって今は〈腕〉を自由に操れるかもしれないけど最初の頃は違ったでしょ? ……協力するわ、力になれないかもしれないけど」


 そんなことないよ、アシュタヤがいたら百人力だ――と応える前に、彼女は続ける。


「それに、いーえすぴーって大まかに言えば心に関する力なんでしょ? ならニールには才能があるに決まってるじゃない」

「……根拠が分からないよ」

「だってニールはいつも人のことを考えてるもの」


 それとこれとは別だ。僕のサイコメトリーはあくまで相手の事実を見るだけで、感情へは踏み込まない。もちろん、仕草や行動から類推はできるけれど、それは特別な力ではなく、誰もが持つ力である。

 だが、彼女はそれを軽やかに否定した。


「ほら、怒ってたらにおいで分かるって言ってたでしょ? もしかしたらそれも超能力の一つだったのかも」

「そう、なのかな」

「ね、早速だけど、練習始めない? 一刻も早く制御できるようになった方がいいと思うの」

「……いやに熱心だね。裏があるみたいだ」

「だって」アシュタヤは冗談とも本気ともつかない口調で言う。「私の記憶見られたら恥ずかしいじゃない」

「見られて恥ずかしい記憶があるんだ?」

「当たり前でしょ。もしお風呂に入っている瞬間を見られたらどうするの」

「あ、その使い方は思いつかなかったな、ありがとう」


 頭を下げると、アシュタヤは「失敗した……」と口に手を当てて、後悔を露わにした。「絶対に私の記憶は覗かないでね」としつこく誓いの言葉を求められたが、返事をする前に装飾具の店に着いてしまったため、残念ながら約束することはできなかった。


 店内には先客が一人、女性の姿があるだけで静かなものだった。その人も僕たちが入ると同時に出て行ってしまった。恰幅のよい店主は男女で訪れたというだけである程度事情を察したようだ、去って行った客には目もくれず、僕たちの方へと身を乗り出してくる。カウンターしかない狭い店内ではそれだけで圧迫感が生まれた。

 指輪を贈りたいと伝えると彼はその体格に似合わない素早い動作でカウンターの下から箱を取り出した。中に入っているのは色とりどりの宝石が嵌められた指輪だ。見るからに高価そうで、アシュタヤは貴族のくせにたじろぐ。


 とはいえ、限度額さえ超えなければ値段を気にする必要はない。どうせ使えなくなる金だ、僕は遠慮するアシュタヤの指に次から次へと指輪を嵌めていった。熱心な作業に確かな購入の意思を感じたのか、店主もにこやかに賛辞を送り続けている。

 アシュタヤにもっとも似合ったのはエメラルドのような、深い緑色の宝石がつけられた指輪だった。壁から注がれる魔法石の灯りが石の中に吸い込まれ、僕の〈腕〉と似たような色合いに変わって滲み出てきている。それが僕もアシュタヤも気に入り、指輪選びはそれほど時間をかからずに終わった。


 店を出たアシュタヤは左手の薬指に嵌められた指輪を見ながらも、ちらちらと僕の顔色を窺っている。彼女は宝石に囲まれて悦に入るような生活をしておらず、戸惑う理由は明らかだった。何度も礼を言われたが、「本当にいいの?」などといった確認の言葉がなかったのは僕に気を使っているからだろう。

 その挙動が愛おしく、散々迷ってから、僕は伝えておかなければいけないことを口にする。


「……アシュタヤ、こんな風に指輪を贈っておいて言うべき言葉じゃないけど……一つ、良いかな?」

「不意打ちは禁止だからね」

「不意打ちではないと思うけど」真っ直ぐ目を見つめてくる彼女に罪悪感を覚え、僕は前へと顔を向ける。「きみがくれた名前……もらうのはすべてが終わってからでいいかな」


 すぐに返事は来なかった。僕たちの沈黙は周囲の喧噪に飲み込まれず、流されもせず、動こうとしない。彼女がどれだけの勇気を振り絞って気持ちを伝えてくれたか、そう考えると胸が痛かったが、これが彼女の勇気に報いる限界だった。

 ちらりとアシュタヤの表情を確認する。彼女は少し悲しそうな顔をしていたけれど、そこには納得の色もあるように思えた。


「そう言われるんじゃないかって思ってた」

「え」

「ニールは真面目だもの。それに、私だってあの日バンザッタで同じことを言ってたから……大丈夫、いつまでも待つわ。けど、一つだけ約束して」

「……絶対に守るよ」嘘を吐く。「何でも言ってくれ」

「次はニールが私に言ってね。楽しみにしてるから」

「……そう期待されるととびっきり気障な台詞を考えなきゃいけないな」


 考える必要などない。僕がその言葉を口にすることはないからだ。

 だから、指輪を贈った。未練だ。彼女といたという証をこの世に残したかったのだ。


 アシュタヤ、きみは知っている。

 山呑みの魔獣を倒したイクサクロがどうなったか。

 四つの国をまとめたエニツィア・イクサクロ・レカルタは蛇を殺し、それと引き替えに命を失った。エニツィアという国の名前は彼の自己顕示欲から名付けられたのではない。その英雄の名前を永遠に残すために仲間たちによってつけられたのだ。

 アシュタヤ、きみの予言に従ったら、イクサクロは――ニール=レプリカ・オブライエンは命を落とす。違いがあるとしたら、一つだ。


 きみが指さした僕の名前のアルファベット。N、O、R、e、p。

 名前は人を縛る重い祈りだ。呪いと言い換えてもよい。それが示した偶然に僕は唇を噛みしめる。

 NO Rep……僕には初めから得るべき「名声などない」。そう予定されている。

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