115 Relay〈レカルタ市街戦6〉

 好きな音がある。

 馬の蹄の音だ。打ち鳴らされた蹄鉄の音は生き物から発せられるにもかかわらず規則正しく、力強い。また、どうしてか郷愁と発奮を僕へと同時に与える。これからのことを考えると緊張せずにはいられなかったが、馬の蹄の音を耳にするだけで、幾分か気持ちが和らいだ。


 レカルタへと帰ってから、つまり、もぐらや「双子」、ギルデンスと戦ってから二日が経っていた。

 壁の外にいたフェンたちが襲われることもなく、僕たちは無事カンパルツォ邸へと帰還を果たした。厳密に言えば、マーロゥとヨムギは怪我をしていたので無事であると胸を張ることはできないが、彼ら自身が「なんともない」と主張しているため、その意志を尊重することにしよう。


 エルヴィネはどうなったか。

 彼女はカンパルツォ邸で生活することになった。その決定は王の要請であるとも言えるし、また、カンパルツォの独断であるとも言える。とにもかくにも、初めから決まっていた事柄らしい。国王の直接的な庇護下に置くわけにもいかないのだろう、彼女の存在、その露見を懸念してカンパルツォが罪を被る形となったようだ。

 ときが来るまでエルヴィネが踏んでいいのはカンパルツォ邸の床板だけ。カンパルツォは不自由な生活を強いることを謝罪したが、エルヴィネはおどけるように唇を尖らせるだけで何の不満も口にしなかった。

 彼女が協力を正式に承諾したところでカンパルツォは国王から与えられた任務の九割を遂行したことになる。

 今日はその残りを終わらせる予定だった。


「体調はどうだ?」


 エントランスで出発を待っている僕に声をかけてきたのはウェンビアノだ。二日前に散々労ったからか、彼の声はいささか事務的なものだったが、冷たさはなかった。


「陛下の前で倒れられたらこちらも慌てふためく」

「大丈夫です、僕は怪我もなかったですし」

「そうか」とウェンビアノはごくごくわずかに表情を緩めた。「特殊な立場とはいえ、お前も軍人だ。くれぐれも失礼のないように」

「縮こまっていればいいんですよね」


 ウェンビアノは呆れと頼もしさを半分ずつ混ぜたような笑みを返してくる。任せてくださいよ、と胸を叩いたところでソファに座っていたベルメイアが「ニールって軍人の格好似合わないわねえ」と盛大に鼻息を漏らした。確かに服に着られているのは間違いなく、僕は叩いた胸をそっと払った。

 外で待つ馬車の目的地はエニツィア城――つまり、エニツィア国王のもとだ。簡易的な報告は済ませていたそうだが、血生臭い騒動を起こしたこともあり、詳細な報告を求められているらしい。


「なんで傭兵のあんたが軍人の格好で王サマに会いに行くわけ?」


 ベルメイアが座っている三人掛けのソファ、一つ間隔を開けて腰を下ろしているエルヴィネは恨めしそうにじろりと睨んでくる。宿酔に宿酔を重ねた彼女の顔色は心配になるほど青ざめている。連日連夜、ヤクバたちに飲酒を強要されているせいで覇気がまるでなかった。

 二日酔いは足し算ではなく掛け算で悪化していく。経験があるだけに憐憫を禁じ得ず、僕は曖昧に会釈を返した。


「どっちかっていったら私こそ会いに行くべきでしょ。王サマに言われて来てるんだから」

「ヤクバたちから逃げ出す口実にしか聞こえませんよ」

「……あいつら、本当にしつこいのよ。頼むからちょっとだけ逃げさせてくれない?」

 話を聞いているウェンビアノは申し訳なさそうにしながらも態度は崩さない。「悪いが、クラオクラリ、きみの外出許可はできない」

「わーかってます! ええ!」

「……同情はしますけど」嘘ではない。「僕は名指しで陛下に呼ばれてるわけですから」


 それも嘘ではなかった。今回、カンパルツォとウェンビアノは当然として、フェンとアシュタヤ、そして僕が国王に召喚されている。フェンはカンパルツォの代理人として、アシュタヤは引率責任者として、今回の任務に就いたからだ。しかし、僕が呼ばれた理由はあまり想像できなかった。

 考えられるとしたら、先日レカルタで起こした騒動の説明くらいだ。そうなると悪い予感ばかりがして、謁見の名誉を誇らしく思うこともできない。


「準備、整ったみたいですよ」


 玄関の扉を開き、アシュタヤがそう声をかけてきたため、身なりを整えるのをやめて、ウェンビアノとともに屋敷を出た。

 外ではフェンが、ついでカンパルツォがカーテンのついた馬車へと乗り込んでいる。カーテンとは珍しい、と観察しているとアシュタヤがからかうように顔を覗き込んできた。何を勘違いしたのか、彼女は「緊張しなくても大丈夫」と僕の背中に手を当てた。


「陛下は礼儀がなってなくて激怒するほど狭量なお方じゃないから」

「あ、それって遠回しに僕を批難してるよね」

「穿ちすぎよ」


 からからと笑う彼女もやはり軍服に着替えていて、その姿はどうにも見慣れなかったが、僕よりはずっと着こなしているように思える。堅苦しい格好で屈託なく笑う様はアンバランスではあったが、これはどうして、なかなか良いものだ。


「……どうしたの?」

「え、あ、いや」しどろもどろになり、咳払いでごまかす。「その、アシュタヤは陛下に会ったことあるのかな、って」

「二度だけ、ね。子どもの頃、前のラ・ウォルホルでの戦争の後に一度と、今年バンザッタに向かう前に一度」

「緊張した?」

「作法はお母さまに厳しく教えられていたから、そんなに、かなあ。割とお茶目な方だったわ」


 なるほど、対偶だ。僕がこんなに緊張するのは、作法を厳しく教えられていないからである。そう言うとアシュタヤは少し不機嫌そうな口調で「そうやってまた捻くれる」と頬を膨らませた。


「ねえ、ニール、図々しく生きてても受け入れてくれる人っているのよ?」

「そうかな。いたとしてもきみくらいだと思うけど」

「賭けても良いわ、この国の人はみんな、図々しいあなたを受け入れる」

「きみはそうやってまた物事を大きく言う……本当は陛下も礼儀に厳しいんじゃないの?」


     〇


 青と緑と黄色のストライプ。それらの上に覆い被さる傾げた白い十字。エニツィアの国旗が掲揚された玉座の間は僕が思い描く「城」そのものだった。

 天井は高く、つり下げられたシャンデリアは目映いほどに輝いている。構造を支えているのは等間隔に並んだ丸い柱だ。大人が腕を広げても半周にならないほどの太い柱は二列、道を形作るように屹立している。根元にはそれぞれ二人、計十六人の衛兵が直立不動で正面を見つめていた。

 荘厳でありながらどこか神聖な雰囲気に飲まれ、僕は一瞬呼吸を忘れる。隣にいるフェンが咳払いしたことで前に進まなければならないことを思い出し、慌てて足を踏み出した。


 毛足の短い赤い絨毯の上を歩き、玉座の前まで進み出る。先を行くカンパルツォとウェンビアノが止まり、頭を垂れるのに倣い、事前に教えてもらっていた軍人用の最敬礼を行った。右膝を突き、左腕で顔を隠すやり方だ。

 そこまですると玉座の脇に立っていた男が声を張り上げた。宰相らしき、禿げた男は衛兵たちを下がらせ、それが終わると「しばし待て」と抑揚のない声で告げた。一拍の間を置いて、足音が聞こえてくる。

 カーペットにより緩和された足音は玉座へと昇っていく。それが止まると静かな男の声が響いた。


「顔を上げよ」


 指示通り、僕は跪いたまま、国王を見つめる。

 目に入ってきたのは柔和そうな男の姿だった。五十代だろうか、白髪交じり、輪郭に髭を蓄えている。皺のある目尻は少し垂れていて、王の威厳よりも穏やかさを感じた。王族らしい衣装に身を包んでいるものの親しみやすさがあり、そのせいか、いくらか僕の緊張も緩和された。


「此度の任務、ご苦労だった」彼の発音は緩やかな川の流れを彷彿とさせる。「カンパルツォ、貴殿とその家臣により今後の危機への対応はより強固になるだろう」


 国王はいくつか労いの言葉を並べ、それからエルヴィネに関する報告を要求した。彼女は本当に信頼に値するか、どれほどの力を持っているか、カンパルツォは簡潔に説明していく。

 横目で確認すると宰相は興味深そうに目を細めていた。国王も「我が国の兵にすぐさま教授できないのが残念だ」と息を漏らしている。

 アシュタヤの言ったとおりかもしれない。直接言葉を交わさなくても国王が温和な人柄であることは理解できた。場の空気にも緊張はあったが、硬直はなく、さりとて弛緩しているわけでもない。


 ――それにしてもどうして僕がこの場に呼ばれたのだろう。

 疑問に答えが出ぬまま、カンパルツォの説明が終わった。国王は少し間を取り、「さて」と嘆息する。

 その瞬間、肌に弱い痺れが走った。薄く広がっていた思考が収束していく。

 国王の何気ない一言で、場の空気はあからさまに豹変していた。僕は首を動かさず、周囲を確認する。だが、その原因は把握できない。隣にいるアシュタヤの表情も変わりがなく、国王も宰相も、顔は見えないが、カンパルツォたちもきっと同様だ。

 暖かな空気の中に差し込まれた一枚の薄氷――僕以外の全員の、表には出ない極々小さな変化の総和が違和感を作り出している、そのように思えた。

 ここからが本題、と言うように国王は顔を伏せる。


「今回の任務、私は貴殿らに一切の批難をするつもりはない。最善策とは言わずとも、次善の策だったと認めよう」

「は……」カンパルツォの応答にも普段の頼もしい厚さはなかった。

「だが、市民から貴殿へ相当数の批難が寄せられていることもまた事実だ」


 思考が停止する。視界がぼやけ、ぐらつく。


「……批難?」


 その瞬間、国王と僕の視線がぶつかった。一瞬遅れて自分が発声してしまったことに気がつく。慌てて頭を垂れたが、叱責の声は飛んでこなかった。

 国王は続ける。


「批判のほとんどは魔法の行使や戦闘が起こったことに対するもので……これは何とでも弁明が可能だ。カンパルツォ、貴殿の家臣が直接的な攻撃に魔法を使用しなかったことは幸いだった。霧を出した程度で罪に問う法律はなく、また、その霧のおかげで最初の攻撃が誰によるものか、目撃した者もいない。また、身を守ろうとするのも当然だ。東側の『双子の塔』を損傷させたこともこちらでなんとかしよう」


 真綿で首を絞められている気分だった。口調が穏やかでゆっくりなだけに、僕は次に続くだろう逆説の接続詞を恐れる。手の皮が弾けそうなほどの強さで拳を握る。頭蓋の中にあるのは冷たく重い氷だ。


「だが――」


 それ以上は、やめてくれ。

 最初の戦闘が終わったときに抱いた思いが甦る。すなわち、「僕たちが敵を倒すことそのものが過ちなのではないか」という懸念だ。


「一つ、看過できない言葉もあった。先に断っておくが、私は貴殿を評価し、信頼している。多くの者に国政参加を要請したが、その中でもカンパルツォ、貴殿のことは今後もっとも重要な者の一人であると信じている。それを理解した上で聞いて欲しい」


 国王は僕の知らない事実を静かに口にする。


「今、貴殿はこの国を転覆させようとする悪逆の徒と噂されている」


 笑いが漏れそうになった。

 誰がそんなあまりに荒唐無稽な噂を信じるというのだ? 

 僕はカンパルツォ以上に国を、人を思いやって行動する人間を知らない。年老いてなお、自分の親しんだ領地を離れてまで、彼は国に尽くしている。彼がレカルタに設立した職業斡旋所は盛況だ。その効果だって既に出ている。

 そんな彼を悪逆の徒だと吹聴できる人間がどこに!


「もちろん私から事実無根であるという声明は出した。だが、一度植え付けられた疑念を即座に捨てられるほど、人は強くない。……どうかそれを肝に銘じた上での行動を期待する」

「……承知いたしました」

「詳しい説明は別室で宰相が行う」国王は脇に控える宰相をちらりと見て、それから一瞬、僕に視線を送った。「では、カンパルツォ、下がってよい」

「では失礼いたします」


 解消しようがない怒りを抱いたまま、立ち上がる。

 呼び止められたのはそのときだった。


「ああ、ニールくん、きみは残っていてくれないか」


 国王の威厳を消し去った、柔らかな口調に僕は戸惑う。


     〇


 カンパルツォたちと宰相が退出するのを待って、国王は「すまないな」と小さく謝罪した。一国の王が発すべき言葉ではないと思ったし、また、護衛もなしに二人きりになっている状況はあまりに不用心で、それも国王たる者としては相応しくない。呼び止められた理由も察せないこともあり、僕は困惑するばかりだった。


「少しきみに用事があってね」

「……用事、ですか」


 発言してから立ったままであることに気付き、僕は慌てて膝を突く。国王はそれを見て、相好を崩した。


「楽にしてくれて構わない。私はこの国の王ではあるが、王の器ではない。用事というのも王としては最低の用事だ」


 そう言われても胡座をかくわけにもいかず、僕は膝を突いたまま、じっと彼を見つめた。


「さて……そうだな。きみは先ほどの話を耳にしたとき、理解できないと叫びそうな表情をしていたね。ならまずカンパルツォのことについて話そうか。かなり掻い摘まんだ説明になってしまうが」

「……ええ、お願いします」

「なに、それほど難しい話ではない。カンパルツォ家はバンザッタ以南、つまり、ペルドール帝国の侵攻を食い止める役割を担っていた。これはかなり過酷な役割だ。市民たちの一部には彼がその不当な扱いに不満を抱いてレカルタにやってきたと考えている者もいる。元々中央部や西部で彼を貶める噂もあった」


 ギルデンスの姿が思い浮かんだ。彼によって徐々に刷り込まれた毒は人を猜疑心の病に冒している。バンザッタに来たこともない人々が縁のないカンパルツォを盲信する理由もないだろう。特に西部では貴族に対する反感は高い。


 しかし、納得はできたものの受容はしかねて、堪えきれず、僕は食い下がった。「……ですが、陛下」

「ああ、きみの言わんとすることは分かる。彼は心から国に尽くしてくれている。それは私も認めている。だが、今回の騒動で少し問題ができてしまった」


 国王は呆れるような、悲しむような複雑な表情を浮かべて言った。


「強すぎるんだ」

「え」

「きみがもっとも知っているだろう? 今、彼の元には多くの護衛がいる。南方、小国ながらペルドールに抵抗し続けた国の王族であるフェニケルス・ロダ・ニダ・ドズクア……第一次ラ・ウォルホル戦役と十年ほど前のペルドール侵攻で多大な戦果を挙げた三人組……そして、かつて『剣』と称されたアシュタヤ・ラニア。……分かるかね? 魔装兵が三人、一人は特異な力を持ち、そうでない者も複数回最大褒賞を授与された人物だ。また、地の利があったとは言え、育成されている二人の若者は『双子』と呼ばれる魔術師を打ち倒している」


 それがどうした、と口にできない。

 僕はカンパルツォの元を離れ、多くの地を旅した。そこで何人もの貴族を目にした。ほぼすべての貴族が護衛を雇い、あるいは私兵団を組織して自衛に努めている。特に国境付近に位置する領地の貴族にとっては当然の行動だ。

 しかしながら、国王の指摘通り、カンパルツォが組織した護衛団は個の力という点では常軌を逸しているのは確かだった。量はともかく、同程度の質の戦力を抱えている貴族など他にはいなかった。


「そして」と国王は続ける。「数ヶ月前までエニツィア屈指の傭兵と呼ばれたきみもいる……力を持たない人々は恐れを抱くのだ。圧倒的な個の力を持つ人間を従えたカンパルツォという男、その男が国王である私に近づいている。ずっと国政参加を拒否し続けていたにもかかわらず、今になって、だ。邪推する者が出てもおかしくはない」


 ああ――、僕は思いきり拳を握る。

 人はどうしてこんなにも弱いのだろう。一人でならしっかりと立てるのに、集団になると途端に脆くなる。でも、それは僕自身にも当てはまることで、人であるかぎり当たり前なのかもしれない。

 また、それは決して「悪」ではないのだ。

 ぶつけるあてのない怒りに、僕は震える。

 人を信じるカンパルツォが、人に謗られる。あまりに理不尽で、ひどく悲しいことに思えた。


「今回、説明した事柄はそういった集団の論理で動いたものだ。納得はいらない、だが、理解はしてくれ」

「……はい、陛下」

「彼の護衛団を縮小・解散することがもっとも簡単だが……それをしないなら彼の手腕に期待するだけだ。もちろん私も協力はするがね……そしてここからが、きみへの用事だ」


 国王はおもむろに立ち上がり、玉座を降り始める。訝る暇もなく、僕の前まで歩み出た彼は膝を突いて視線を合わせた。

 僕は慌てふためき、固まったまま動けない。狼狽し、どうするべきか悩んでいるうちに左手を国王に取られた。


「……国王としてはあまりに無様な願いがある。聞いてくれるか」

「あ、あの、陛下」

「私は政治にも軍事にも秀でていない。国を治めるにはあまりに愚かで弱い。近々、確実に起こる戦で勝てる確信を抱けないのだ。だが、不思議なものでな……カンパルツォ含め多くの有能な家臣に恵まれた。もし、戦に負けたとしても彼らさえいればエニツィアを取り戻せると、その確信はある」


 手を握る力が強くなる。国を統治する重圧とはどの程度のものなのだろうか、国王の掌はがさがさと乾いて、硬い。その感触に言葉を失った。国王は申し訳なさそうに目を伏せている。


「……まだ若いきみに言うべき言葉ではないかも知れない……だが、ニール、きみの力はエニツィアいちとも言われている。一人の男として、恥を忍んで頼みたい……」


 僕の前で、僕に対してエニツィア国王は頭を下げている。その意味を想像すれば、どれだけ重要な願いであるか容易に想像できた。傭兵上がりの人間に頭を垂れる国の主など、どこの世界にいるというのだ?

 当惑で狼狽える僕に、彼は震える声でこう言った。


「もし、戦に負け、エニツィアが奪われたら……どれだけ時間がかかっても構わない。反乱の首謀者であるエゼル・オルウェダとメイゼン・ギルデンスを……殺してくれ」


     〇


 馬車の窓に下げられたカーテンは揺れる。柔らかく形を変えながら、音も立てずに。

 帰路を辿る中、僕はその様をぼんやりと眺めながら、国王の言葉を反芻していた。

 布に光を遮られているせいもあるのだろう、車内の空気は重苦しい。

 ウラグから教わった歴史を思い出す。四つの国が集まり、エニツィアという国が生まれて以降、レカルタは一度も戦場になったことがないそうだ。ラ・ウォルホルはもちろんのこと、メイトリンも海上から攻めてくる敵がいた。アノゴヨもその知識を奪おうとした国と戦ったことがあるらしい。レカルタだけが戦いから遠ざけられていたのだ。


 国王は本来王位を継ぐはずの人間ではなかったという。継承権があったのは彼の兄で、病で亡くなったために選ばれたのだ、と。

 それらの事情を斟酌すると彼が弱気になったことも理解できるような気がした。

 ……ああ、命令ではなく、単なるお願いとして「人を殺せ」と言われたのは初めてだ。元よりそのつもりではあったが、その重さに気持ちは沈んでいく。

 その表情が目に入ったのか、アシュタヤが僕の手を握った。


「ねえ、ニール、陛下はなんと仰ってたの?」

「一つは噂のこと、もう一つはお願いをされた」

「お願い?」

 負けたら、という言葉を飲み込む。「……ギルデンスとオルウェダを殺してくれ、ってさ。こっちは最初からそうする予定なのに、お願いまでされちゃったよ」


 おどけ、明るく振る舞う。そうでもしなければ圧力に押しつぶされてしまいそうだった。それが功を奏したのか、わずかに車内の険しい雰囲気が緩和した。もしくは誰もが緩和させようと努めた。ウェンビアノがわざとらしく長い息を漏らし、カンパルツォに訊ねる。


「レングさん、まずどうにかしなければいけないのは噂、ですね。汚れはすぐに洗った方が良さそうですが」

「うむ……だが、市民が求めるのは言葉ではないだろうな」

「ヤクバとセイク、レクシナに暇を与えますか」

「いや」とカンパルツォは首を振る。「あやつらは恐らくレカルタに留まる。そうなれば形だけと追及されるだろう」


 ヤクバたちは不真面目ではあるが、不誠実ではない。カンパルツォとの約束を破ることはないだろう。ましてや、マーロゥとヨムギを弟子としている彼らが王都から離れる可能性は限りなく薄い。

 もっと分かりやすい縮小を――僕とウェンビアノは同時にそう考えたらしく、視線がぶつかった。彼はばつが悪そうに視線を僕からアシュタヤに移し、それからフェンを一瞥した。

 車内に再び沈黙が訪れる。


 誰もが仲間を切り捨てることができないのは自明だった。マーロゥとヨムギはヤクバたちと同じく、この街に残るだろう。アシュタヤは論外だ。

 可能性があるとしたら僕とフェンだが、事情を知ってなお、離れたくないと思ってしまっている。ここは僕のいるべき場所で、失われていくべき居場所であるとは考えたくなかった。

 きっと思いとしてはフェンも一緒だろう。エニツィアは彼にとっても替え難い場所のはずだ。彼を――


「――あ」

「……どうした」ウェンビアノはその鋭い目を向けてくる。「何か考えがあるのか?」

「いえ、考えってほどではないんですが」

「言ってみろ」

「その、ですね……解決するというかなんというか……でも、伝えておかなければいけないことでもあるので」


 僕は一度深呼吸をして、フェンを見つめる。察した彼が何か言うよりも先に真実を打ち明けた。


「フェンに魔法陣の影響が出ています」


 言い切った瞬間に、強い音が打ち鳴らされた。フェンが苛立たしげに床板を踏んだ音だ。アシュタヤが身を竦ませる。そのさまさえ見えていないのか、フェンは怒気混じりに叫んだ。


「ニール! 問題ないと言っただろう!」

「待て、フェン。……ニール、それは本当か」

「ええ、本当です。詳しいことはエルヴィネさんに聞いた方がいいかもしれませんが」

「ウェンビアノさん! 俺はまだ戦える!」


 ああ、胃が縮むようだ。僕の口からフェンにとって残酷な真実を告げるのはひどく辛いことだったが、しかし、僕が告げなければいけない真実でもある。


「……フェン、僕にはフェンの気持ちが分かれないんだ。……僕は大事な誰かを殺したことはあっても、殺されたことはないから……口が裂けても『気持ちは分かる』なんて言えない。その上でお願いだ……フェン、僕をフェンの代わりにしてくれ」


 僕が、ギルデンスを殺す。

 それが、僕の役目だ。


「伯爵さま、ウェンビアノさん、フェンが身体に刻んだ魔法陣を……消させてください。フェンはもっと大きな場所で戦うべき人だと、そう思うんです」


 そして、それは護衛団の縮小に繋がる。こんなちゃちな手段だけで怒れる市民の溜飲を下げられるとは思わなかったが、それでも何をしないよりましだ。

 頭を下げる。

 馬の蹄の音と街中の遠い喧噪が、沈黙を包んでいる。

 その後、馬車はしばらく進んだ。カーテンは閉じられていたが、人通りの少ない道を進んでいるのが分かる。あと五分も行けば貴族地区へと入るだろう。

 すぐに決断できる事柄ではない。与えられた時間は多くないが、それでもフェンには納得とともに返答をして欲しかった。

 だが、その期待とは裏腹に、あっさりと沈黙が破られた。


「御者のきみ」


 そう言ったのはカンパルツォだ。朗らかでありながら、決意を感じさせる、力強い声だった。彼は「南の、広場の方に向かってくれ」と指示し、僕に目を向けた。


「ニール、そう険しい顔をするな」

「え」

「お前はまだ若い。その年から眉間に皺を寄せているとウェンビアノのような顔になる」そう言って、彼は車内の雰囲気にはそぐわない明るい声で笑う。「……お前がすべてを背負おうとする必要はないのだ。いやなに、フェンくんに任せろと言っているわけではない。おれにとってもフェンくんは大事だ」


 カンパルツォの眼差しは淀みのない、芯のある強さに満ちていた。彼は座ったままカーテンの端を握り、思い切り腕を振り下ろした。ぶちっ、と布と棒を結んでいた紐が切れ、光が飛び込んでくる。初めは緩やかに流れていた風景が次第に速度を上げていく。

 進むにつれ、人の数は増えた。その光景を眺めていたカンパルツォは不意に向き直り、フェンからアシュタヤ、そして僕へと順に目配せをした。


「心配するな。この国を守ろうとするお前たちを、おれは全力で守る。それが貴族という存在であり、おれという存在だ。お前たちは自分が正しいと思う道を歩け」


 馬車が停まったのはレカルタの中央にある大きな広場だった。円形の広場、中心には小さな芝生がある。カンパルツォは何も言わずに扉を開き、馬車から飛び降りた。すぐさまウェンビアノが、呆れたような顔つきで後を追い、僕とアシュタヤ、フェンもそれに続く。

 広場にいる市民は突然の出来事に戸惑っていたが、その戸惑いは誰かの呟きによって不穏なものへと変わっていった。「あれ、あのカンパルツォじゃないか」それだけで、歯車に異物が挟まったかのような、ぎくしゃくとした空気が広がっていく。


「ウェンビアノさん」アシュタヤが前を歩くウェンビアノに声をかける。「伯爵さまはいったい何を」

「計りかねます……計りかねますが、どうせろくでもないことかと」


 呆れ顔を装ってはいたものの、滲み出る雰囲気には理解と信頼が見て取れた。ウェンビアノは声量を落とし、僕たちに向けて囁く。


「アシュタヤさま、何か異変がありましたらすぐに……フェン、ニール、いつでも動けるようにしておけ」


 僕は慌てて手袋を外し、〈腕〉をカンパルツォの方へと動かした。それから、横目でフェンを覗き見る。彼の表情には明らかな躊躇が浮かんでいた。己の腕、そこに刻まれた魔法陣を凝視して、一瞬、ひどく悲しそうに笑い、視線に気付いたのか、顔を上げた。

 カンパルツォが叫んだのはそのときだった。


「諸君、おれが悪逆の徒と噂されているレング・カンパルツォである!」


 びりびりと皮膚が震える。

 七十に近い老齢の男が出せる声量ではなかった。聳え立つ大木を思わせるその声はレカルタ中に響き渡るほどに大きく、広場にいたすべての人の動きを止めた。

 何を言っているのだ、とそんな疑問を抱く暇もなく、彼は上半身を露わにした。傷だらけの身体だ。エニツィアを守るためについたと思われる古傷を、彼は隠すことなく誇らしげに周囲の市民へと晒している。


「事実無根だと騒いだところで諸君らは納得しないだろう……しかしながら、何度でもこの五体に誓おう……おれは死ぬまでエニツィアのしもべである!」


 突然の出来事に広場は凍りついている。全員の視線がカンパルツォに集中しており、眉を顰める者もいれば、好奇の目で眺めている者もいた。それらすべての感情を受け止め、カンパルツォは続ける。


「納得できない者は出てきて欲しい。そして、考えていることを吐き出せ! 言葉がなければ、身体をぶつけに来ても構わん……おれは諸君らのすべてを受け止める!」


 中心で生まれた波は広場全体を飲み込み、そして、人の声を伴ってカンパルツォのもとへと戻っていった。

 ある人は「何のつもりだ」と困惑する。ある人は「ふざけるな」と怒りに手を振り上げる。ある人は「いいぞ」と囃し立てる。そこにあったのはすべてがすべて歓迎すべきものではなかったが、紛れもなく市民たちの嘘偽りのない感情だった。

 騒然とした広場でカンパルツォは一切揺らぐことなく立っている。地面に根を下ろした彼はすべての声を受け流すことなく、ぎらぎらとした目つきで受け止めていた。

 僕は状況を整理できないまま、困惑を口にする。


「……ウェンビアノさん、いいんですか」

「よくはないな」彼はそう言って、肩を竦めた。「だが、これがレング・カンパルツォという男だ」


 ウェンビアノは嬉しそうに騒動を眺めていた。一刻も早く騒ぎを静めるべきなのではないか、とカンパルツォの方へ視線を戻すと、彼の元に一人の男が歩み出ている。がっしりとした体つきの壮年の男だった。


「……俺は頭が悪いから何を言えばいいのかも分からんし、あんたがどういう人間なのか、知らん。だが、悪い噂があるということは耳にした。……後ろにいるのはあんたの護衛か」

「そうだ」

「じゃあ、もし、あんたが悪い人間で、投げ飛ばしちまったら俺は殺されるな」男は振り返り、囲んでいる人々へと叫ぶ。「全員、俺の顔を覚えていてくれ! 俺は靴職人の――だ! もし、俺が消えたらこの熊みたいな貴族の言っていることは決して信じるな!」


 そうでなくとも、と男は続ける。無様に負けた瞬間の顔にその人間性が出るはずだ、と。

 民衆は固唾を呑んで見守っている。カンパルツォは拳で胸を叩き、体勢を低く構えた。


「心配せずともよい。本気でおれを、貴族を打ち倒して見せろ」


 排除すべきなのかどうか判然とせず、アシュタヤの合図を待つ。だが、彼女は微笑みを湛えて首を横に振った。

 次の瞬間、壮年の男とカンパルツォの身体が衝突した。胸を合わせ、手を組んだ二人は力を比べるように揉み合ったあと、互いを投げ飛ばそうと腕を振るった。

 結果など歴然としている。

 いくら身体が大きかろうと、カンパルツォの肉体は衰えている。彼はあっさりと芝生の上に倒れ込み、カンパルツォを投げ飛ばした靴職人の男は誇るかのように両腕を天へと掲げた。

 笑い声が響く。ウェンビアノとアシュタヤ、それと地面に転がったカンパルツォ本人のものだった。僕は呆然と目の前で繰り広げられる珍奇な光景を眺め続ける。

 立ち上がったカンパルツォは服についた芝を払い、「次!」と声を張り上げた。喧噪の中、彼の声は不思議と良く通る。


「他はいないか! 目の前で不満をぶちまけてもいいのだぞ!」


 その言葉にまた一人、男が進み出た。若い、僕と同じ年頃の男だ。あまり身体を鍛えているとは思えず、挑むと言うよりはただ目立とうとしている雰囲気がある。


「あの人も大丈夫」


 アシュタヤの耳打ちと同時に靴職人の男が「始め!」と手を下ろした。若い男とカンパルツォがぶつかり、今度は若い男が地面を転がる。「おお……」と呑気な歓声が湧き、カンパルツォはその中で拳を高く突き上げた。


「鍛え方が足りん! 次!」


 その組み合いを境に広場に一つの列が生まれ始めた。列の先頭にいる者が順にカンパルツォへと身体を預け、力を比べ合っていく。その中の一人が日常生活の不満をカンパルツォへとぶつける一幕もあった。それでも彼は笑うことなく、真面目な顔つきで考え、何かを述べる。

 列には女性や子どもの姿もあった。カンパルツォは目の前に来たすべての人に、同様の態度で接していった。アシュタヤが危険を訴えることは一度もなかった。

 これは何の儀式なのだ、と呆れる。呆れもするが、納得もする。


 民衆が貴族を謗るのは遠く離れた場所にいるからなのだ。声が届かないから憶測を付着させ、当事者のもとへと届くように噂を大きくする。

 しかし、本人が目の前にいるならばその必要もない。

 単純なパフォーマンスであるとせせら笑う人もいるだろう。だが、重要なのはカンパルツォの行動が真実であると考える人がいるかもしれないということだ。彼がプライドだけ立派な貴族ではないと信じる人間がいれば、きっと悪い噂の渦は小さくなっていく。


 ――ああ、見ろ、ギルデンス。

 お前がいくら風を吹かせようと冷や水を浴びせようと、どれだけ策を弄しても、揺るがない人がここにいるのだ。

 カンパルツォと人々の「対談」は日暮れ近くまで続いた。へとへとになった彼は僕とフェンを呼びつけ、「いかん、無理はするものじゃないな」と頬を緩めた。僕もフェンも同じように笑い、肩を貸そうと腕を伸ばす――僕は手袋に覆われた人には見えない〈腕〉で、フェンは魔法陣が刻まれた腕で。

 それが交差する瞬間、僕の〈指先〉が歪に硬化したフェンの皮膚に触れた。傷の集合体である魔法陣には凹凸がある。その感触に彼はちらりと僕へと視線を寄越した。

 フェンは目を瞑り、少しだけ悔しそうな、申し訳なさそうな顔をして再び相好を崩す。彼は口を開き、僕に頷きを送ってくる。「すまん」とも「頼む」とも聞こえた。僕も小さく「任せてよ」と返す。

 馬車に繋がれた馬が待ちくたびれたかのように蹄を鳴らした。

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