第四章 第一節
105 春の日差しは揺りかごに近い
西から東へと向かう旅人は川の流れを恨む。
エニツィアの北部を横断する川は王都レカルタを越えてもまだ続き、海へと流れ込んでいる。もし、川の流れが逆だったらこれほど楽なことはない、と皆が口を揃えるそうだ。
僕はその話をマーロゥから聞いたとき、二つの相反する感想を抱いた。
確かに、とは思う。
今、僕たちを乗せて街道を走る馬車はそれなりに上等なものではあったけれど、尻には絶え間なく振動が伝わってきていた。魔法により整地された道は概ね起伏はなかったが、それでも、小石や動物の死骸などが転がっていて、車輪がそれらを踏みつけるたびに身体が跳ねた。
一方で、そうだろうか、とも思う。
今回は熟練した御者を雇っている。彼らの馬の操作は惚れ惚れするほど手慣れていて、馬車の速度は一定を保ち続けていた。窓から射し込んでくる陽光は暖かく、気を抜けば睡魔が忍び足で瞼を上から下へと撫でつけてくるようでもある。
雪がほとんど溶けて川の流れが強くなる季節、新年までおよそ一月、僕たちはハルイスカやラ・ウォルホルがあるエニツィア東部へと向かっていた。
対面するようにあつらえられた座席、進行方向から見て左に僕、アシュタヤ、フェンが並び、右にはヨムギ、ベルメイア、マーロゥが座っている。最後列にいるフェンとマーロゥは昨夜寝ずの番をしていたからか、寝息を立てていた。フェンは時折目を覚まして、どろりと澱んだ目で周囲に視線を送っていたが、マーロゥが起きる気配はなかった。
「私」とベルメイアが窓から入ってくる風の匂いを嗅ぎ、言う。「ハルイスカにずっと行きたいと思ってたの。エイシャのお父さんとお母さんに一度会ってみたくて」
「なんだ、ベルメイア、ハルイスカにも行ったことないのか」
優越感に鼻息を漏らすヨムギに、ベルメイアはわずかに目を細めた。
「へえ、じゃあ、ハルイスカの名産ってなあに?」
ぐっ、と声を詰まらせたヨムギは縋るような視線を送ってくる。一瞬の対抗意識で窮地に陥ったのは彼女自身で、助け船を送る気にもなれず、僕は肩を竦めた。その反応にベルメイアは褒めるような表情を浮かべ、ヨムギの顔を覗き込む。
「なに、行ったことあるのに、ヨムギは分からないの?」
「……馬鹿にするな、知ってるに決まっているだろう」
「じゃあ、教えて?」
「それは」
ヨムギは視線を辺りに彷徨かせる。広い馬車の壁に正解が書いているわけもなかったが、彼女はそこではたと膝を手で打った。
「花だ! どうだ、正解だろう」
自信満々な回答に意地悪く首を振ったのはアシュタヤだった。「花だけじゃないですよ」と彼女が歌うように言うと、ヨムギの顔が曇る。
それから、ベルメイアはヨムギに対してハルイスカの講義を始めた。訪れたこともないのによほど予習をしてきていたのか、その説明は驚くほどに淀みない。ヨムギは唇を尖らせながらも口を挟むことはしなかった。
僕は聞き咎められないよう、小さく笑声を漏らし、外を眺める。
もう、春が近い。
濡れた地面には草が芽吹き始めている。気の早いものは蕾を開きかけてすらいた。
ギルデンスの宣告通り、冬の間、目立った戦いは起こらなかった。誰もが、獣たちでさえも、生きるのに必死なのか、冬は戦いが起こりにくい。その間、僕たちは平穏な暮らしを送っていた。
だが、その平穏は逆説的にギルデンスの予告に信憑性を与えた。
エニツィアを二分する内乱。既得権益におもねる貴族たちが人々に剣を掲げさせ、体制を破壊せしめようとしている。予定――と表現するにはあまりに血腥い予定が秘密裏に進行しているのはもはや疑いようがなかった。
そして、それがハルイスカ、そして、ラ・ウォルホルへと赴いている理由である。
表向きはアシュタヤの帰郷としていたけれど、最大の目的は別にあった。
「どうしたの?」
不意に左から声をかけられる。隣に座るアシュタヤは小首を傾げて僕の手に触れた。
「物憂げだけど……心配事?」
「心配事ってほどじゃないけど……不安は不安だね。何に対してかは口を噤もう」
「……私の両親なら大丈夫よ。ニールはお母様のこと怖がってるみたいだけど、そんなことない。息子が欲しいって言ってたこともあるし」
「そこあたりはきみを信じることにする。そうしなきゃ、今すぐ川に飛び込んでレカルタに戻りたくなるだろうし」
アシュタヤは僕の弱気な発言に苦笑を忍ばせる。
何に対してか――僕が気がかりとしているものの一つはアシュタヤが言ったとおり、ラニア夫妻との再会だった。特に彼女の母親、シャンネラは以前、明らかな怒りを僕へと向けていたからだ。アシュタヤと僕は元の関係以上の繋がりになっていて、その事実が劇的な変化をもたらし、シャンネラの態度を軟化させないものか、と無責任な期待を抱いたが、それはやはり無責任すぎる願望でしかないだろう。
そして、もう一つ、僕が心掛かりとしていること。
それは僕たちの最大の目的に付随するものだった。
夏にあった第二次ラ・ウォルホル戦役、そこでエニツィア軍はボーカンチ解放軍の阻害魔術師に大いに苦しめられた。
内乱が発生するという「噂」はカンパルツォを通して国王の耳にも入っている。国王自ら証拠をでっち上げて貴族たちを放逐できるわけもなく、彼は戦争の対策としてカンパルツォに対し、一つの勅令を下した。
「捕虜としたボーカンチ解放軍の阻害魔術師を引き入れよ」
それがハルイスカ、ラ・ウォルホルまで足を伸ばしている理由である。
僕は流れる風景を漫然と眺めながら、ボーカンチ解放軍の阻害魔術士、エルヴィネのことを思い出す。彼女のその後は少しだけ耳にしていた。僕がラ・ウォルホルを去った後、彼女は真実を語り、協力を申し出たという。ボーカンチの発達した魔法理論はラ・ウォルホルの防備をさらに強固なものにしたそうだ。
……彼女は、僕がいてもエニツィアの力になってくれるだろうか。
ボーカンチから流れてくる川の勢いは滑らかで雄大だ。陽光を反射して水面に作られる鱗に僕は目を細め、その中に溜息を隠した。
――川の流れを恨む旅行者の話にはおちがある。
ハルイスカで土産物を買い込み、かつてあったラ・ウォルホルの商業地区で思い切り羽を伸ばした人々は淀みなく流れる川を見て、再び恨んだという。
余韻も何もなく、送り返されるのか、と。
帰り道にその程度の余裕がありますように、と強く願い、シャンネラもエルヴィネも僕に優しくしてくれよ、と胸中で呟く。
〇
ハルイスカまであと一日、馬車は運河沿いの街で停まった。ラ・ウォルホルの商業地区がなくなって久しいとは言え、東方諸国との交易は続いている。そのため、運河を目前に控えるこの街も交易品運搬の中間地点として隆盛を保っていた。
規模はバンザッタより一回りほど小さいくらいだろうか。建築物や街を歩く人々の服装には異国情緒が感じられ、空気の匂いすら異なっているようにも思えた。
この街の住民の多くはもともと第一次ラ・ウォルホル戦役、「太陽」により放棄された商業地区に住んでいたそうだ。「草原と陽気な魔法使いの国、ラ・ウォルホル」の末裔は異文化を必要以上に受け入れる気質らしく、街を歩く人の出で立ちにはどこかオリエンタルな要素が醸し出されている。帯で止める形式の服が至るところに散見され、建物も運河に近い中心街は煉瓦造りが主だったが、郊外には木造の住宅が多く並んでいた。
僕たちの宿は運河にほど近い場所にあった。煉瓦作りの客人用の邸宅、窓からは星の光を反射する川とそれを横断する大きな水門が見える。
食事を摂ると、アシュタヤやヨムギ、ベルメイアはすぐに床に着いた。馬車に乗っているだけでも体力は消耗する、彼女たちはほどなくして寝息を立て始めた。
一方、フェンとマーロゥは部屋の中に備え付けられた椅子に座り、剣に関する話をしている。馬車の中で睡眠を取っていた二人の表情には活力が十分なほどに残っていて、ベッドの方をちらりとも見ていなかった。
いつ眠ったものか、と思案していると、それが伝わったわけもないだろうが、椅子に座っているフェンが横目に僕を窺ってきた。
「ニール、寝なくていいのか」
「一応、馬車の中で寝てたし、それに、何か眠くないんだ」
マーロゥはそれを聞いてほくそ笑む。「緊張か?」
「茶化さないでよ、マーロゥ。本当に胃が痛いんだ」
「小心者だな」
「よく言うよ、ヨムギの家族に会ったとき、ひどい顔をしてたくせに」
僕の言葉にフェンが笑いを漏らした。バンザッタのときと同じような一幕がレカルタでもあったからだ。
先発隊から送れること半年、ラ・ウォルホルで作業を続けていた残りの傭兵団がヨムギの元を訪れたのである。そこでちょっとした会合が開かれ、マーロゥは再び醜態を晒していた。
「どこの国でも恋人の親に挨拶しにいく男は同じ顔をする」とフェンが目を伏せる。
「恋人じゃないマーロゥは調子に乗ってたけど、玉砕した」
僕の意趣返しに彼は不満そうに眉間に皺を寄せた。「俺の場合はまた別だっつうの。ヨムギは父親が十人もいるようなもんだろ。お前は、っていうかアシュタヤさんは男親と女親の二人だけだ」
「アシュタヤの場合は母親が強烈なんだよ……そうだ、フェン。フェンの場合、っていうかイルマの場合はどうだったの? イルマの旦那さんも挨拶に来たことくらいあるでしょ」
彼はあまりイルマのことを語らない。だが、兄妹仲が良好であるのは間違いなく、もしかしたらと想像するとおかしくなった。
もしかしたら激昂して追い返した可能性もあるぞ。
僕はフェンの表情を覗き込み、返答を待つ。少し間を置いて、彼は目を逸らし、「別に」と平然とした表情を繕った。
「別に、俺は大して反対しなかった」
「目に見えて嘘じゃないか」
僕の指摘にマーロゥが噴き出す。
フェンの表情には珍しく狼狽の欠片が浮かんでいた。この様子では大きな一悶着があったに違いない。妄想に妄想を膨らまし、追及を重ねると彼はおもむろに立ち上がる。何をするかと思えば、僕の鞄を漁り、ヤクバたちへの土産として購入していた蒸留酒を取り出していた。
「ちょっと、フェン、それ僕が買ったやつなんだけど」
「硬いことを言うな」
フェンはほくそ笑みながら酒瓶を揺らす。すると、中の液体が瓶の内側に当たり、ふくよかな音を立てた。その違和感に、意図せず、僕の口から「あれ」という声が飛び出る。
「……ねえ、もしかして昨日も飲んだ? 気のせいかな、減ってる気がする」
「フェンさんに酒を誘われるのは初めてだった気がするな」
「どうりで道中で眠りこけてたわけだ……フェンなんて起きてもまだ目が虚ろだったしさ。買い直すから、そのときはお金出してよ」
溜息を吐き、フェンを睨む。彼は「分かった分かった」と子どもに諭すように繰り返した。
しかし、と僕は訝る。しかし、珍しいこともあるものだ。あのフェンが人の酒を勝手に飲むなんて、らしくない。この任務に気負いでもあるのだろうか。
しばらくフェンを凝視していたが、結局その違和感の正体を発見することはできなかった。彼の表情には薄い緊張の膜が張られているようにも、そうでないようにも見える。彼がたまに行う質の悪い悪戯である確率の方が高く、そう考えると途端に馬鹿らしくなった。
「帰ったらゆっくりできる時間もない。こういうときくらいじゃないと飲めないだろう?」
幸い、この建物は警備兵も多く、夜通し警戒する必要もない。僕は追及を諦め、立ち上がり、隅に置かれた食器棚からグラスを三つ取り出した。
「お前の言う阻害魔術師の話も確認しておきたいしな。ヨムギの現状もだ」
フェンはそう言ってグラスに酒を注いでいく。アルコール度数の強い酒は甘みのある芳香を漂わせる。彼は二つのグラスに一口で飲み干せる程度の酒を垂らし、それから残る一つを縁まで並々と満たした。溢れそうになっているその一つを僕の方へと寄越してくる。
「ほら、飲め」
「いや、ちょっと、フェン。量がおかしくない?」
「目の錯覚だ」
そこで再び、マーロゥが大きな笑い声を上げた。「ニール、お前、つぶされるぞ」
酒はまだ入っていないというのにフェンはどろりと濁った目で僕を見つめていた。怒りの臭いはしない。僕がこの世界に来たばかりの頃のように、僕で遊んでいるのだ。
呆れていると、マーロゥはあっさりと寝返り、素早く自分のグラスを確保した。彼の「乾杯」にフェンも応じてグラスを掲げる。どうしようもなくなって、僕は目の前の酒に手を伸ばした。
ヨムギが起きてくれないだろうか。彼女は水や氷を作り出せる。ヤクバの神は激怒するだろうが、何かで薄めないと飲み干せる気がしない。
「心配するな」フェンは相好を崩し、窓の外を指し示した。「運河はすぐそこだ。吐きに行くときはついていってやる」
「そういう問題じゃないよね」
「つぶれたら何の胃の痛みか分からなくなるじゃねえか、ちょうどいいぞ」
「そういう問題でもないよね」
グラスを揺らして催促してくるマーロゥに僕は溜息を吐く。
一理ある、とは微塵も思わなかった。大体、酒臭い息でラニア家を訪れたらそれだけでシャンネラの機嫌は悪くなるだろう。
眠気よ、早く訪れろ。そう願って、僕は琥珀色の液体に口をつける。アルコールは舌が痺れるくらいに強く、顔を顰めるとフェンが身体を揺らして笑った。それも、やはり彼らしくない笑い方だった。
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