103 英雄から
レクシナは夏が好きだ。
本人から聞いたわけではないが、そうであることは彼女の出で立ちを見れば火を見るより明らかである。外を闊歩するとき、彼女はいつも、身に纏うと言うにはあまりに肌の露出が多い扇情的な装いをしているからだ。
バンザッタでは朝夕になると秋の感触を感じさせる風が吹き始める頃合いになっているが、レカルタではまだ残暑が厳しい。午後の日差しは皮膚に刺さるような鋭利さで降り注いできており、道行く人の服装も夏らしい格好のままだった。その中でもレクシナの露出度は群を抜いて高く、通りを歩いていると男たちの好色な視線を感じた。
僕とレクシナはレカルタがエニツィアに誇る商業地区へと赴いていた。
傭兵は箪笥を持たない。「必要ない物を買う意味はない」という意味を持つその言い回しは一種の慣用句として成立してしまっている。
衣服というものは季節ごとに揃えねばならない上にかさばって仕方ない。そのため、各地を飛び回る傭兵が翌年に同じ服を着るのは非情に稀なことでもあった。毎年買い換えるとなるとどれも粗雑な作りになってしまうのは当然で、そうなると貴族地区を出入りするにはあまりに野蛮に過ぎる。
僕とヨムギは一刻も早く真っ当な服を手に入れるべきであり、それが商業地区へと足を運んだ理由だ。
レクシナと二人になったことには大した理由などない。
カンパルツォたちが帰ってくる夜まで、ぽっかりと時間が空いてしまったのが僕とレクシナだけだったからである。
もっとも帯同すべきヨムギはベルメイアとの魔法対決に夢中となっているし、そもそもあまり服には関心がない。ヤクバは監督役として残ることになり、セイクとマーロゥは水浸しになった居間の掃除をさせられていた。アシュタヤも誘ったが、彼女は今回の視察や戦争の指揮など、バンザッタにいる間に書き終えていた書類を精査しなければならないらしく、謝罪とともに断られてしまっていた。
レカルタの商業地区はさすが王都と評するべき賑わいに満ちている。全国各地から品物が集まるだけあって店舗数はバンザッタとは比べものにならない。通りを埋め尽くしてもなお足りず、左右どちらの路地の先にも同じような人の流れが垣間見えた。
アメリカンドリームさながら、商人たちはレカルタでの成功を夢見て出店してきているのだろう、店の中には輸入品を扱う店もあり、雑多な雰囲気が漂っている。とはいえ、客の目を引くためにつけられた装飾はある種の調和が保たれていて、その景色を眺めているだけでも十分な満足感があった。
服屋、日用雑貨屋、料理店。端が見えないような商店の列に視線を彷徨かせているとレクシナが歌うように提案した。
「まずヨムギちゃんの服、買おうか。あたしの行きつけの店があるんだ」
「……レクシナの服をヨムギに着せて喜ぶのはマーロゥだけだと思う」
「あたしも、似合わないと思う」
「じゃあ」
「でもさ、せっかく服を買いに来てるんだし、あたしも自分の欲しいんだよねえ」
その時点でレクシナの口調は提案から表明へと変わっている。どうやら、こちらの意見を聞く気はなさそうだ。想定以上の荷物に翻弄される未来を想像し、僕は先にお願いをすることにした。
「実は、先に行きたいところ、あるんだ」
「あれ、ニールちゃん、レカルタ来たことあるの?」
「あると言えばあるけど、ないって言った方が近いかな」
「なにそれ」彼女は大袈裟に顔を顰める。
「寂れた食堂でご飯を食べて、斡旋所に行っただけだったからさ」
「斡旋所って……結構最近じゃん!」
「それはそれとしてさ」とレクシナの追及を躱して、僕は言った。「服を買う前に、ロディのところに行きたいんだ」
その主張にレクシナの笑顔の温度が変わっていく。熱いくらいだった興奮が暖かなものへと変質し、彼女は小さな溜息を漏らした。
「……ニールちゃんは律儀だねえ」
「こういうのって先延ばしにすると足が重くなるでしょ?」
「それもそっか……。じゃあ、そっち先に行こ。一発くらい殴られるかもしれないから覚悟しておいた方がいいかもね」
「好都合だよ」
「え? なんで?」
「だって、頬を張らしてたらフェンたちも手加減するかもしれないだろ」
「……考えが甘いなあ、ニールちゃんは。あいつはこれ見よがしに同じ頬を殴り飛ばすよ」
けらけらと笑うレクシナに感謝する。
レクシナはいるだけで空気を和らげてくれる。そのおかげで足取りは軽い。
〇
ロディとの再会はたった数分で終わった。
彼が弟子入りしたという鍛冶屋は、延焼への対策か、商業地区の外れにあった。古めかしい外装は歴史を感じさせ、緊張を促進させる。レクシナに背中を押されて店内へ入ると、恰幅の良い女性が僕たちを迎えた。三十代までいかないだろうか、肌には若さを感じたもののその威勢の良さからは看板娘というより女将といった風格が漂っている。
鍛冶屋の女将はレクシナとは顔見知りのようだった。レクシナが何か言う前に、彼女は大きな声でロディを呼びつけた。
「ロディ、お客さんだよ! レクシナさん」
「なんだよ、師匠が来るまでに仕事やっとかなきゃいけねえっつってんだ、ろ、って……」
奥の工房から出てきた彼と視線がぶつかる。彼は身体を硬直させ、ぽつりと呟いた。
「……ニール」
「……お久しぶりです、ロディさん。……あの」
頭を下げようとした瞬間、ロディは背中を向け、舌打ちとともに奥へと引き返していった。
腹の中身が溶けていくような気分になる。――顔も見たくないほどに怒りがあるのだろうか。僕はそう考え、同時にそう考えるのが当然とも思った。しかし、納得とは裏腹に気分は沈む。用意していた言葉が融解した腹の中身に炙られ、じりじりと燃えていくような気がした。
唇を噛み、俯く――その間際、がたん、と音が轟いた。
顔を上げる。ロディが跳び上がっている。
奥から突き進んできた彼はカウンターに左腕を突き、勢いよく飛び越えていた。小さな木箱を右腕に抱えたまま、危なげなく着地し、彼はつかつかと歩み寄ってくる。僕の前まで来た彼は左腕を振り上げ、怒声とともに振り下ろした。
「――仕事の邪魔をするな!」
右頬に硬い痛みが走り、衝撃にたたらを踏む。痛みよりも、疑問を感じた。カウンターの奥にいた女将が出てきてロディを羽交い締めにする。
「ちょっとあんた何してんの!」
「師匠にもお前にも頭が上がんねえから憂さ晴らしだよ!」
「馬鹿じゃないの!」
「僕は大丈夫です、大丈夫ですから」僕は口論に割り込み、じっとロディを見つめる。「えっと、あの」
肩を極められて呻いていたロディは、解放されると痛そうに身体を擦った。憂さ晴らし、と言ったはずなのに、その憂さの痕跡は彼の表情のどこにも見当たらない。
「……仕事の邪魔をしたのと、鬱屈とした毎日を解消するために殴った、それだけだ。詫びのつもりはねえけど、ついでにこれをやる」
ロディは右手の木箱を投げて寄越した。「開けても?」と窺うと首肯だけを返される。
木箱の中に入っていたのは刃渡り二十センチメートルほどの短剣だった。柄にも茶色い革の鞘にも装飾がなく、武骨で、どこか静寂を感じさせるナイフ。
「……邪魔だから捨てようと思ってたんだ」
歯切れ悪くそう付け加えたロディに、女将は「はあ?」と顔を顰めた。
「なに言ってんのよあんた、それ、父さんに褒められて小躍りしてた奴じゃない」
「うるせえ、余計なことを言うな」
ロディは苛立たしげにそう言うと再びカウンターを乗り越え、工房へと引き返していった。その途中で一度立ち止まり、振り返りもせずにぽつりと呟いてくる。
「俺は忙しいんだ。……ニール、暇なときなら歓迎してやるよ」
「……ありがとうございます」
礼を言い終える前にロディの姿は消えていた。頻りに謝ってくる女将をなんとか宥め、僕は笑顔を浮かべる。頬は痛いが、短剣の代金としてはあまりに釣り合わない。
〇
買い物はレクシナとヨムギの服を買い終えたところで打ち止めとなった。
小一時間程度だったというのに荷物は僕とレクシナでは抱えきれないほどになってしまっていて、まさかこの街中で〈腕〉を堂々と使うわけにもいかず、僕たちは大人しく帰途へとついていた。
歩きながら「目的を達成できてないんだけど」と唇を尖らせてみる。「僕の服がない」
「あたしの貸してあげよっか」
「……レクシナは頭が良いね」
「でしょお?」呆気なく皮肉を跳ね返したレクシナは艶然とした笑みを浮かべた。「ニールちゃんのはまた今度ね。アシュタヤちゃんとかセイクと一緒に来よう」
「ヤクバは?」
「あいつはださいからだめ」
それから、レクシナは四方八方に飛び散った話題を手当たり次第掴んで放り投げるように、様々な話をしてきた。それはロディの結婚に関することであったり、フェンへの文句であったりした。商業地区を抜け、遠くにある城を見上げ、貴族地区へと向かうときにはヨムギやマーロゥの話へと変わっていた。
いや、彼らに関する話というのもあまり正確ではない。むしろヨムギに魔法を教えているヤクバ、マーロゥに剣術を教えているセイクの話、と言った方が正しい。レクシナは愉快そうに笑っていながらも、その表情にはどこか影を忍ばせていた。
「あいつら、ずるいよね」と彼女はぽつりと溢す。「弟子ができたら、それを楽しそうに言うんだもん。今日はどうだったー、とかさ」
「でも、レクシナだってヨムギに魔法を教えてるでしょ。なんならベルメイアさまにだって」
「教える、って言うほど教えてないよ。ヨムギちゃんに教えてるのは主にヤクバだし、ベルちゃんはたまに会ったときだけで朝から晩まで、ってのはなかったもん。今じゃもう教える機会もないし」
レクシナの愚痴には怒りではなく、寂しさが滲んでいる。適切な慰めの言葉が思い浮かばず、僕は沈黙したまま、彼女の横顔に目をやった。
「確かに、あたしはあいつらほど強くないけどさ」
「え」そこで沈黙を忘れる。「そうかな」
「そうだよお。まともにやったら絶対勝てないんだよねえ……それにあいつらと違ってあたしが活躍できるのって条件が限られてるしさ」
否定するべきだったのかもしれないが、それを口から出すことはできなかった。
彼女は風の魔法を用いて、飛び上がり、相手の攻撃の届かない場所から戦う。少人数の戦闘なら絶大な戦力にはなるが、魔法が飛び交うような多数対多数の戦闘では的になる可能性の方が高い。
普段から飄々とした彼女にも悩みがあることを知り、僕はやはり困惑していた。
「あたしも女だしなあ……魔法は鍛えられても身体は限界あるんだよねえ。もっと強かったら弟子もわんさかいたかもしれないのに」
「……そんなに弟子欲しかったの?」
「いや、わんさか来ても困るけどさ。でもあたしも師匠面したいじゃん?」
冗談めかした口調からは憂いを拭うような素振りがあったが、未だ残滓が付着している。彼女は柄にもない、と考えたのか、殊更に明るく取り繕い、酒の話へと話題を変えようとした。
僕の中に一つの確認が浮かんだのはそのときだ。口は意志を越えて、滑らかにその言葉を発音する。
「でも、レクシナも一応、弟子いるじゃないか」
「はあ? ヨムギちゃんもベルちゃんも違うって言ってるでしょ?」
「そうじゃなくて」
「じゃあ、誰ぇ?」
「僕だよ」
レクシナの顔が不可解そうに歪む。何を言っているのだ、と言いたいことは分かったし、実際彼女はそれを口にした。「なに言ってんの?」
「え、いや、忘れたの?」
「忘れたって、何が?」
「デギ・グーを狩ったときのことだよ。この前だって、レクシナが自分の指導のおかげだ、って言ってたのに」
超能力に対する認識が変わったのはあの出来事がきっかけだ。
僕を縛っていた常識を蹴り飛ばしたのは他ならぬレクシナであることは間違いがない。もしあの出来事がなければ僕はフーラァタに対抗することもできなかっただろう。もちろん、〈腕〉が肩へと癒着した後も同じだ。
超能力は身体と何ら変わりがない、そのヒントを与えてくれたのはレクシナだった。
しかし、それを知らない彼女は未だ納得がいっていないようだ。唇を尖らせて、僕の脛の辺りを弱々しく蹴った。
「でも、どっちかっていばニールちゃんの師匠はフェンでしょ?」
「体術はね」それは認める。「でも、超能力は絶対にレクシナだよ」
「……本当に?」
「嘘なんて言わないよ」
「んー、じゃあ信じてあげよう」
レクシナは自分に言い聞かせるように力強く「ニールちゃんはあたしの弟子」と断言する。それが気を和らげたのか、彼女は眩しいほどの笑顔になり、ゆっくりと深呼吸をした。
「ってことは、あたしが弟子持ち一番乗りだったってことだよね?」
「そうなるね」
「これは自慢できる!」
にへら、とレクシナは僕に笑みを向ける。僕よりも六つ年上のくせに幼さがあり、胸の内側にくすぐったさを感じた。
「一人に一人の弟子かー……あたしらも三人、ニールちゃんたちも三人だね」彼女の呟きにはしみじみとした感慨深さがあった。「いつか、ニールちゃんたちも弟子を持ったりするのかな」
「……どうだろうね」
「でも、セイクとマーロゥくんは似てるけど、あたしとかヤクバはニールちゃんとかヨムギちゃんとはあんまり似てないね」
「そうかな? 結構ぴったりだと思うけど。ヨムギもヤクバも根は真面目だし」
「じゃあ、あたしたちは?」
僕はしばらく考え、これしかない、という一言を口に出した。
「僕も、レクシナも、頭が良い」
噴き出した彼女は、愉快そうに荷物を揺らす。「本当だ! すごい似てる!」
「でしょ?」
「ニールちゃんは良いことを言うなあ」
レクシナはこの一ヶ月、かすかな煩悶を抱いていたのかもしれない。家族同然に過ごしてきたヤクバとセイクとの差が頭の中にちらついていたのだろう。だが、今は彼女らしい、一点の曇りもない表情で「一緒に来て良かったよ」と言った。「素晴らしい気休め」だと。
「気休めのつもりはなかったけど」
「それでもあたしの気休めにはなったからいいの! ……知ってる? 気休めってのは命を救うこともあれば世界を救うこともあるんだよ?」
「……気休めにしては壮大じゃない?」
「そんなことないってば。建国のお話のエニツィアだって、あんなの初めは気休めだったと思うよ? みんなで協力すれば化け物を倒せる、だなんて誰が真に受けると思う?」
「でも、実際に倒したんでしょ?」
「気休めあればこそ、だよ。人ってさ、必死なだけだと失敗しちゃうじゃん」
レクシナの足取りが少し速くなる。彼女は上機嫌で貴族地区へと進んでいく。僕もそれを追って小走りになると、抱えた荷物がぐらぐらと揺れた。
「ねえ、ニールちゃん。ヤクバとセイクにも教えてないんだけどさ、師匠と弟子だし、特別に教えてあげる」
「なに?」きっとろくでもないことなのだな、と思いながら続きを促す。
「春には色々起こるんでしょ?」
「まあ、うん、そうだね」
冬を越えた後、春、建国祭の前に戦いが起きる、とギルデンスは断言した。彼が嘘を吐く理由はない。既にそのときへと向けた準備が始まっているはずだ。暖かくなり、融解を始めた雪の層が崩壊するように、春にはエニツィアはひび割れる。
だが、それでもレクシナの顔には悲観的なものは幾ばくかもなかった。
「あたしね……それが一段落したら、この仕事やめようと思ってるの」
「え」
「カンちゃんには申し訳ないけど、あたしもそろそろ衰えてくる頃だしさ。……そろそろやろうと思ってたことやりたいな、って」
「それは」思考の整理が追いつかず、僕は一言疑問を口に出すだけで精いっぱいだった。「なにを」
「いろんな場所行ったりだとか、そういうのもあるけど……いちばんはあたしと同じ子どもを助けてあげたいんだ」
あたし、親に捨てられたらしいんだよね。
彼女の声は空気に攪拌されるかのように、するりと溶けた。
誰かに聞いたわけではなかったが、なんとなく察しがついていたことだ。ヤクバもセイクも、そしてレクシナも、親や故郷の話をしたことはない。彼らは皆、それぞれの事情を持って、生きてきた。
それでも、彼女の口ぶりには一切の悲壮さはない。彼女は僕の理解の越えた明るさで、続けた。
「あたしはヤクバとかセイクがいたから良かったけどさ、でも、そうじゃない子どもたちっていっぱいいると思うんだー」
「……孤児院とか、そういうこと?」
「そこまで大袈裟なものかは決めてないなあ」彼女は、ふ、と頬を緩め、続ける。「けど、ヤクバとセイクがいなくてもやるつもり。あいつらは強いからまだまだ戦えるし」
「……でも、ずっとレクシナはヤクバたちは一緒にいそうな気がする」
「そうだったらいいね。あたしもあいつら好きだし。あいつらの子どもなら産んでも良いくらい」
それはかつてベルメイアへと言ったようなふざけ半分の言葉ではなかった。レクシナはきっと本気でそう思っているだろうし、実際にそうなったら大いに喜ぶだろう。
三人は家族であり、友人であり、恋人でもあるのかもしれない。奇妙な絆で結ばれた三人だ。僕はその断裂しがたい紐帯を心から羨ましく思った。
レクシナは「あ、でも、同時に妊娠できないから面倒だなあ」と照れ隠しのように言って、逃げるように詠唱を始めた。浮き上がった彼女は風を浴びるように両手を広げる。街を回る衛兵が怒鳴り声を上げたが、些細な問題だ。
下着を見せびらかす師匠に苦笑しながら、彼女の望みを叶えたいと強く願う。
〇
馬車の音が聞こえる。
規則正しい蹄が地面を打ち鳴らし、懸架式の座席が揺れて軋んでいる。その音は馬のかすかな嘶きとともにカンパルツォの屋敷の前で止まった。
唾を飲み込もうと顎を上げる。が、上手くいかない。口の中がからからに乾いていて、グラスに手を伸ばしたが中の水も既になくなっていた。
居間に置かれたソファには護衛団の全員が集まっている。レクシナは「今日は宴会だねえ」とはしゃぎ、ヤクバとセイクは早く酒を飲みたくて堪らない、というように身体を揺り動かしていた。本来であればヨムギも緊張すべき人間であるはずだったが、わざわざ隣に座ったベルメイアのせいで気持ちがそちらにいっている。マーロゥは昼の間マイラにこき使われたのが影響しているのか、大きな欠伸をしていた。
僕だけに押しつぶされそうなほど圧力がのし掛かってきている。
顔がよほど強張っていたのだろうか、左に座るアシュタヤは苦笑とともに僕の手を握ってきた。勇気づけられはしたけれど、リラックスはできない。戦いに赴いていたときの方がよほど気楽だった。
どう謝罪しよう、そう考えているうちに玄関からマイラの声が響いてきた。
「お帰りなさいませ、伯爵さま」
心臓が締めつけられる。
「アシュタヤさまがお帰りですよ」
「おお」最初は穏やかだったカンパルツォの口調が一変した。「そうか……!」
廊下を走る音が聞こえた。どん、どん、どん、という大きな足音はまったく僕の心音に似通っている。心臓が破裂しそうになり、僕はアシュタヤの手の感触に縋った。
もう少しゆっくり来てくれ、という願いも叶わず、扉が勢いよく開け放たれる。
約三年ぶりに出会ったレング・カンパルツォは熊のような風貌こそ変わらなかったが、明らかな老いが滲んでいた。
短い頭髪のほとんどが白髪になっていて、顔には深い皺が刻まれている。目の下にはたるんだ肉がぶら下がっていて、漲っていた覇気には陰りが見えた。
「ニール」と彼は呟く。もう一度、繰り返す。僕は立ち上がり、歩み出て深く礼をした。両肩を掴まれる。かつて味わった熱い感触が内側と外側から皮膚に伝播した。
顔を上げ、目を逸らさないよう、努める。
「……申し訳ありませんでした、カンパルツォさま」
「まったくだ、馬鹿者め……」
カンパルツォの抱擁は力強く、全身に痛みを感じるほどだった。逃げられもせず、逃げようとも思わず、僕はその痛みを受け入れる。耳元で洟を啜る音が聞こえた。
「レングさん、いい年なんですから」
カンパルツォの背後からウェンビアノの鋭い声が響いた。「ああ、そうだな」と目元を拭いながらカンパルツォが離れ、ウェンビアノの姿が目に入る。彼は以前とほとんど変わらない能面のような表情でじっと僕を見つめていた。
「ウェンビアノさん――」
「――ニール……私は怒っている。お前が任務に就いている間、何の連絡をしてこなかったことを、だ」
思考が止まる。言葉の意味を噛みきれず、僕は疑問を細切れにして吐き出した。
「任、務……?」
「おや、忘れたのか? 敵の規模や本拠地を探れ、と私が指示したはずだが」
どうやら彼は僕がいなくなった理由をそう処理していたらしい。
ありがたさと申し訳なさに顔を上げていられなくなる。
レクシナの気持ちを理解した。なんて素晴らしい気休めだろう。任務、その一語で僕の行動が正当化されている。
「さて、報告してもらわなければいけないことが多いが……その前に、もっとも憤慨していた男が来るぞ」
ウェンビアノがほくそ笑みながら脇にどけると小綺麗な格好をしたフェンが現れた。褐色の肌に赤黒い短髪、額から左のこめかみへと走っている傷がなんと正装と似合わないことか。彼が手に持っている麻袋は資料などが入っているのだろうか、大きく膨らんでいた。
フェンは神妙な目つきで、僕の顔を、そして、黒い長手袋をつけた右腕を注視する。
怒りの臭いは感じられなかった。彼の中にあるのは静けさだけだ。
一歩、彼が近づく。両の腰に刷いた曲刀が揺れる。
その瞬間、感情の形を否応なく実感させられた。
――感情とは一本の長い紐だ。胸の内側でその紐がぐちゃぐちゃに絡まり、ほどけかけた毛糸玉のようになっているのが分かる。息を吸うと紐は膨張し、揺れ動く。毛先が涙腺へと繋がる神経を刺激した。
……僕の世界の始まりはフェンだった。
ワームホールに飲み込まれ、アノゴヨの森に放り出された日のことが脳内を駆け巡る。感情の奔流は意識をその日へと送る。
一寸先も見えないような暗闇の草原、僕は遠くに小さく見えるバンザッタの街灯りを頼りに孤独に歩を進めていた。フェンと出会ったときのことが鮮明に思い出される。馬車に乗っていた彼は異質さの塊である僕へと軽々と声をかけた。
当時はまだ、言葉さえ通じなかったのに、だ。
それがどれだけ嬉しかったか。
蔑ろにされ続けてきた僕は見知らぬ他人が手を差し伸べてくれるなど考えたこともなかった。向こうの世界では僕がジオールのクローンであることは誰もが知っている。厳格な宗教観を持つ人々からすると僕の存在そのものが神への反逆、倫理観の否定でしかなかったのだ。
こちらから手を伸ばしても払われる。だが、フェンは、その手を掴んでくれた。
あの日から、フェンは僕にとっての英雄だったのだ。
その彼があのときと同じように、右手を差し出してきている。僕は震える両手で彼の大きな手を握る。身体に癒着した〈腕〉は肉体よりも深く、関係性を伝えてきた。
「フェン、ごめん、ごめんなさい……僕は」
足に力が入らない。手を握ったまま、床に蹲ると彼も片膝をついて目線を合わせてきた。なんとか顔を上げたものの、目に涙が溜まって彼の顔は滲んでいる。
「ニール」
厳かさすら感じる低い声に身体が震えた。彼は床に置いた麻袋から一着の服を取り出す。白地に紺、超能力養成課程の制服だった。
「ほつれていたところはアシュタヤさまが繕ってくださってな……前と同じように着られるだろう。俺の中のお前はこの服を着ているんだ」
泣きじゃくりながら受け取る。
ふと傭兵団の補佐役がヨムギへとかけた言葉を思い出した。
お前にぴったりの服を探してみないか――。
フェンにとってこの服は超能力養成課程の制服ではなく、異国の――異世界の正装として映っているのだろう。しかし、ああ、これが僕にぴったりの服だ。
今までずっと手放してしまっていた服。
「……ありがとう、フェン」
「ああ、小言は後で嫌になるほど聞かせてやろう」
彼なりの冗談にしゃくり上げながら笑う。
今日、僕はようやく恐れていたものをすべて取り戻した。いざ手に入れてみると、それらは一切僕を蝕むことはなかった。
そして、この夜、僕は全員に伝える。
ギルデンスの目的と、春に待ち受ける戦い。
皆が守ろうとしている国を、僕もまた、彼らの近くで守らなければならない。
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