102 待ち受ける彼女ら

 バンザッタからレカルタまでの道のりに地図は必要ない、と旅人は良く口にする。

 エニツィアの中央、南北を縦断する街道はほとんど分岐のない一本道だからだ。ちょうど国の中央付近、山呑みの魔獣との古戦場あたりで東から伸びてきている道と合流するが、大きな街道はそれくらいしかない。そこにも岩作りの塚が置かれていて、道を間違うのはそもそも目的地がないからだ、という小咄も存在するほどである。

 ただひたすらに北へと向かう道、滞在した宿屋の受付たちは別れ際、打ち合わせをしていたかのように、同じ言葉で僕たちを送り出した。


「地図以外の忘れ物はありませんか? 今一度、お荷物をご確認ください」


 アシュタヤは慣れた調子で礼を言い、出発の号令をかける。護衛の僕たちは二台の馬車に分乗し、北上を再開した。

 馬車の乗り心地は今まで乗ったものの中でいちばん上等だと言えた。カンパルツォとともに西の街道を進んだときは襲撃を警戒して荷馬車に偽装していたが、今回は違う。向かい合うように作られた座席は綿が詰まっていて柔らかく、刺繍が施された布が張られていた。側面にある大きな窓は開放感があり、そこからは爽やかな風が吹き込んできている。そして何より、馬車組合の御者が馬の手綱を握っているのがありがたかった。


 マーロゥは呑気に眠っているか、馬鹿な話に花を咲かせているかのどちらかだ。ヨムギは初めこそ豪華な馬車に舌を巻いて外を眺めていたが数日もすると飽きたらしく、魔法の練習に精を出していた。ヤクバたち三人は隣の馬車で酒盛りをしているらしい。護衛としての責務を果たしているかは甚だ疑問ではあったが、懸念していた襲撃は杞憂で終わり、僕が声を荒らげることもなかった。


 アシュタヤはずっとちくちくと針を布に通している。その姿には女性的な雰囲気が満ちていて、僕はそれを眺めたり、ごまかすように外へと目を向けたりしていた。

 馬車は馬を換えながら一日かけて進み、休息し、北上を繰り返した。国の中央部には「建国譚の舞台」と銘打たれた街がいくつもあり、僕たちはそこでちょっとした観光を楽しんだ。中には討伐隊が食事を摂った場所、という宣伝をしている街すらあって、なんでもありじゃないか、と肩を竦めずにはいられなかった。


「この辺りは」アシュタヤは地図を示しながら言う。「小規模の領が乱立してるから、どこの領主も必死なの」


 国に貢献した人間に与えられる褒美――貢献の最たるものは戦争の勝利であり、褒美の最たるものは土地だ。この世界でもそれは変わらない。

 この近辺の土地は発展が遅れていたらしく、領地として割譲されるようになったのは比較的最近であるという。国々が発展していくと戦争の規模は大きくなり、活躍する人間も増える。そのため、領地は密集していて地図は拡大しなければ文字が読めないほどだった。

 中にはギルデンスという名もあり、胃が収縮するような感覚を覚えた。



 そうして、レカルタへ到着したのは――バンザッタを発って八日後のことである。



 久しぶりに足を踏み入れた王都はやはり賑やかで、一度しか入ったことのない僕には尻込みするような喧噪が溢れていた。栄華を誇るエニツィア城を目指して、馬車は大通りを進んでいく。興奮と、後ろめたさが順繰りに襲ってきて、忙しなく身体が揺れた。

 カンパルツォが居を構えているのは城のすぐそばにある、俗に「貴族地区」と言われている区画であるそうだ。大きな塀に囲まれたその区画に入る前には物々しい警備を通過しなければならない。アシュタヤは一度馬車から降りて、番兵と脇に立てられた小屋の中へと入っていった。


 僕は馬車の窓から顔を出し、柵の向こうに並んでいる建物に目をやる。どれも大きく豪奢な屋敷の列は外から眺めても壮観で、ヨムギは間の抜けた歓声を上げた。

 アシュタヤは五分ほどで戻ってきて、「おまたせしました」と馬車に乗り込んだ。ほとんど同時に柵が横に寄せられ、馬車が動き始める。


「この時間だと」アシュタヤは空を見上げながら言う。「カンパルツォ伯爵たちは城にいらっしゃるでしょうね。もしかしたらベルは戻っているかもだけど」

「ベルメイアさま、か」

 僕の声色にアシュタヤは目を細めた。「ニールがいちばん恐れるべき人かも」

「ありがたいはありがたいんだろうけど」


 窓枠の中の収穫祭に泣きわめいていたベルメイアの姿が脳裏に去来する。

 ともに旅をしていた仲間たちの間で、僕が姿をくらましたことに怒りをもっとも表出させていたのは彼女である。らしい。アシュタヤではなく、マーロゥからの伝聞だ。

 ベルメイアにとってアシュタヤはかけがえのない姉である。

 家族が悲しみに塞ぎ込んでいる、それはきっと憂慮すべき問題なのだろう。実感は掴めないけれど、僕とベルメイアの立ち位置を交換すればその心痛は身を削るほどに理解できた。


「そのベルメイアってのはどういうやつなんだ?」


 ヨムギは柄にもなく緊張しているのか、そわそわと膝と膝を擦り合わせている。


「僕はもう三年近く会ってないからなあ……十二歳と十五歳ってかなり違うし」

「そうですね、これからお世話になるカンパルツォ伯爵の娘さんなんですけど……少しヨムギに似てるかもしれません」

「おれに?」

「一生懸命魔法を覚えようとしていたところとか……ちょっと強気なところとか」

「ちょっと?」あれでちょっとだとしたら、僕は弱気を通り越してどうしようもない臆病者になる。「僕はヨムギとベルメイアさまがぶつからないか、心配だよ」

「それは大丈夫。あの子も大人になったし、ヨムギもお姉さんだから、ね?」

「まあな」


 お姉さんと呼ばれたことでヨムギは愉快そうに胸を張った。二年以上一緒にいた僕よりも一ヶ月しか過ごしていないアシュタヤの方がよほどヨムギの操縦方法を習得している。よく考えれば癇癪玉のような幼いベルメイアを手玉に取っていたのだ、その方法を応用すればそれほど煩悶すべき難題ではないのかもしれない。

 相手を立てて自制を促すやり方は僕には思いつかなかった方法で、平伏し、後で使ってみようと胸中に書き留めておいた。


 やがて馬車はある屋敷の前で停車した。マーロゥが降り、アシュタヤとヨムギがそれに続いた。僕は中に落とし物がないか確認してから後を追う。もう一つの馬車から、ふらふらと這いずるようにヤクバたち三人が出てきていた。

 目の前にある屋敷はカンパルツォらしい、装飾がない建物だった。三階建ての洋風建築で、ちょっとした前庭がある。その隅には煉瓦で囲われた花壇が置かれていて、赤と白の可憐が風に揺れていた。茶色の武骨な壁面とその花の鮮やかさはどうにも不調和が漂っていて、落ち着かない。とってつけたような色彩はカンパルツォの趣味ではないことだけ、確信を抱けた。


 僕は辺りに視線を彷徨わせる。

 屋敷には予想していた厳重な警備はない。見回りと思しき兵士が道を歩いていたが、その対象となっているのは全体のようで個別の邸宅へ対する警戒は見受けられなかった。どうやら貴族地区をぐるりと囲んだ壁とその入り口に立つ番兵だけで十分な効果があるらしい。ちょうど通りかかった兵士もアシュタヤに一瞥をくれただけでその場を去って行った。

 門から玄関への距離はさほどない。敷地内に入り、屋敷へと一歩踏み出す。

 そのとき、正面にある扉が開けられた。

 迎えるように内側から開いた扉から中年の女性が現れる。痩せぎすで、顔に薄い皺がある女だ。一つにまとめられた髪にはあまり艶がなく、白髪が交じっている。

 見覚えのある女性だった。


「アシュタヤさま、お帰りなさい。……皆さんも」

「ただいま戻りました、マイラさん」


 彼女は僕を目にし、表情に驚きを浮かべた。「ニールくん」その柔らかい発音が記憶を呼び起こす。

 バンザッタにいた頃、怪我をしていた僕を介抱してくれた女性だ。どうしてここに、と疑問が湧く前に、彼女がウェンビアノの妻であることを思い出す。僕たちには随伴していなかったが、遅れてこちらへ来ていたようだ。

 マイラは音を立てないような静かな足取りで僕へと歩み寄ってきた。「お久しぶりです」と頭を下げようとして、抱擁されていることに気がつく。

 香るはずもない薬の匂いがした。


「久しぶりね……怪我はないですか?」

「……ええ」

「なら良かった」


 彼女は微笑み、次にヨムギに目を向けた。見知らぬ人間に怯むヨムギではなかったが、それでも貴族の関係者というバイアスがあったのか、背筋を正している。


「あなたは……はじめまして、ね。マイラです。夫が伯爵さまの秘書をやっているの」

「おれはヨムギ、アシュタヤの護衛になった」

「あら、勇ましい」


 くすくすと笑ったマイラは僕たちを屋敷の中へと招き入れる。出発前にアシュタヤが手紙を送っていたため、迎え入れる準備はできているそうだ。

 嬉しくもあったが、不安にもなる。事前に僕が来ると知っているということはベルメイアに言葉を練らせる時間が与えられていたということだ。僕は戦々恐々としながら屋敷の中に入り、最初に案内された居間で待ち受けていた彼女を目にし、唾を飲み込んだ。


     〇


 おおよそ三年という期間は子どもが成長するには十分な時間である。特に十二歳の女の子が大人の道を歩み始めるには、だ。

 端から端まで、僕の〈腕〉が届かないほどの広々とした空間。壁には様々なオーナメントや本棚、火のついていない暖炉があり、中央には、低いが広い、正方形のローテーブルと、その三辺を囲む大きなソファが置かれていた。一辺に四、五人も座れそうなほどのものだ。

 居間への入り口に近い一辺に椅子が配置されていないのは入室者に背を向けないための配慮だろうか。今の僕にとってはその配慮が疎ましい。


 貴族らしいドレスを着たベルメイアは正面のソファに端座していた。膝を閉じ、背筋を伸ばしたその姿は貴族の気品と大人の雰囲気を纏い始めている。彼女の視線は一切遮られることなく、僕に向かってきていた。

 ああ、僕は呑気に溜息を漏らしそうになる。

 ――大人になった。

 栗毛の髪は短く切られているが、柔らかく動いている。化粧をしているのか、顔立ちも随分大人びていた。唇には薄い朱が塗られ、大きなグリーンの瞳は長い睫毛で覆われている。身長もかなり伸びたようだ。かつてあった幼さは残っていなかった。

 ベルメイアは静かに腰を上げ、近づいてきた。表情に怒りはなく、僕の鼻にもその匂いは感じられない。


 彼女は手を伸ばせば触れられるほどの距離まで来て、立ち止まった。

 誰も声を上げる者はいない。

 なんだかせっつかれているような気分になり、僕は慌てて頭を下げた。


「お久しぶりです、ベルメイアさま」


 返答はない。予期していた罵詈雑言はいつまで経っても僕の身に降りかかって来なかった。沈黙の中、頭を下げ続けている訳にもいかず、顔を上げる。

 目の前にはベルメイアの微笑みがあった。

 それと、振り上げられた右腕。

 あ、と思うより先に歯を食いしばる。頬に間延びした衝撃と痛みが走った。視界が明滅すると同時に、周囲から動揺の混じった声が上がる。


「ベル」とアシュタヤが批難するように歩み寄ったが、ベルメイアは平然とした表情のまま、僕へと言い放った。

「言葉が思いつかなかったわ!」


 後ろから失笑が漏れる。笑っているのはヤクバたち三人とマイラだった。マーロゥとヨムギが呆然としたまま口をあんぐりと開けている。


「どう罵倒してやろうか、一年分の夕飯の献立以上に考えたけど、面倒になったから引っぱたくことにしたのよ」

「……お元気そうでなによりです」

「言っておくけど、フェンはたぶんこんなものじゃすまないからね、覚悟しなさいよ」


 こんなものじゃすまないか。僕は左頬を擦りながら苦笑を浮かべる。そこでようやくベルメイアも頬を緩めた。


「……おかえり、ニール」

「ご迷惑をおかけしました」

「本当よ、あんたがいない間、こっちがどんな思いをしたか」

「それでも、ベル」アシュタヤはベルメイアに詰め寄る。「いきなり頬を叩くなんて」

「いいのよ、エイシャ。悪いことをしたら罰が必要なの。それを教えたのは、ニール、あんたよね?」


 懐かしさが胸に充満する。

 僕とアシュタヤがギルデンスによって浚われたとき、いちばん責任を感じていたのはベルメイアだった。彼女は自身の我が儘が原因で僕たちが窮地に立たされたと考え、罰を欲し、僕はそれを与えた。

 アシュタヤには詳しく話したことはない。なんだか恥の上塗りをするようで気が進まなかったのもあるし、ベルメイアを小間使いにしたのを知られると怒られそうだったからだ。

 ベルメイアが笑い出し、僕もそれにつられる。アシュタヤとマーロゥ、ヨムギは何が何だか分かっていないようで、ただただ目を丸くしていた。


「ベルメイアさま……釣り合いは取れていますか?」

 僕の質問に彼女は意地の悪い笑みを浮かべた。「まだまだね。これからもっと虐めちゃうから」

「罰じゃなくて虐めって言っちゃまずいですよ」

「態度次第ではほどほどにしてあげる……早く荷物置いてきなさいよ。話したいことが多すぎてどこから話せばいいのか分からないくらいなの」


 僕たちはベルメイアに従い、マイラに案内されて上階にある護衛たちの一室へと向かった。その途中、マーロゥが脇腹を肘で突いてくる。


「罰ってお前、ベルメイアさまに何したんだよ」

「マーロゥはどうしてアシュタヤにはさん付けでベルメイアさまには『さま』をつけるの?」

「そんなこと、どうでもいいし、お前だって似たようなもんだろが」


 質問に応えろ、と彼は低い声で追及を続ける。拒否すると後々うるさそうで、正直に打ち明けることにした。とはいえ、他のメンバーに聞かれるのも好ましくなく、僕は声を潜めた。


「収穫祭で使いっ走りにしたんだよ。僕は怪我してたから、色々買ってこいって」

「……貴族の娘だぞ」

「貴族とか、どうでもいいじゃないか」


 半ば本心、半ば冗談の言葉に、マーロゥは顔を引き攣らせた。恐れ多いと感じているのかもしれない。

 貴族と平民の壁をなくす――いくらカンパルツォの宣言に賛成していても、この世界で生まれ育ってきた彼にはまだ実践するだけの勇気はないようだ。彼にとって、未だ、貴族制度はあって当然の前提なのだろう、興味深そうに僕を見つめて唸っていた。

 そういったしがらみに囚われない可能性があるとしたら――僕は後ろをついてくるヨムギに目を向ける。

 彼女は不可解そうにぶつぶつと呟いていた。


「久しぶりに会った奴に暴力を振るう野蛮な女とおれの、どこが似ているんだ?」


     〇


 ヨムギとベルメイアの間に潜伏していたちょっとした確執が露わになったのは僕の些細な一言がきっかけだった。

 ベルメイアは会話と表するよりも演説と表現した方がしっくりとくる口調で僕のいなかった年月の出来事を語っていった。レカルタにある貴族学校に入学したこと、そこで田舎貴族の娘と愚弄されたこと、それを自身の才覚によりはね飛ばしたこと、今では学校の有名人でどこへ行っても声をかけられること、彼女は「本当に困るわよね」と余裕綽々の笑みで当時を反芻するように何度も顎を引いていたが、苦労したに違いない。アシュタヤの微笑ましそうな表情がそれを物語っていた。


 ベルメイアの話に耳を傾けながら、しかし、とも思う。

 彼女を虐めようだなんてあまりにも恐れ多い。それはベルメイアの性格に鑑みた感想ではなく、カンパルツォの存在から抱いたものである。

 おそらくはベルメイアの級友たちは親から「田舎貴族」という陰口しか聞いていなかったのだろう。カンパルツォが国王から預かっていたのはエニツィアの南部、バンザッタ以南は小さな村すらも存在しない領土だ。陰口と地図だけを頼りに「確かに田舎だ」と早合点してしまったに違いない。


 だが、その実、カンパルツォが任せられていたのはペルドールが控える国境線である。国防という観点では重大な役目で、「田舎貴族」と謗りを受ける理由は何一つない。

 それだけに僕はベルメイアに強く感心した。

 きっと彼女のことだ、親の威光を笠に着て級友たちを退ける選択肢はとらなかっただろう。本当に己の才覚と、あとはカンパルツォとはあまり似ていないその顔立ちで貴族学校の人間を飲み込んだのだ。


「聞いてるの、ニール?」

「聞いてますよ」僕は慌ててとびきり真面目な顔を作る。「でも、才覚って言ってもよくわからないです。えっと、ベルメイアさまのことだから魔法で黙らせたんですか?」

「魔法?」不本意だ、とベルメイアは言いたげに首を振った。「魔法なんてもう趣味よ」

「え」

「周りは褒めてたけど限界が見えてたし、それに魔法じゃできないこと、たくさんあるもの」


 その言葉を聞いた瞬間、ヨムギは勢いよく立ち上がった。

 ヨムギにとって、ベルメイアは見知らぬ他人だ――まだ。僕たちにとっては微笑ましいベルメイアの話も、ヨムギにしてみればうんざりする自慢話の披露でしかなかったのかもしれない。顔には怒りにも似た不満がこびりついていた。


「……聞き捨てならん」

「おい、ヨムギ」とマーロゥが諫める。だが、彼女は止まらない。

「黙って聞くだけの大人らしい分別はあったが、もう我慢できない。自分の才能のなさを棚に上げて魔法を馬鹿にするな!」


 僕はその時点で噴き出しそうになった。

 かつて誰よりも魔法を貶していたヨムギの言葉とは思えない。随分都合がいいじゃないか、と揶揄したくてたまらなかった。アシュタヤは僕の様子に気付いたのか、顔を顰め、袖を小さく引っ張ってくる。

 言ったとおりだろ、アシュタヤ?

 二人は確かに似ているかもしれない。けど、ぶつかることなんて明白だったじゃないか。


「えっと、ヨムギさんでしたっけ」学校でこういう輩をあしらった経験があるのか、ベルメイアは挑戦的な表情で慇懃に訊ねた。「何か気に障りまして?」

「当たり前だ! 魔法のことを大して知らないくせに、よく言えたものだな」


 その瞬間、ヤクバとセイク、レクシナが同時に俯いた。肩が震えている。

 僕が言えたことじゃないけれど、悪い大人だ。ベルメイアの努力は彼らもよく知っている。少なくとも僕が一緒にいる間、魔法を教えていたのはこの三人だ。彼らにとっては兄弟子に突っかかる弟弟子という構図でしかない。滑稽に思えたとしてもおかしくはなかった。


「あら」とベルメイアは膝を組み、余裕を見せつける。「あなた、護衛とおっしゃっていましたが魔法をお使いになるんですのね」

「……なんだ、その態度は」


 そこでマーロゥが陥落した。これまで非難がましい目を僕に向けていた彼も、ヨムギが態度の悪さを指摘するとは考えていなかったはずだ。

 五人が笑いを堪えている。向かい合い、牙を見せつけ合う二人以外ではアシュタヤだけがはらはらとした顔をしていた。それを目にしているだろうに、ベルメイアは構わず言い放つ。


「私は魔法にもできることとできないことがある、と申しただけですよ?」

「だから、それはお前の才能のなさが理由だろうが!」

「うーん……それでもあなたよりは魔法を使えるように思いますけれど?」


 ヨムギの顔が一気に紅潮する。

 覚悟しろ、と叫ぶような表情で彼女は詠唱を開始した。初めて魔法を使えるようになった日以来、ヨムギの実力は着実に伸びている。テーブルの上に生まれた拳大の水は急速に体積を増していった。

 詠唱が終了すると同時にその水球はベルメイアへと向かって放たれる。

 人に会うときに濡れていてはいけない、という改めて口にするまでもない常識を彼女に教えたのは僕だ。濡れ鼠にして恥をかかせてやろう、という算段だったのかもしれない。


 しかし、その目論見が叶うことはなかった。

 ベルメイアの頭に水が降りかかりそうになった瞬間、水はぴたりと動きを止めた。ヨムギの目が驚嘆で見開かれる。

 レクシナ仕込みの高速詠唱により生まれた風が、水をヨムギの方へと押し返していた。徐々に後退を始めた水球はあっという間に速度を増す。

 ばしゃり、と間の抜けた音が響いた。

 ヨムギには抵抗する術などない。彼女は呆気なく、自分が放った水を頭から被せられてしまっていた。目をぱちくりとさせる彼女の赤毛からぽたぽたと水滴が落ちる。

 呆然としているヨムギへと向けて、ベルメイアは居丈高に言い放った。


「私の魔法なんてこの程度です」


 自虐により相手を貶めるその手法は、冷やされたヨムギの頭を再加熱するには十分すぎた。彼女は窓を指さし、「表へ出ろ!」と怒声をあげる。からかい甲斐があると踏んだのか、「良い度胸ね」とベルメイアもそれに乗った。


「二人とも落ち着いて」とアシュタヤは狼狽しながら、後を追う。

「レクシナ、見といてやれ」

「はいはーい」


 ヤクバの指示に、レクシナが楽しそうに部屋を出て行った。彼らの表情には予定通りと言わんばかりの満足があり、言葉が見つからない。

 嵐が過ぎ去った部屋の中でヤクバもセイクも、マーロゥですらも腹を抱えて笑っていた。僕が呆れとともに「計算してたでしょ」と指摘するとヤクバとセイクは同時にそれを認めた。


「まあ、身近な目標があったほうがいいかと思ってな」

「ヤクバたちは目標にゃ遠すぎる」

「それにしたって拗れる可能性とか考えなかったの?」

「心配ねえだろ」そう答えたのはマーロゥだ。「ヨムギもベルメイアさまも内側に溜めずに素直に口に出す性格だ。ぶつかっても大したことにはならねえよ」

「さすが世話係」ヤクバが囃す。

「それ、ベルメイアさまの前で言わないでくださいよ……それに」

「それに?」

「ヨムギはたぶん、強い奴は認めるだろ」


 否定はしない。

 以前、ヨムギに川へと連れ出されたときもそうだった。二年近く、僕と彼女は友情と言うべきものを有さずに暮らしていたが、あの手合わせが関係性を変えるきっかけとなった。

 ヨムギは強い人間を強いと認める。歯を食いしばって教えを乞うだけの目的と素直さもある。僕もそれを知っていたからこそ、二人の口論を止めなかったのだ。


「しかし、晴れててちょうど良かったな」セイクは窓の外で返り討ちにされているヨムギを眺めながらしみじみと言った。「雨が降ってたら決闘も台無しだ」

「そうだな。……まあ、俺としちゃ、あいつには水の魔法はあまり合ってなさそうだから悩みどころだが。温泉好きって聞いてたから、行けると思ったんだがなあ」

「ああ、温泉、いいですねえ」


 そう笑顔で頷いたのは傍らで聞いていたマイラだった。その時点で僕は怒りの匂いを感じ、外へと避難することにした。閉じた扉の向こうから彼女の怒声が響き渡る。


「家の中で魔法を使うな、と教えなかったんですか! おかげで部屋中がびしょびしょ!」


 外には日差しが燦々と降り注いでいる。

 まったく、晴れていてちょうど良い。

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