73「『化け物』には見えねえな」

 喉の内側が貼りつくような感触が不快で目を覚ました。乾きを感じる。水はないか、と辺りに視線を巡らせるとベッドとその上に寝そべっている兵士たちの姿が目に入った。遅れて、僕もその一人なのだと気がつく。

 僕が寝ているのは医務室と思しき部屋だった。

 花瓶などないのに室内には薄く花の香りが漂っており、窓から差し込んでくる光も相まってどこか明るい。狭い部屋の中、四列ずつ計八個並んだベッドの間にはほとんど隙間がなく、身体中に包帯を巻いた体格のよい男たちが寝かされていたけれど、陰鬱とした雰囲気はなかった。


 僕のベッドは窓からいちばん遠く、出入り口の近くに置かれている。ベッドの脇は人が一人ようやく立てるかというほどでキャビネットもなく、水差しは見当たらなかった。僕は身体を起こし、声を出そうとする。が、舌が下顎に貼りついていて上手く口が動かない。

 身体の内側に熱を感じた。額の上に載せられていた濡れタオルが滑り落ちる。苦しくてたまらなかった。


「お、目ぇ覚めたか」


 右に寝ていた男が、鷹揚な声色で話しかけてくる。まるで知り合いのような気軽さだったが、見覚えはなかった。とはいえ、それを気にしていられる余裕もなく、僕はグラスを口に運ぶジェスチャーをした。男は一瞬ぽかんとしたが、すぐに合点がいったようだ、扉の向こうへと声をかけた。


「おーい、誰か水を持ってきてくれ」

「はーい」と女性の返事がする。若く、高い声だった。看護士か世話人だろうか、彼女はそれほど間を置かず、木製のジョッキを持って現れた。

「あら、目を覚ましたんですね」


 顔を綻ばせた女性から受け取るなり、僕はジョッキを一気に傾ける。口の端から溢れた水が顎を伝ってシーツに染みを作った。電解質の知識などあるわけがなく、中に入っていたのは真水だったけれど、今の僕にはそれでもありがたく一息にすべてを飲み干した。

 咥内から不快感が消え、僕は息をつく。それから、看護士に「すみません」と眉を上げた。「あの、もう一杯、もらえませんか?」


「ええ」彼女はいくばくかの面倒さも感じさせない快諾をする。「ちょっと待っていてくださいね」

「あ、できれば塩と砂糖もひとつまみ、欲しいです」


 そこで看護士は怪訝そうに、眉間に皺を寄せる。


「塩と砂糖、ですか?」

「はい、砂糖がなければ、何か果物でもいいです。特殊勲章を持っているので、そこから寄付します……お願いできませんか?」

「それなら、まあ……」


 一応の了承をして出て行った看護士に頭を下げ、隣の男にも礼を言う。彼は「気にするな」と手を振った後で「なあ、お前、レプリカ、だろ」と意味ありげな視線を向けてきた。


「……そうですが、あなたは?」

「俺もあの戦いに出てたんだよ」

「はあ……、それがどうかしましたか?」

「ありがとう」

「え」


 装飾や迂遠な言い回しなどない率直な感謝の言葉に咄嗟に反応することができなかった。

 軍人は「助かった」とは言っても「ありがとう」と言うことは滅多にない。ましてや傭兵に対しては「よくやった」と上からの物言いをする方が当然だ。

 それだけに面をくらい、僕は訝る。


「何が、ですか? お礼を言われるようなことをした覚えはありませんが」

「何が、か」と彼は唸った後で苦笑した。「何から礼を言えばいいのか、分からねえな」

「分からないって」

「あいつ――」


 軍人は聞き覚えのある名前を口にした。居住地区を抜けた地点に拘束されていた男の名だった。しかし、彼に関して感謝されるべき事柄は何もない。僕はいよいよ隣の軍人が何を言っているのか分からなくなる。


「僕は……あの人には何もしていないです」

「そうか? 少なくともお前は『死んでるから放っておけ』とは言わなかったんだろ?」

「それは、そうですけど……それだけで」

「それだけで」と軍人は語気を強めた。「俺たちは友人を失わずに済んだ。まだ目を覚ましていないけどよ、危険な状態だったみたいなんだ。もしお前が『死んでいる』と言っていたら助けられなかったかもしれない。……まあ、先走った奴らのせいでもっと危ない状況になったけどな」


 批判をする気は起きなかった。目の前で傷ついた友人を無視して先を進むのは難しいことだろう。それに、もしもっと砦に近づいたときにあの男を動かされていたら――いや、そもそも動かされずエニツィアの軍勢が無防備に進軍していたらより危うい事態に陥っていた可能性もある。

 そう考えれば不幸中の幸いとも言えた。そのせいで僕が倒れたのも事実ではあるけれど、生きているから口汚く罵る必要もない。


「……あの『太陽』を逸らしたのもお前なんだろ。騎兵の連中から聞いた」


 肯定するのも問題がある気がして、僕は曖昧に濁した。バンザッタの「拒否の堀」を越えただけでもかなりの騒ぎになったのだ。たった一人の傭兵が「太陽」を逸らしたとなると国防の面で大きな議論が持ち上がるだろう。

 それを隣の軍人も承知していたのか、無理に問い詰めては来なかった。


 しかし、あの「太陽」はなぜ発動したのだろうか。

 その一点が僕の心に黒い染みを落とした。内通者、というより、もっと積極的な裏切り者がいたのだろうか。敵はボーカンチ解放軍と名乗っていたとはいえ、おそらくはボーカンチに住んでいるものだけで構成されているわけではない。第一次ラ・ウォルホル戦役のことに鑑みてもエニツィアの内部に入り込んでいる可能性もある。


「――大体」軍人の呆れたような声で、我に返った。「攻城戦で単騎突撃なんて聞いたことないしな。お前が投石機とか、迎撃部隊を倒してなかったらもっとこの戦争も長引いてただろうよ」

「まあ、無茶な作戦ではありましたけど」

「だよなあ。いくらこっちも援軍が来ないからって」

「え」


 事も無げに放たれた言葉に頭が混乱した。

 援軍が、来ない?


「……どういうことですか? あの雨の日、『五日後に援軍が来る』って聞いてたんですけど」

「雨の日?」

「相手をラ・ウォルホルまで退けた日ですよ」

「ああ、傭兵には伝えられてないのか……。まあ、この戦いも終わったし、言っても大丈夫だろうから教えておくか」


 軍人は周囲を窺った後、僕の方へと顔を寄せた。彼は小声で事実を明かしてくる。


「あの無能な方面総監が『必要ない』って言ったんだよ」

「必要ないって」顔が引き攣る。「どういうことですか」

「何でもよ、南のペルドールが攻め込んでくるんじゃないか、って噂があってな。援軍の必要がなければ――」

「――どこに、ですか」


 声が上擦っていた。舌の乾きを感じる。その乾きは次第に身体全体へと広がっていく。礼を言われたことで満たされていた心が急速に乾燥していった。

 僕はもう一度問いただす。


「どこに攻めてくるんですか」


 聞かずとも察しはついていた。南の国、ペルドールが攻めてくる経路など限られている。アノゴヨからバンザッタの南まで山脈が続いていて、その麓には鬱蒼と茂った大森林が広がっているのだ。山脈を越え、獣の巣くう森を抜けてくることは考えられない。

 ならば、当然、ペルドールは平地から進軍してくるだろう。そこにあるのは南部要塞都市――


「どこって、そりゃ、バンザッタだろ。そのために造られた街なんだから」


 聞きたくなかった言葉だった。

 狼狽を表情から隠す暇もない。軍人も異変に気付いたようで、「お前、バンザッタの生まれなのか」と訊ねてきた。

 僕はその問いには答えなかった。


「……行かなきゃ」

「行かなきゃ、ってお前」


 軍人の制止を無視し、僕はベッドから降りる。

 だが、その瞬間、身体が崩れた。関節が熱で溶かされてしまったかのように力が入らない。もどかしさに歯噛みしながら膝を突き、ベッドに寄りかかって立ち上がろうとする。その姿を見て、軍人は身を乗り出してきた。


「おい、落ち着けよ、レプリカ」

「ここでのんびり寝てられないですよ!」

「落ち着けって! まだ噂だ!」


 僕と軍人のやりとりに他の怪我人たちが目を覚まし始める。誰かが「うるせえよ、静かにしろよ」と吐き捨てるように言った。

 いくらか心が穏やかになり、僕は深く息を吐き出す。


「……噂だとしても、ラ・ウォルホルに援軍を送れないほど、逼迫した状況なんですよね」

「ああ、いや、そういうわけじゃねえんだ」声色から僕が落ち着きを取り戻したと判断したのか、軍人は安堵の表情を見せる。「そもそもラ・ウォルホルを落とされただろ? それであの方面総監が汚名返上しようと焦ってたんだよ。援軍の必要がなければ、っていう条件付きだったんだ。だからそこに繋がりはない、安心しろ」

「……本当ですか」

「嘘は言わねえよ。真偽判別にかけてもいい。それに、腕利きの傭兵を連れて行くために転移術士もこっち来てるらしいからな……そんなに心配なら志願すれば連れて行ってくれるだろうさ」

「そう、ですか」


 そこで僕はゆっくりと溜息を吐いた。

 すぐにでも開戦しないのであれば、殊更に焦る必要はない。転移術士がいるのならなおさらだった。集団の長距離移動は限界があるため一度どこかを経由することにはなるだろうが、馬車よりもずっと早くバンザッタには到着が可能であるはずだ。

 それに身体もまだ本調子ではなかった。回復するまでどうしようもないのは事実でもあり、僕は這いずるようにベッドによじ登り、腰を下ろした。


 ちょうどそのとき、看護士が再び姿を現した。盆の上には木製のジョッキと塩が盛られた皿、そして一房の葡萄が載せられていた。女性は未だ怪訝な顔をしている。この部屋を出て行ってからずっとその表情だったのかと思うと少しおかしくなった。

 太腿の上に盆を載せるように頼む。彼女は僕に片腕がないことを知っていたのか、頷き、そっと盆を下ろした。何をするのか看護士も軍人も気になっていたようだ。四つの瞳が僕の一挙手一投足を見守っている。

 大したことはしないんだけどな、と思いつつ、僕はジョッキの中にひとつまみの塩を入れる。「え」と同時に声が上がった。


「おい、レプリカ、お前、塩水を飲むつもりか?」

「塩水じゃないですよ」


 答えつつ、僕は左手で葡萄の房を握る。片手ではうまく搾れる気がせず、〈腕〉を展開した。同時に別のベクトルを操作することはできないが、面でならある程度は制御することは可能だ。筒状にした〈腕〉を左手と葡萄の隙間に滑り込ませて一気に圧搾した。

 その瞬間、再び軍人が素っ頓狂な声を上げた。看護士に至っては声が出ないようだ。目を見開き、両手で口を押さえて「信じられない」と言いたげに顔を震わせている。


「何してんだ、お前」

「覚えておいた方がいいですよ」


 僕はできあがった薄い葡萄ジュースを一口だけ口に含んでから、熱中症とその予防策の簡単なレクチャーを始めた。もちろん専門用語を使ったところで通じないから噛み砕いたものだ。

 軍隊などでは暑い時期でも規律で縛って統制を取ろうとする。そのせいで熱中症患者は後を絶えない。初めは狂人を見るかのような目つきをしていた看護婦も説明の合理性に目を輝かせていき、最後にはいくつかの質問をしてくるほどだった。

 医療の発展に寄与するつもりもそんな知識もなかったが、嬉しくなって僕は笑みを抑えきれなかった。


 戦いに関すること以外で人の役に立つのは久しぶりだった。

 いつか、こんなふうに戦わずに誰かのためになれるのだろうか。僕はメイトリンで行った語学の勉強を思い出す。カンパルツォやウェンビアノは戦い以外の道を示してくれていた。フェンもきっとその思いはあったのだろう、彼はメイトリンまでの道中で「王都に到着したら今後どうするか」と訊ねてきていた。

 なんとなく幸福になった後で、「そういえば」と心の中で呟く。

 そういえば、あの傭兵団の面々に料理を振る舞ったことがあった。あれも大別すれば「役に立つこと」なのだろうか。

 ただ煮込んだだけの料理なんだけどな、とくすぐったくなり、だが忘れていたことへ申し訳なさを覚え、苦笑がせり上がった。頭領やヨムギたちはどうしているだろう。またヨムギに小うるさく言われるかもしれないと思ったが、気は滅入らなかった。


 もう、敗北を認めてしまおう。

 僕は確かに彼らを憎からず思っている。身体が回復したらバンザッタへと向かうのは自分の中で決定していたが、彼らはどうするだろう。僕の忠告通り、彼らはバンザッタでまともな暮らしを始めるだろうか。

 そこまで考えたところで、腹が鳴る音がした。

 音を聞いて初めて空腹感があることを自覚する。

 軍人が鼻で笑い、看護士の女性はくすりと微笑んだ。僕は照れくさくなり、頭を掻く。

 遠くのベッドで「『化け物』には見えねえな」と最上級の賛辞が呟かれた。

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