54 後戻りはできない
隣の馬車からフェンが飛び出した。両手には曲刀が握られていて、その右の方を迫ってくる馬へ向かって突き出している。
「止まれ!」
言葉と同時に、彼の腕に薄ぼんやりとした光が浮かんだ。突っ込んできたらすぐさま地面に穴でも開ける気なのだろう。
しかし、警戒とは裏腹に馬の騎手は速度を緩め、フェンの手前十メートルほどの位置で止まった。見覚えのある顔ではなかったが、敵意は感じられない。ベージュのコートと黒いファーの着いた帽子を被っている男は馬から下り、フェンに頭を下げた。
「カンパルツォ伯爵の護衛の方でよろしいですか?」
穏やかな物腰に、フェンも曲刀を鞘に収める。「……ええ、それがなにか」
「文を預かって参りました。……いやあ、馬車に手紙を届けるなんて初めてですよ。それに、こんなときですし」
「こんなとき?」
「あれ、知らないんですか? 今朝、急に警戒令が発せられて街が封鎖されたんですよ。それで街もてんやわんやで」
「街が封鎖?」
僕はアシュタヤとセイクの顔を順番に見る。彼女たちはいちように首を横に振った。
罠、という単語が全身の神経に纏わり付いた。
僕たちの出発後、一時間ほどしてから馬車が一台、後を追ってくる手筈となっている。移動手段である馬を殺すのは基本的な定跡だ。敵との戦闘を終えた僕たちが帰るために無傷の馬車が少なくとももう一台、必要だった。
だが、街が封鎖されているならどうなる?
僕の疑問に答えるように文を運んできた騎手は説明を続ける。
「鼠一匹通すな、ってなもんでして、あっしもこの後どうしたもんかと」
「街道は進まない方がいい」
「へ?」
「俺たちは盗賊を掃討しに派遣された。森の中は危険だ、街の前まで戻って警戒令が解かれるまで時間を潰しているのがいいだろう」
「ああ、まあ、そういうことならそうしますが……じゃあ、ご武運を祈ります」
そう言って騎手はもう一度頭を下げると、馬に乗り、道を引き返していった。
フェンは手紙の封をとき、目を通すと、小さく舌打ちをした。そして、詠唱を始める。歌のような信号は炎を呼び寄せ、手紙をじりじりと燃やし、灰にした。
「フェン、一体何が」
馬車から降り、僕はフェンの元に駆け寄る。彼は灰になって落ちた手紙を足で擦る。ばらばらになった燃え滓は風に吹かれ、草むらの中へと消えていった。
「後戻りができなくなった。まあ、大して問題ではないが」
心臓が跳ねる。僕の頭の中にあったのはもちろんアシュタヤとセイクのことだった。今の状況に彼女たちのことが加われば、フェンは「大したこと」として扱ってしまうだろう。
その心配が表情に出ていたのか、フェンはすぐさま「どうかしたのか?」と声を低くした。僕は一度馬車の方をちらりと覗く。レクシナが目で「早く言え」と合図を送ってきていた。
「問題、というか、お願い、というか」
「なんだ、煮え切らないな、はっきり言え」
「……アシュタヤとセイクのことなんだけど」
フェンの目つきがあからさまに変わった。彼はそれ以上僕の言葉を聞かず、馬車へと向かっていく。レクシナが顔だけ出している幌を掴み、開けて、中にいたセイクかアシュタヤと目が合ったのだろう、彼は頭を抱えた。
後を追って、僕は声をかける。
「フェン、これは」
「――もういい、ニール。来てしまったものはどうにもならない」
フェンは呆れの混じった物言いでそう言った後、ヤクバとパルタを呼んだ。馬車の中にいたアシュタヤたちにも降りるように伝える。アシュタヤとセイクを目にしたパルタは驚きのあまり口を開いたまま固まり、ヤクバは騒ぎの真相がこれだったのか、と言いたげに肩を竦めた。
僕たちは諸々の事情について説明を受けたあと、再び二台の馬車に別れて乗り込み、先を進む。
公認盗賊の森に到着したのは昼近くになったときのことだった。
〇
鬱蒼とした森が目の前に広がっている。その陰鬱さは腹を空かせた化け物を彷彿とさせ、開いた口はまさに胃の中へと繋がっているように見えた。狭くなった街道が森の中へと続き、大樹の目の前で右に折れていて、先が見えない。地図上では次の街までの最短距離を走っているはずであったが、道の蛇行を考えると予想よりも長い道が続いているかもしれない。
僕たちは森に入る前に馬車を降りた。これ以上、幌の中にいても的にされるだけだ。
馬は森の手前にある半壊した馬小屋に繋いだ。馬小屋は比較的新しい木材で作られていたが、中は荒らされていた。管理している人間の気配もない。
フェンはアシュタヤに力を使うように促した。彼女は小さく頷き、目を瞑る。胸から伸びる清浄な青い〈糸〉が光を増し、広がる。
バンザッタ城全域をカバーできるほどの力だ、おそらくは半径五十メートル内にいる人間は感知できるだろう。やや前に偏った球型だという彼女の〈肌〉はその中で生きる動物の心をなぞっていく。
少しして、アシュタヤは息を吐き、顔を上げた。
「入り口の近くに二人ほど、います。攻撃するような意志はまだありませんが、敵です」
「そうですか」とフェンが前方を見澄ます。「ヤクバ、水弾を準備しておけ」
「壁はどうする?」
「敵が近くなったらまずは俺が作る……この木々の密集具合から考えても飛び道具はなさそうだがな」
「その密集具合で俺に当てろって言うのか」
先頭に立ったヤクバは逆三角の黒い盾を掲げながら、詠唱を始める。二つの水の球が中に浮き、回転とともに体積を増していった。
「あとは各自説明したとおりだ。決して深追いするな。撤退すべき、と判断したら戻って馬で引き返せ」
「馬が生きてたら、ねー。どうせその二人が馬を殺す役割なんでしょ」とレクシナがじゃらり、と鎖を鳴らした。
「右方向に一人、左方向に一人、です。距離は四十エクタくらい」
四十エクタ――三十メートル程度だ。それだけの距離があれば、木々に阻まれヤクバの水弾も当たらないだろう。フェンとヤクバは同時に舌打ちをした。
「さっと行って殺してくるか?」
「セイク、お前は離れるな」
「へいへい……、でも、どうすんだよ、さっき馬小屋の周りで何かしてたみたいだけど、意味あるのか?」
「気休めだがな、相手が馬鹿なら心配ない」
ヤクバの前進に引っ張られ、僕たちは森の中に踏みいる。街道の上空だけがぽっかりと空き、空中にも道ができていた。差し込む光はほとんどそこからだけだ。森の中は奥に行けば行くほどに暗く淀んでいる。
固まったまま十五歩ほど前進するとアシュタヤが「動きました」と声を上げた。彼女の動きにつられて、僕も後ろを振り返る。影が二つ飛び出して、馬小屋へと向かっている。
「ここからじゃ届かないな」
「あいつら……!」
「ニール、よせ」とフェンが僕の肩を掴む。「気を回すな。幸運を祈るだけだ」
背中を押され、前進を再開する。前から、ヤクバ、レクシナとパルタ、僕とアシュタヤとセイク、フェンの順になって進んでいく。道を曲げている大樹まで到達すると、後方から男の悲鳴が二つ、聞こえた。
小さく見える馬小屋の手前に、縦になった棺が二つ、出現していた。馬を繋いだときにフェンが魔法陣を刻んでいたあたりだ。突如として隆起した地面に飲み込まれ、圧殺されたのかもしれない。注意深く臭いを嗅ぐと、これは幻想にすぎないことは分かっているのだが、血の臭いが漂ってきているようにも感じた。
「あんな見え見えの接触発動の罠に引っかかるくらい馬鹿で助かったな」とセイクが鼻で笑う。「帰りは馬車二台で広々、だ」
「アシュタヤさま、敵は」
「前方に感じ始めました。左右に二人の固まりが二つずつ、ギルデンスさまやフーラァタのようなものはありません」
「奴さん、気が早いね」ヤクバが詠唱を再び行い、宙に浮いた水球が増える。「冬の水浴びはさぞ気持ちがいいことだろう」
「そろそろ来るな。無駄口を叩くのもおしまいだ」
〇
道は不自然なほどに蛇行していた。右に折れ、左に曲がり、それが何度も続いた。路面状況も悪く、進行を邪魔するかのように木の根が浮き上がっていることもしばしばだ。方向感覚が次第に狂っていくのを感じた。
僕たちの側面を着いてくる敵は未だ攻撃してきていない。まるで導くような、観察するようなつかず離れずの距離を保っている。このまま進むと、敵と行き当たった瞬間に後ろを取られ、不利な状況に陥ってしまうのでは、と考えた僕は先に攻撃をした方がいいのではないか、と進言したがパルタによって諫められた。
ここは公認盗賊の森だ。そして、盗賊が奪うものは金だけではない。
こちらが先に攻撃した場合、相手は必死に逃げるだろう。それを追おうとしても他の敵が追走を阻む。逃がした敵が駆け込むのは貴族主義を先導する人間の元だ。そのとき、盗賊は貴族の侍従と成り代わり、僕たちを貶める証言をする。そこでは彼らがどんな意図を持って森の中にいたかは重要視されない。「真偽判別」によって証明される「カンパルツォの護衛が敵対する貴族の関係者を襲った」という事実だけが天秤に乗せられる。
かといって逆に、攻撃してきた相手を生け捕りにして法廷の場に連れて行くことはできないだろう。彼らは表面上はあくまで盗賊に過ぎず、捕まえた瞬間、速やかに自害することも考慮に入れるべきなのだ。
結局、僕たちは相手が望むまま、森の中を進まざるを得なかった。
ただ、忘れてはいけないことが一つ――相手には戦いを心から望む人間がいる。それだけは頭に刻みつけて置かなければならなかった。
アシュタヤは歩きながら感知能力を使い続けている。彼女の力は持続力が弱く、見るからに足取りが重くなっていた。未だ、敵の本隊の影とはぶつかっていないらしい。
ただ、敵がいなくとも罠が設置されている可能性が高く、僕はあたりに注意を払いながら歩いた。
そのとき、右にある木々の隙間から煙のようなものが立ち上っているのが、辛うじて見えた。煙というよりは靄に近いかもしれない。目測ではあるが、アシュタヤの感知範囲の外だ。靄の向こうに、黒い影がある。
目を凝らす。
その靄が、僕の本能が生じさせた警戒の幻であることを知ったのは、黒い影の正体に気がついた瞬間だった。
ぎらついた眼光が、殺気を持って飛来し、胸に突き刺さる。口が勝手に叫んでいた。
「ギルデンスだ、壁を――」
僕が言い終わる前に土の壁が出現した。同時に、轟音が響き、壁が揺れ、崩れる。僕たちの身長より高く聳える土の壁の一部が泥となり、頭頂を叩いた。
「構えろ!」
フェンの言葉と同時に、ヤクバの頭上に浮いていた水弾が森の中へと向かって放たれた。木の上から飛びかかってきていた男に直撃し、水が弾ける。男は水圧に吹き飛ばされ、木に激突した。地面が揺れる。頭を打ち付けたのか、気を失った男は五メートルほどの高さから力なく落下した。ぐしゃり、と肉の潰れる音に、骨が折れる音が混じった。頭から落ちた男は無様な人形のように奇妙な体勢のまま固まり、手足を投げ出している。
壁に、二度目の攻撃が当たった。ここからでは見えないが、ギルデンスの攻撃であることは直感的に分かる。
アシュタヤの「フェンさん!」という声と、フェンの鞘走りの音が重なった。
「近づいてきます!」
「もう少し猶予があると思ったが、仕方ない。任せたぞ」
両手に曲刀を構え、フェンが跳躍する。木々の群れの中に入り、すれ違いざまに敵を切りつけ、フェンは森の奥へと消えていった。襲ってきた刺客の断末魔だけが道標となる。
「こっちも来るぞ!」
ヤクバが叫んだ刹那、土の壁がない正面方向から火球が放たれた。恐ろしい勢いで突き進んできた火球は彼の構えた盾に当たり、熱風が頬の横を走って行く。それが合図となり、森の中の殺気が歪に肥大した。
左、三方向から放たれた火球の二つが木々に当たり、熱と火だけを残して消える。残る一つはヤクバが展開した水の障壁に飲み込まれた。
衝撃で壁が揺れ、ぶつ切れになる。ヤクバの再詠唱よりも先に剣を持った男がその隙間に潜り込んだ。あ、と声を上げる間もなく、男の奇声が弾ける。レクシナの操る鎖、その先端の杭が深々と男の両太腿へと突き刺さっていた。勢いそのまま転がる男の頭部めがけてパルタが槍を突き出した。
男は身を捩って躱そうとするが、間に合わない。槍の穂先が首元の肉を抉る。気道をなくした男は断末魔を上げる暇もなく、倒れたまま痙攣を始めた。三つの刃物が同時に引き抜かれ、舞い上がった血が再構成された水の壁の中に混じった。
「右! 三人!」
アシュタヤの声に反応したのは僕とセイク、そして、敵の内の一人だった。フェンが生み出した土の壁を越えて、槍を持った黒装束が現れた。
槍はアシュタヤへと向けられている。
だが、僕がそれを視認した瞬間、黒装束の身体は横に両断されていた。跳び上がって迎え撃ったセイクが黒装束の上半身と同時に着地する。死の間際、黒装束が投げようとしていた槍は手から離れた瞬間に地面へと落ちた。
呆けてはいられない。
若草色の光が炸裂する。僕は〈腕〉を土の壁の向こうへと伸ばし、右から左へと思い切り薙ぎ払った。困惑の混じった悲鳴が三つ、間を置いて上空へと放たれ、土の壁の端からごろごろと敵が転がり出てきた。体勢を整えようと地面に手を突いた男が硬直する。
影が横切る。
風魔法を詠唱したレクシナの影、そこから放たれた杭が、地面に伏せている男たちの頸椎部へと、左から順に突き刺さる。ざく、ざく、ざく、とテンポ良く、絶命が重なった。
深々と突き刺さった杭を回収するためにレクシナの動きが一瞬止まる。
狙い澄ましたかのように、遠くで光が走った。
「レクシナ、降りろ!」とセイクが叫んだ。火球が密生する木々を焼き抉りながら進んでくる。あの火球を〈腕〉で叩き落とせるか?
そう考え、〈腕〉を伸ばしたのと同時に、レクシナの周囲に泡が生まれた。ごぽ、と宙に沸いた水は爆発的に面積を増していく。火球が迫る。レクシナの身体が重力に従い、落下を始める。だが、間に合わない。
直撃する――そう直感した瞬間、火球が水の壁に着弾した。一瞬、勢いが弱まり、その間にレクシナの身体が滑り落ちた。
「あっぶなー!」
レクシナの頭上に広がっている水の壁は十分ではなく、火球の勢いに負け、音を立てて蒸発した。そのまま火球は樹へと突き刺さる。轟音と爆発で、焦げた臭いとともに葉がぱらぱらと地面を叩いた。
生木が燃える臭い。広がり始める熱。ぱちぱち、と火球に触れている葉が弾ける。
燃え始めた木々のずっと奥で剣戟の音が響いていた。フェンとギルデンスも戦いを始めているようだった。
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