53 公認盗賊の森
セムークから街道を北進し、次の宿場町とのちょうど中間に森がある。それほど大きい森ではない。むしろ、どうしてわざわざ森の中を街道が走っているか訝りたくなるほどの規模だ。伐採なり迂回なり、方法法はあるだろうに、と思った。
それはもっともな疑問だったらしい。日が落ちる頃、食堂、明朝の作戦に参加するメンバーの中心でフェンは地図を指し示しながら「公認盗賊の森と呼ばれている」と呟いた。
「公認? どうして盗賊が公認されるのさ」
「まあ、皮肉だな」とヤクバが答える。「ここの領主オルウェダは黒い噂が絶えない。盗賊と協定を結んで敵対貴族の乗った馬車を襲撃してるんじゃないか、って言われたりしてる。オルウェダ領とメイトリン領とは仲が悪いからな」
「森を切り開くか、他の場所に街道を敷設するように再三要請されているらしいが、資金難だとかなんとか言って実行されない」とフェンが補足した。
「わざわざそんな、僕たちに予想されている場所で待ち伏せるの? 僕だったら他の場所にするけど」
「噂が流れていることも織り込み済みなんだろう」とパルタが肩を竦めた。「相手にしたら伯爵の監査を中断させられればそれでいい。飛び込んでくるならそれも与しやすい」
僕は地図に目を落とす。それなら迂回ルートを選択した方がいいのではないか、とも思えたが、その考えは地形に嘲笑われた。
街道の東側は山脈が連なっている。道は整備されておらず、馬車ではとても越えられそうにないらしい。メイトリンまで続く山脈地帯が国の中央部と西部を完全に分断していた。
街道の西側には大きな湖が描かれている。地図の精度がどれだけのものかこの世界の技術では信頼はできないが、それでもかなりの面積を有しているようだった。そちらのルートでは走行距離が二倍近くにもなってしまう。宿場町もなく、疲弊したところを突かれればひとたまりもない。
公認盗賊の森、それは地形を活用してルートを限定するからこそ生まれた名前だった。選択肢を消し、旅人に森を突っ切ることを強制する。ここまで都合がいいと中間にあることすら何らかの人為的なもの、すなわちオルウェダたちの企みを感じさせた。
「じゃあ、小細工はなし、ってことね?」レクシナの簡潔なまとめにフェンが頷くと、彼女は下唇をぬっと突き出した。「森の中ならアシュタヤちゃんが欲しいなあ」
「レクシナ」とフェンが諫める。
「分かってるってば。あたしだってアシュタヤちゃん好きだし、怪我させたくないよ」
「で、フェンさん、作戦はどうする? とはいえ、こうも単純な戦い方だと作戦も何もあったものじゃないと思うが」
「ああ、基本は固まって近づいてきた奴から倒していくことになる。森の中だ、飛び道具は使えない――まあ、使ってきたとしても俺とヤクバではじき落とすが」
「壁か……あれ、魔力も詠唱もしんどいんだよな」
「王都に着いたら酒を奢ってやる、それで我慢しろ」
「乗った」
「へえ、フェン、あんた意外と話が通じるじゃない。私も参加するね」
「構わないが、レクシナまで防御に回ると攻撃の手が回らない。お前は」
「はいはい、いつものとおりね」
「パルタさんはレクシナと同様に、壁の外で飛び込んできた敵を倒してくれ。魔装兵がいるようなら無理せず退却してレクシナの援護を」
「ああ、任せてくれ」
「僕は」と声を上げる。「僕は何をすればいいの?」
「ニールは壁の内側で二人の援護だ」
「……ちょっと待ってよ!」
納得がいかなかった。この局面でも誰かに守られながら戦うなど、情けなさすぎる。僕は机の上に手をつき、身を乗り出す。
「僕も前に出る」
「ニール、勘違いするな。この戦いはおそらく王都までの旅の成功を左右する。こちらも出し惜しみするつもりはない」
「それがどうしてニールちゃんを壁の中に入れることに繋がるの?」
「レクシナ、ニールの力を知らないのか?」
「いや、知ってるけど。物を動かせるんでしょ?」
「そういうことじゃなくてだな……」フェンはちらりと僕を一瞥する。「ニールの〈腕〉は物体を透過できる」
「あ」
僕すらも忘れていた。
そうだ、僕の〈腕〉は物質ではなく、エネルギー体だ。しかも作用する範囲を自分で決めることができる。バンザッタの客邸でもレンガの壁越しに樹を掴んでいた。
僕の上げた素っ頓狂な声に呆れたのか、フェンは眉根を寄せた。
「なんだ、お前が斡旋所でウェンビアノさんに会ったとき、実演したというのに」
「でも、意識すること、なかったから」
それに、実演したのはこちらに来たばかりの頃だ。言われれば思い出せるが、逆に言えば指摘されなければ思い出せない。
「えっと、つまり、どういうこと?」
「つまり、僕は壁の中から外に攻撃できるってことだよ」
「え、何それずるくない?」
「ずるいからこそ」と強調するようにフェンは声色を強めた。「ずるいからこそ、使わせてもらう。そこまでは奴らも知らないだろうからな。……ひとまず、これが基本的な戦い方だ。何か質問はないか?」
僕たちは顔を見合わせ、互いに質問がないことを確認し合った。十秒ほどの沈黙のあと、フェンが「じゃあ、本題だ」と言った。
本題――それは、基本的な戦い方をできない場合のことだった。ギルデンスやフーラァタが出てきた場合の戦い方。
「まず、始めに言っておく。もしギルデンスが出てきたら手を出すな。引き離して俺が戦う」
「もし、ギルデンスが仲間と同時に襲ってきた場合はどうしようか?」とパルタが訊ねる。「さすがにそれだと厳しくはないかな?」
「いえ、問題はありません」
フェンがそう答えた瞬間、音が消えた、気がした。全身から発せられている怒りにも似た力強さが周囲から届く音を切り落としているようでもあった。鋭くなった彼の目つきが遠く、どこかへと向けられている。
一瞬、気圧されかけ、僕は唾を飲んだ。初めて見る表情に、息がつまる。
「まず奴は他人と協力しないでしょう。戦うなら自分が不利な状況下の方を好むし、何より生半可な連中はむしろあいつには邪魔になる」
「しかし、今回もそうだとは」
「大勢を引き連れてきたところであいつほどの使い手はそういません。雑兵がいくらいても……一瞬で片をつけられます」
それが彼の自惚れではないのは容易く理解できた。背筋を這う冷たい感触に震え上がりそうになる。あの日――棄て去られた村でギルデンスの思惑を感知してから彼に着いた冷たく重い火がぼんやりと彼の背後で揺れていた。
フェンは下ろした左手を強く握っている。力の込められた腕の筋肉が隆起し、わずかに震えていた。
「どちらにせよ、ギルデンスが出てきたら俺が戦う。他は四人で対処してほしい。ただ、そのとき問題になるのは」
「フーラァタ、か」
「ああ、奴もギルデンスとは別の意味で群れようとしない。四対一の状況になるならそれがいちばんだが、相手もそれなりの人数を投入してくるだろう。乱戦となれば奴の機動力がなくなるからこっちのものだ。……ただ、レクシナ」
「大丈夫、あたしはあいつにちょっかい出すつもりはないから」
レクシナの武器は杭のついた鎖だ。身体能力が高く、雷を扱うフーラァタとはとことん相性が悪い。メイトリンで見た奴の反応速度ならば鎖を捕まえることも容易のはずだ。
「フーラァタに関してはヤクバができるだけ相手してくれ」
「任せろ。一度勝った相手だ、問題ない」
「ちょっと、ヤクバ、ほとんど引き分けだったじゃない」
「あれは俺の勝ちだった」
「話を続けるぞ……、ギルデンスとフーラァタが同時に出てきた場合だが、ヤクバは今言ったとおり、奴を止める。レクシナは位置に注意しながら雑魚の数を減らしてくれ。ただ、人数が多ければそれなりの手練れが出てくる可能性もある。その場合、パルタさんはレクシナの援護を主に、ニール、お前は思い切り場をかき乱せ」
「分かった」
「ただし、味方に当てるなよ。投げ飛ばすならフーラァタのいる方か、輪の外側だ。ここまでで何かあるか?」
僕以外の三人は今の指示を反芻するように頷いている。彼らには別段気になることはなかったらしい。
だが、僕には聞いておかなければならないことが二つあった。
一つは、他に強力な魔装兵がいた場合のこと、だ。僕たちの構成が異常なだけで、本来、魔装兵など数えるほどしかいない。それも、多くは魔法も近接戦闘もできる、というだけで、効果的に連携できる人間、となればさらに少ない。
しかし、だからといって、考慮から外すのはあまりに拙いように思えた。
フェンは答える。
「そうだな、もし、ギルデンス、フーラァタと並ぶ魔装兵がいたら、即時撤退だ。そうなったら数の差で押しきられるからな」
「でも、ニール、それはほとんどありえん」
ヤクバの口調は断言に近い。
「そもそも、フーラァタが他の誰かとつるむ、ってのがおかしいんだ。あいつは自分より強い奴を許さない。近い強さの奴が傍にいたら内部崩壊してるさ……ギルデンスと行動しているのが信じられないくらいだ」
「金の問題もあるから、魔装兵はその二人くらいだろうね」とパルタが追従する。「傭兵にも魔装兵はいるが、そいつらを雇うには金がかかるんだよ。本当に来るかも分からない、っていう作戦に用いるのは考えにくい」
「なるほど……じゃあ、もう一つなんだけど」
僕が挙げたのは言うまでもない、フーラァタの問題だった。
フーラァタが自分より強い人間の存在を許さない、というならば、ジオールを、つまり、「ニール」を狙うはずだ。いかにヤクバが足止めを担ったとしても、彼の戦い方は「待ち」の側面が強い。一対一の場面ならまだしも乱戦となったら、矛先は僕に向かう気がした。
「フェンも分かるだろ? メイトリンに行くまでのときもあいつは僕を狙ってきた。今回はその比じゃないと思う」
「そのときはできるだけヤクバのそばにいて欲しいのが本音ではあるが、そうだな……もし、それができないときは、誰でもいい、仲間から離れるな。お前と奴では経験値が違いすぎる」
「……分かった」
僕は首肯したが、それはほとんど形だけのものだった。
メイトリンで、僕はセイクのそばから離れようとしなかった。そのせいで彼は深い傷を負った。一歩間違えば死があり得たのだ。
ヤクバもレクシナもパルタも、「助けてやれない」と言ったフェンも、その場面になったら僕を助けようとするだろう。その結果、彼らを傷つけるのはごめんだ。
僕が勝てなくても、他のみんなが勝てば、うまくいく。
僕は盾だ、周りを危険に晒すのは役目ではない。
弱気を装いながら、みんなに媚びるふりをする。誰にも悟られてはいけない。
誰かのためにした勝手な行動が裏目に出て、他人を危険な目に合わせた経験はある。それは既に承知だ。けれど、今回ばかりは別に思えた。投げたコインが裏になったとしても、狂人は何の意図もなくそれをひっくり返す。
裏の裏は、表だ。
〇
明朝、僕たちはセムークを出発した。夜の間中、ずっと晴れていたせいで、熱は根こそぎ空の上へと放たれている。外気に触れている耳がちぎれそうになるほどの冷たい空気が流れていた。
偽装のために二台の馬車に分乗し、霜の降りた街道を進んでいく。目を瞑り、耳を澄ませる。朝の冷たい空気は静寂に満ちていて、あらゆる音が澄んだまま鼓膜へと届いた。
馬の蹄、踏みしめられる凍りかけた草、回転する車輪、自分の鼓動、向かいで眠そうに膝を抱えるレクシナの呼吸――。
その瞬間、違和感が生まれ、僕は目を開けた。
呼吸が多い。
立ち上がり、〈腕〉を広げる。寝ぼけ眼を擦りながら「どうしたの」と訊ねてくるレクシナに、僕は口の前で人差し指を立てて応えた。
耳を欹てる。
他の音に紛れて判別しづらいが、二つ、聞こえる。前方の隅だ。荷物はほとんど下ろしていたが、馬の蹄鉄や毛布などが置かれていて、隠れるスペースはある。幌を開けて光を入れると被せられた布が人の形に膨らんでいるのが見えた。
敵か、と思い、すぐに胸中で否定する。こんな杜撰な敵がいてたまるか。
その否定がどんな意味を持つのか、僕は薄々勘づきながらも、そっと右隅の布を捲った。
同時に、膝から崩れ落ちそうになる。
「アシュタヤ……」
「えっと、ニール、おはよう」
何をしているんだ、と頭を抱える。反対側の隅ではセイクが起き上がり、伸びをしていた。レクシナが「あれ、なにしてんの」と夢見心地で言っている。
どうすればいいんだ?
〇
「引き返そう、ヤクバに言って馬車を止めてもらう」
その結論に至るまでにそう時間はかからなかった。彼らはここにいるべきではない。むざむざ仲間を危険に晒すことなど僕にはできなかった。
立ち上がり、御者台の幌を開けようとする。
そのとき、僕の右手首に、アシュタヤの冷たい指が絡みついた。
「ニール、お願い」
「……アシュタヤ、いい加減にしてくれ。きみの言い分は承知しているつもりだよ。きみがいれば、確かに敵の位置が分かる。でも、きみも、セイクも、満足に戦えないだろ? もし、とり返しのつかないことになったら、僕はどんな顔をして生きていけばいい?」
「でも、ニール、それはこっちも同じじゃない」
「同じじゃないだろ!」
僕の怒号に、一瞬、馬車の速度が遅くなった。幌の外で「どうした」とヤクバが声を上げるが、答える者は誰もいない。
アシュタヤは少しも怯まずに、僕の目を見つめていた。瞳には恐怖の揺らぎはなく、彼女の短剣を取り返しにギルデンスの元へと向かったときとほとんど同じ表情をしていた。強い意志と覚悟を持った目だった。
「……危険なのは知っているわ。でも、逃げてどうなるの?」
「これは『逃げ』じゃない。それくらい分かるだろ?」
「いいえ、戦える人間が、戦うべき時に戦わないのは『逃げ』以外の何物でもない」
頭の中で熱が弾ける。
どうして分かってくれないんだ、と叫ぼうとしたとき、「私は!」とアシュタヤは僕の腕をぎゅっと掴んだ。
「私は――今まで何度も逃げてきた。あなたがあの日、一人で城の外に出て行ったとき、私は着いていくべきだと思っていたのに、そうしなかった。危険がそばにあると信じるのが怖かったから」
「あれは」という僕の弁明は、またも遮られる。
「ラ・ウォルホル戦役もそう。人殺しの指揮を執っていると気がついたとき、私は戦場から逃げた。そのせいで必要のない犠牲が出てしまった。……ニール、私もあなたに同じ質問をするわ。今回も逃げて誰かを失ったら、私はどんな顔をして生きていけばいいの?」
アシュタヤは僕の知らない十七年間をぶつけてくる。
感情は炎によく似ている。吹き消そうとする誰かの言葉によって勢いを増し、水をかけられて消えたとしても、黒い焦げが残る。炭化した感情はふとした拍子に転がり、心の壁に汚れを撫でつける。
それを、僕は否定できない。
けれど、だからといって、看過することもできなかった。彼女の心の内で燃える炎があれば、僕の内側でも炎が燃えている。
彼女を危険な目に遭わせたくはない。
小さく首を横に振ると、アシュタヤの表情は僕の胸が締めつけられるほどに曇った。目の中に宿っていた強い光が弱々しく揺れる。ちくり、と確かな痛みが身体の内側に広がる。
これ以上、彼女と向かい合っていると心がばらばらになりそうな予感があり、目を伏せて、手首を掴んでいる彼女の指をほどいた。彼女はわずかな抵抗を示したが、すぐに力なく僕の腕を放した。
「……ヤクバに言ってくる」
「ねえ、ニールちゃん、あたし、反対なんだけど」
幌に伸ばした手が止まる。振り返ると、レクシナは難しげな顔をして腕を組んでいた。
「反対、って何が」
「反対、っていうか、賛成?」
要領を得ない返答に苛立ちが募る。「レクシナ、はっきり言ってくれないか」
「だからさ、セイクもアシュタヤちゃんも一緒に連れて行こうよ」
「レクシナさん」と背後でアシュタヤの声が跳ねた。
「だってさ、たった五人で戦うのきついよ? 相手が何人いるかも分からないのに」
「レクシナ、きみは今、何を言っているのか、分かってるのか?」
自分のために、仲間を壁にしようとしてるんだぞ。
失望と怒りが爛れるような毒を胃の中に落とした。
僕はレクシナを睨む。けれど、彼女はゆっくりと首を振った。
「まあ、それは建前。あたしはニールちゃんが正論を言ってるのは分かるよ。……でもさ、ニールちゃん。それ……、すごい寂しいよ」
「……寂しい、ってなんだよ。そんな感情論、正当化できるわけないだろ」
「感情論がこの世でいちばん強い論理だよ。何かが起こった後で、どれだけ慰められても納得なんてできないんだから。もし、ニールちゃんが死んだら、アシュタヤちゃんはいろんなものを憎むと思う。誰よりも、自分を」
「それは……」
「あたしもさ、あのときセイクが死んでたら、きっと誰よりも自分を責めてた。あのときさ、何でもないことだと思って馬鹿みたいにお酒飲んでたじゃない? 帰ってきてニールちゃんからセイクが刺されたって話を聞いたとき、死にたくなった。なんで、もっと真面目にやらなかったんだろう、って。ヤクバとセイクだけがあたしの家族なのに、って」
僕はセイクを一瞥する。彼は胡座を組んだまま見つめてきている。まるで彼の言葉を代弁するかのように、レクシナは言った。
「あたしは普段からやりたいことをやるし、他の人もそうすればいいと思ってる。だから、アシュタヤちゃんにもやりたいことをやらせてあげたい」
「……それで、もし取り返しのつかないことが起こったら」
「それでも、ずっとマシだよ」
「僕の気持ちはどうなるんだ。感情論がいちばん強いっていうなら、僕の気持ちを無視しないでくれよ」
それは、とレクシナは口ごもり、顔を伏せた。
彼女に一瞬抱いた失望や怒りは既にもうない。けれど、納得はできなかった。
沈黙の帳が馬車の中に降りる。規則正しく進む蹄の音が響く。こうしている間にも、僕たちは死地へと近づいていて、もはや猶予などないのだ。
「なあ、ニール坊、今回ばかりは見逃してくれねえか」
「……セイク、なんでアシュタヤを唆したんだ」
「違えよ、唆されたのは俺の方だ」と否定し、彼はアシュタヤに目を向ける。「アシュタヤちゃんは昨日の夜からずっと俺にどうにかならねえか、って言ってきた。もちろん俺も止めたけどよ、いくら言っても聞かねえんだ。なんでだと思う?」
僕の口からそれを言えというのか。
セイクの質問は僕にとって、もっとも容赦のないものだった。
アシュタヤが馬車の中に潜り込んだ理由など明白だ。彼女自身も「逃げたくない」と言った。なぜ、逃げたくないのか――。
彼女は僕たちを守ろうとしている。偶然によって押しつけられた感知能力という、武器にもならない力を剣に代えて、だ。
理性では理解していた。彼女の力があれば、僕たちは不意打ちを避けられる。もし、乱戦がひどくなり、味方からはぐれても見つけてもらえる。悪意の量を見れば、ギルデンスやフーラァタの位置も分かるだろう。人の位置が分かる、というのは見通しの悪い場所での戦いでは何よりも頼りになるものの一つだ。
「ニール」ともう一度彼女は言う。「お願い」と。
――僕は弱い。歯を食いしばり、強く目を瞑って、心の中でだめだ、と自身に何度も言い聞かせる。
でも、僕は頷いてしまった。意志と生命を天秤にかけたつもりはなかったが、彼女の意志を否定するのはできなかった。
「ありがとう、ニール」
「でも、一つだけ、約束してくれ。誰かが危険だからと言って、自分の身を投げ出すのは絶対にしないでくれ」
「うん、約束する」
「セイクも」僕は彼に懇願するように言った。「もし、彼女が危険であると判断したら無理矢理にでも彼女を連れて逃げてくれ。僕が守るよりもずっと安心できる」
「ああ、それくらいは約束する。雑魚相手なら簡単に逃げ切れるさ」
「じゃあ、フェンに説明しに行こう。僕も頭を――」
その瞬間、不意に馬車が揺れた。
がくん、とバランスを崩し、床に手を突く。身体が慣性で前にずれ、倒れそうになるのを危うく堪えた。
馬車が止まっている。
背筋の上を危機感が翻る。僕が幌の前方を、レクシナが後方を開けたのはほとんど同時のことだった。
「ヤクバ!」
手綱を握りしめたヤクバが馬を宥めている。彼の言葉を待つ時間も惜しく、振り返ると、一頭の馬が迫って来ているのが見えた。
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