55 常緑樹の罠

 密集したクスノキは葉が触れ合うほどに近く、すぐさま延焼を始めた。他の場所にも火球が放たれていく。煽るように風が吹き、先ほどまで暗かった森の中に赤々とした、暴力的な明かりが生じた。

 山林火災の中心に人がいたとき、人体にどの程度の影響があるのだろうか。熱は肌を焦がすほどに高まっていく。息苦しさを感じた。炎が獣のように皮膚を牙を立て、二酸化炭素が毒のように身体を蝕んでいくような気がした。

 僕の隣でアシュタヤが苦しそうに胸を押さえている。彼女の胸の〈糸〉から発せられる燐光が弱々しく揺れていた。維持し続けた力と炎のトラウマ。

 限界だ。僕は彼女の肩を押さえて、超能力の使用を中止させようとする。だが、アシュタヤは首を横に振った。


「大丈夫、それより、右から大勢」


 力なく指さされた先にある土の壁が魔力を失い、ぽろぽろと崩れ始めていた。その向こうには燃焼する木々と向かってくる集団の気配がある。


「ここはまずいな」とヤクバが左側に広がる森へと首を捻った。「中に入るぞ」


 後退はできない。あからさまに来た道を引き返すと、今僕たちを襲おうとしている集団はフェンの元へと向かうかもしれない。フェンが走って行った方向とは異なるが、もはや取れる選択肢はなかった。

 僕はアシュタヤを支え、森の中に飛び込んだ。遅れて全員が入ってくる。鼻が血と肉と炎の臭いに麻痺し、静寂に満ちた木の香りは感じられない。聞こえる音は炎が木々を飲み込む音と湿った土を踏む靴の音、それとアシュタヤの小さく短い呼吸の音だけだった。


「アシュタヤ、力を使うのはやめるんだ。倒れたらどうにもならない!」

「でも」


 彼女はそう言ったけれど、やはり限界だったのだろう、〈糸〉は蝋燭の火が消えるかのように揺れ、光をなくした。周囲から火がなくなったせいもあるのか、少しだけアシュタヤの呼吸が穏やかになる。

 進む方向を決めたのはヤクバだった。フェンは右に広がる森の奥ではなく、街道沿いに消えていったため、できる限りその方向を目指して走った。敵も僕たちを追ってきている。木々の間から黒装束が追ってくるのが垣間見え、その顔はいちように嗜虐心で邪悪に歪んでいた。


「セイク!」とレクシナが叫ぶ。「速いの、何人?」

「四だ」

「ヤクバ、行っていいでしょ、このままじゃ」


 レクシナの目がアシュタヤとパルタへと向けられる。

 確かに僕たちは前進を続けていた。だが、全員が同じ速度を維持できるわけではない。体力を消耗したアシュタヤと鎧を着たパルタが明らかに遅れ始めていた。パルタが着ている鎧は軽装とはいえ、動きを阻害する。元々俊敏ではない彼と、軽い武器だけを持って追ってくる敵とは如何ともしがたい速度の違いがあった。

 一瞬の逡巡の後、ヤクバが舌打ちをした。


「たった四人だ、迎え撃つぞ!」


 僕たちはほとんど同時に止まった。慣性の着いた身体、湿った土、滑りそうになるのを堪えた瞬間、追っ手が攻撃を始めていた。

 身体の横を風が突き抜ける。

 パルタの構えた槍が虚空へと突き出された。

 跳び上がっていた追っ手がその空間へと吸い込まれるように移動する。穂先が胸へと突き刺さり、肉を切り開いて、貫通した。

 人一人の身体が突き刺さったまま、パルタは槍を左に払う。槍が描く弧の上に刺客がおり、その男に遠心力が乗った一撃がぶち当たった。

 ぐしゃっ、という低い音が木々の隙間に響き渡る。


 あと二人だ。僕はアシュタヤを背に隠し、〈腕〉を思い切り伸ばした。おおよその狙いで〈腕〉を叩き付けると、剣を構えていた敵が巨人に踏みつぶされたかのように地面に這いつくばった。レクシナの鎖が僕の頬のすぐ横を走り、もう一人の刺客の肩に突き刺さる。その刺客めがけてセイクが突進していく。

 セイクの振るう黒い直剣は、ゼリーを切るような滑らかさで、刺客の首と胴体の間を通った。胴体との接続をなくした頭部が事態を理解していないかのように、僕を見据えたまま三度まばたきをして、転がる。ぱくぱくと口が動く。目玉がぎょろりと上に回転し、顔面が貼りついた球体はそれきり、静止した。

 頭部のない、痙攣する胴体の隣で、地面に叩き付けられた男が立ち上がろうとしている。その胸にセイクが剣を突き立てる。胸から剣を生やした男は口から大量の血液を吐き出して、地面に崩れ落ちた。


「森の中じゃ動きづれえ、いったん開けたところに戻ろうや」


 冷たい声でセイクが言い、パルタが頷いた。

 僕は目の前に転がる物言わぬ死体に目を奪われている。

 これは掃討戦だ。僕たちの勝利条件は敵を殺しきること。どこに何人いるかも分からない敵を、だ。

 走ったせいで汗が全身から噴き出している。いや、これは走ったせいだけなのか?

 かつてアシュタヤが指揮を執っていたというラ・ウォルホル戦役、それはゲリラ相手の掃討戦だったという。このきりがない殺し合いを彼女はベルメイアと同じくらいの年齢で行っていたのか。

 戦っていた時間はそう長くはない。だが、のし掛かるような疲労感が生まれていた。


「おい、ニール坊、ぼさっとしてんな。体勢を整えるぞ」

「え、ああ、……うん」

「ほら、アシュタヤちゃんも大丈夫か? 俺が肩、貸してやるよ」

「……ありがとうございます、すみません」

「本当に働かなきゃいけないのはこれからだろ」

「……そうですね」


 アシュタヤは気丈に笑う。

 追っ手は途絶えていたため、息を整えるくらいの余裕はあった。僕たちは乱れた隊列を立て直しながら街道があると思われる方向へと進む。それほど深くまで入ったつもりはなかったが、道が蛇行しているためか、一向に街道は見えなかった。

 痺れを切らしたのか、レクシナがヤクバの肩を叩く。


「ねえ、ちょっと上から見てきてもいい?」

「ああ、頼む」


 鬱蒼とした木々の中、レクシナは素早く詠唱し、浮かび上がっていく。

 その瞬間、僕は目を見開いた。木々の間に人工的な線が走っている。密度はさほどないが、木と木を繋ぐように灰色の線が張り巡らされていた。葉で隠されているが、何か、見たことがあるようなかたちが見える。

 そして、危機感が翻った。

 なぜ、急に攻撃がなくなった? どうしてフーラァタが出てこない?

 火球、四人だけの追っ手、蛇行した街道。思考が誘導されているような、気味の悪い違和感が背筋を突き抜けた。

 あの線は――。


「レクシナ、飛ぶな!」

「え――」


 木の葉の屋根を掻き分けていたレクシナの手が張り巡らされていた鉄線に触れる。上空に魔法陣特有の発光がフラッシュし、ばじっと、火花が散った。

 接触発動の罠――鉄線で作られた魔法陣だ。

 空中でレクシナの身体が弓なりに反る。風の魔法が雲散し、彼女はくるりと半回転して、落下を始めた。


「レクシナ!」


 叫んだヤクバが滑り込み、彼女の身体を捕まえる。どん、と鈍い音がした。


「おい、大丈夫か!」

「う、あ……まずった……」


 息も絶え絶えにレクシナが呻く。その声にヤクバとセイクが同時に溜息を漏らした。

 彼女は立ち上がろうとするが、再びヤクバの胸の中に崩れ落ちる。大丈夫か、とヤクバが頬を叩くが、彼女の眼球は電流が未だ体内を駆け巡っているかのように揺れ動いていた。


「あの野郎……」

「セイク、落ち着け!」


 パルタが諫めるが、セイクの表情から憤怒の色は消えない。音が聞こえてくるほどに奥歯を噛みしめている。

 無理もない。この中でフーラァタの電撃をもっとも強く味わったのはセイクだった。あのときの痛みが怒りとなって肌を焼いているのだろう。上空を走る鉄線に歯噛みし、それから周囲を睨め回した。今にもフーラァタを探し、飛び出していきそうな気配があった。

 それを察したのか、「セイクさん、落ち着いて」とアシュタヤが彼の腕を引く。


「セイク……あたしは、大丈夫」とレクシナが空を見上げながら、声を発する。


 だが、彼の怒りは着地するべき地面を失っているようだった。全身が強張り、震えている。握りしめられた剣からぎりぎりと音が聞こえてくる。

 ――このままではまずい。怒りは正常な判断を阻害する。感情に身を任せた先にあるのは破滅だけだ。


「ヤクバ!」と僕は声を上げた。セイクが冷静になるだけの時間を稼がなければならない。「レクシナに火傷とかはない?」

「あ、ああ」ヤクバはその言葉で我に返ったのか、倒れているレクシナの手のひらに目をやる。「少しあるな」

「水で冷やして、できればレクシナに水を飲ませるんだ」


 記憶ストレージが正常だったら、と歯噛みしながら、頭の隅にある知識を必死で思い返す。

 感電事故は超能力養成課程でもそれほど珍しい事故ではなかった。エレキネシスの暴発で被害に遭う人間は少ないが、いないわけではない。緊急時の応急処置程度は講習で受けていた。

 僕はレクシナの元に駆け寄り、目の前で手を振る。少し意識が朦朧としているためか、眼球の運動は鈍かった。だが、受け答えもはっきりとしている。通電していた時間が短かったのか幸いだった。五分か十分もすれば行動できるようにはなるだろう。


「アシュタヤ、ごめん、敵は近い?」

「……ううん、私が感知できる範囲のぎりぎり、くらい」

「ありがとう……セイク、レクシナは大丈夫だ。しばらくすれば歩けるようになる」

「……しばらく、ってどれくらいだよ」

「たぶん、十分もあれば。そうなったら、レクシナには退いてもらおう。レクシナなら木の上を移動して馬小屋まで戻れる」

「あっちに敵がいる可能性もあるだろうが! そうなったらレクシナはどうなんだよ!」

「それは……」

「もういい、ニール」


 落ち着いたヤクバの声色が僕たちの間に落ちた。彼は立ち上がり、レクシナに肩を貸し、起き上がらせる。


「おい、ヤクバ、もういい、ってどういうことだよ」

「ここでぐだぐだ言い合ってても状況が悪くなるだけだ。……セイク、お前ならレクシナを担いで馬小屋まで走ってもそう時間はかからんだろう? 元々お前は戦力に数えられてなかったんだ」

「でもよ!」

「心配するな、相手も大した人数じゃない。わざわざ逃げる相手を殺すために人数を裂けるとは思えないし、もし馬が殺されててもお前ならレクシナを守れる。馬が生きてればレクシナには安全な場所まで走ってもらえばいい。それでいいな、レクシナ?」


 ヤクバはレクシナの頭に手を乗せ、顔を覗き込んだ。脱力している彼女は精一杯だとこちらにも分かるような笑みを作り、頷く。


「ラク、ショー、だよ」

「よし。セイク、ほら、重いんだ、さっさとレクシナを持って行け」


 ヤクバはセイクの元まで歩み寄り、レクシナを彼へと預ける。セイクは何か言いたげに唇を噛んでいたが、一度顔を伏せ、それから、レクシナを担ぎ上げた。


「ヤクバ、パルタのおっさん、アシュタヤちゃん、……それから、ニール坊、後は頼んだ。馬が無事ならすぐ戻ってくるからよ」

「ああ、任せておけ」


 ヤクバがセイクに背を向ける。それと同時にレクシナを背負ったセイクも駆けていった。木々の間を縫うようにして走る彼の姿はすぐに視界から消える。


「……敵が近づいてきています」

「さて、作戦の続行だ。呆けている暇はない」


 ばらばらになる危険性を唱えることもできない。僕は返事をし、前進を再開する。

 ――レクシナは護衛団の中でも一二を争うほどの攻撃力を持っていた。偵察能力も優れている。それを見越して敵もあんな罠を仕掛けていたのだろう。これまで僕が見ていたのは前か、敵か、地面だ。空を見上げる余裕など、なかった。

 不安ではあるが、選択肢はない。

 僕は〈腕〉を展開したまま、ヤクバの横を走る。

 ちらりと彼の方を見やった瞬間、息を呑んだ。

 冷静なヤクバでも、おちゃらけたヤクバでもない顔――怒りで歪んだ鬼のような形相に身体が竦みそうになった。僕たちの中でもっとも怒りという感情から遠い彼の激昂に、頼もしさより先に恐怖を感じる。


「ヤクバ……?」

「ニール、悪いな」とヤクバは低く沈んだ声で謝罪する。


 悪い? 何が?

 意味が分からず、僕は問い返せない。ふと気付くとヤクバの頭上に水の球が生まれ始めていた。一つが二つになり、四つになる。

 同時に鬱蒼とした木々が途切れ、横に伸びる土色の道が現れた。

 街道だ――そう考えた瞬間、四つの水の球が放たれた。ヤクバの巨大な身体が躍動する。前方から放たれた弓矢が彼の持つ盾に弾かれて甲高い金属音を立てた。

 全身を包むような咆哮が轟く。周囲にいるすべての生き物が心臓を鷲づかみにされたかのように止まる。それは僕たちだけではなく、街道から矢を放ってきた刺客も同様だった。一列に並んだ四人の刺客たちは小さな弓に矢をつがえたまま、固まっていた。


 次の瞬間、ヤクバが放っていた水の球が彼らの頭を飲み込んだ。

 球体の中、一斉にごぼ、と気泡が生まれる。心構えなく空気を奪われた刺客たちは動転し、矢を放ったが、すべてがあらぬ方向に消えていった。水の球は酸素を求めてもがく刺客の動きに追従し、絡みついたように離れない。

 怒りに満ちた詠唱を続けながら、ヤクバが近づいていく。腰に刷いていた短剣を抜き、構えた。デギ・グーを仕留めたときの光景が脳裏を過ぎる。

 だが、ヤクバの行動に、あのとき見せた慈悲深さは欠片もなかった。彼は握った短剣を刺客たちの胸――、心臓ではなく、肺を貫くようにして、突き刺していった。血液とともに空気が漏れ、苦悶の表情がより濃くなる。

 そのうち、一人が口から血を吐いた。水の中を血液が泳ぐ。ほどなくしてその男が膝から崩れ落ち、刺客たちは糸が切れたかのように、一人ずつ地面に倒れていった。

 楽にするためではなく、苦しませるための、殺し方。

 僕もアシュタヤも、パルタも、言葉をなくしていた。温厚なヤクバが見せる激憤に、何も言うことができないまま、立ち尽くす。


「悪いな……セイクにはああ言ったが、俺も煮えたぎっている。嫌なものを見せるかもしれん」

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